第16話 深層へ
夜明けの黒のゲートの前に、七人が揃った。
リディア。ヒルダ。ミーシャ。ノワール。ゼノン。アルベルト。そして、レオンハルト。
彼の袖口には、銀の枠の石が二つ光っている。腰には父から受け継いだ黒鋼の剣。背負う荷は、ほんのわずかだった。残りは、リディアが作った革鞄の中にある。荷馬車三台分の荷物が入り、重さも感じさせない鞄だと、彼もこの八週間で知っていた。それでも、背筋の線はすっかり変わっていた。
「留守は、お任せください」
見送りに立ったオットーが白髪の頭を深く下げた。
レオンハルトは静かに頷いた。
「十四日で戻る。それを過ぎたら、皇帝陛下へ報せを」
「承知いたしました」
オットーがもう一度、深く頭を下げる。
レオンハルトは祠に膝をつき、白い星草を一輪、石の上に置いた。
「行ってきます」
小さな声だった。
リディアはその背中を黙って見ていた。それから手帳を開いて、今日の予定をもう一度だけ確認した。猶予は、あと五週。十四日で戻れば、まだ余裕がある。
「行きます」
それが出発の合図だった。
*
第一層から第六層までは、もう庭のようなものだった。
リディアの頭の中の地図が、分岐のたびに正しい角を選ぶ。護衛たちは淡々とその指示に従う。水晶の森も、蜘蛛の巣の洞窟も、通り過ぎるのに半日とかからなかった。
最初の夜は、第六層の青い紋の休憩部屋で明かした。
見張りの順番を決めたのは、ミーシャだった。レオンハルトの名前も、その表に入っている。
「大公爵様は、最後の番な」
「分かった」
彼は短く答えた。それだけのやり取りで、誰も何も言わなかった。もう、お客様扱いの人間は、この部屋に一人もいなかった。
*
第七層は、氷の洞窟だった。
壁も天井も床も、青白い氷に覆われている。吐く息が白く凍り、頬が痛いほど冷たい。リディアはポシェットから毛皮の外套を取り出して全員に配った。もちろん、肌色の手袋の内側は、いつも通り快適なままだ。
足を踏み入れてすぐに、それは現れた。
霜をまとった大猪。丸太のような牙と、氷の鎧のような毛皮。体重は馬の五頭分はあるだろう。
「氷だけで。傷は最小限」
リディアの指示は、いつも通りだった。
「脚の腱を、右、左、右。ヒルダ。ミーシャは正面で気を引いて。ゼノン殿は背後から入って。それから」
彼女はレオンハルトを振り返った。
「首の付け根。毛皮の継ぎ目。ゼノン殿に習ったやつ」
一瞬、レオンハルトの目が見開かれた。それから、ゆっくりと頷いた。
大猪が突進した。ヒルダの氷が右の腱を凍らせる。ミーシャが跳ぶ。ゼノンの影が背後に滑り込む。巨体ががくりと膝を折った。
その首の付け根に、黒鋼の剣が差し込まれた。
斬るのではなく通す。
毛皮の継ぎ目だけを、一枚、静かに断つ。血も、毛皮の鎧の他の部分も、傷ひとつなく残った。
大猪は声もなく横に倒れた。
洞窟に静寂が落ちた。
「……素材、きれい」
リディアがぽつりと言った。
レオンハルトは剣を引き抜いたまま、固まっていた。それから、自分の手を見つめた。
――できた。
それは、八週間かけて掴んだ、初めての「通す」の感触だった。
ゼノンが背後で静かに頷いた。
*
第八層は、暗かった。
光を食う魔物が棲む階層だった。灯りをつければ、群れが集まってくる。リディアは手帳に何度も書き込んでいた。
「ランタン」
彼女はポシェットから、月梟のランタンを取り出した。
全員が一斉に目を逸らした。
「お嬢様。それは」
「使う」
リディアはきっぱりと言った。
「光に集まってくる魔物を、静かに待つ。音が消えるから、気づかれない。夜目は要らないけど、他は使える」
それは、つまり。
「……おびき寄せ、ですね」
ノワールが無表情のまま言った。
「そう。待ち伏せ」
蓋が開かれた。やわらかな光が、闇の中に乳白色の輪を広げる。三メートルほどの小さな領域。その内側では、音が何もしない。
光に誘われて、闇の中から、ぬるりと影が現れた。蝙蝠に似た、薄い翼の魔物。一、二、三、……十。光の輪の縁に、音もなく集まってくる。
護衛たちは無言のまま、それぞれの位置につく。ゼノンの剣先がすっと動く。ヒルダの炎が小さく灯る。ミーシャの短剣が音もなく鞘から抜かれる。
光の輪の中だけ、時間が止まったように静かだった。
一匹が輪の中に入った。
その瞬間、すべてが終わった。
悲鳴ひとつ上がらないまま、十数匹の魔物が光の輪の周りに静かに積み上がった。レオンハルトはそれを見て、少しだけ口の端を引きつらせた。
「……便利だな」
「失敗作です」
リディアは即答した。
*
第九層は、迷路だった。
壁は高く、通路は細く、分岐が果てしなく続く。魔物の気配は薄いが、道そのものが侵入者を迷わせるように設計されている。
けれど、金色の糸がずっと見えていた。
リディアの眼鏡の奥で。アルベルトの掌の光の中で。ゲートの縁から延々と続いてきた糸は、この層の壁の中を細い血管のように這っている。その糸を辿れば、迷路は迷路でなくなった。
七日目の夕方、糸の束が一枚の大きな扉の前で、ぎゅっと集まっていた。
扉は黒い石でできていた。高さは大人の三倍。表面に、巨大な亀の浮き彫りが刻まれている。
「ここだ」
誰も言葉を発しなかった。
リディアは扉から少し離れたところにある、青い紋の休憩部屋に、全員を導いた。
「今日は、ここで休みます。扉は、明日。……ランタン」
彼女は部屋の中央に、月梟のランタンを置いた。蓋を開ける。柔らかな光が、石の部屋を満たす。
「帰巣を、試します」
光の中に入った全員が、ふと、胸の奥に引かれるような感覚を覚えた。
ランタンの光の中で、床に薄い光の線が浮かび上がった。それは、全員の足元から同じ方向に向かって、まっすぐ伸びている。
部屋の外へ。通路へ。上へ向かう階段の方角へ。
「最後に、安全だった場所」
リディアは小さく呟いた。
「第八層の、休憩部屋。……そこを、指してる」
つまり、ここはまだ安全な場所として数えられていない。この部屋の中で、全員が呼吸をしているのに。
「安全の判定は、ランタン自身がする」
彼女は少し考えて言った。
「ここで一晩眠って、朝、何も起きなければ、この部屋が、最後に安全だった場所になる。……そのとき、光の線は、この部屋を指す」
「つまり」
ヒルダが、確かめるように言った。
「いざという時、私たちは、ここへ戻れる」
リディアは頷いた。
「疲れてても。迷っても。目が見えなくなっても。光の中にいれば、道が分かる」
それは、呪われた人々を連れて戻るときにいちばん必要な道標だった。
*
その夜、見張りの最後の番で、リディアはレオンハルトの隣に座っていた。
眠れなかった。眠れる人間は、この部屋に誰もいなかった。
明日、あの扉を開く。その向こうに、何があるのか。五年あまり、ずっと閉ざされてきた場所が。
「リディア」
レオンハルトが囁いた。
「何か、聞いても」
「うん」
「あなたは、なぜ、ここまでしてくれる。返済のため、というのは、理由のひとつだと思う。だが」
リディアは少し黙った。
頭の中に、ひとつずつ記憶が浮かんだ。温かいお茶。魔物の話に目を輝かせる人。お嫁に来てくれたら、と笑った声。初めて手紙が届いた日のこと。
「……好きだったので」
やがて、小さな声で言った。
「あなたのお父様と、お母様が。いつも、優しかったので」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
それから、静かに頭を下げた。
「……ありがとう」
リディアは手帳を閉じた。
「まだ、お礼は、早いです」
いつもの言葉だった。けれど、その声はほんの少しだけ震えていた。
*
翌朝、扉はノワールの手で、静かに開かれた。
石の擦れる音が、ゆっくりと響く。冷たい風が部屋の奥から流れ出した。それは、五年あまりのあいだ誰も吸っていない空気の匂いがした。
扉の向こうは、巨大な円形の広間だった。
その中央に、山のような影が横たわっている。
亀だった。岩のような甲羅を持つ、小山ほどの大亀。四本の脚は柱のように太い。首は広間の隅まで伸びている。もう、動かない。その巨体の傷口からは、血がまだ艶やかな赤色のまま、滴りもせずに止まっていた。
時間が止まっているのだ。
亀の周りの床には、折れた剣が散らばっていた。割れた盾。投げ出された外套。大公家の紋章の入った、黒い旗の切れ端。
血痕は乾いていなかった。まるで、今さっき、その戦いが終わったばかりのように。
レオンハルトの足が止まった。
彼の視線が、床の一点に釘付けになっている。そこには、長剣の鞘がひとつ落ちていた。黒鋼の金具に、大公家の紋が彫られている。自分が腰に提げているものと、同じ型。
彼はゆっくりと近づいた。膝をつく。手を伸ばして、その鞘に触れた。
「……父上の」
掠れた声だった。
その背後で、リディアは広間の中央を見ていた。
金色の糸が。広間じゅうの壁から、床から、天井から、無数に集まってくる。そのすべてが、広間の中央、亀の甲羅の真上の一点で、ひとつに束ねられている。
そこに、薄い膜のようなものが揺れていた。
空間の、小さな裂け目。向こう側が、ぼんやりと透けて見える。
その向こうに、人影が見えた。
小さく。たくさん。動かず。氷の中に閉じ込められたように、静止して。
リディアは息を呑んだ。
――いた。
彼女は手の中のランタンを、ぎゅっと握りしめた。




