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第15話 大公のための一品

 翌朝、北向きの小さな部屋に五人が一列に並んだ。

 ゼノン。アルベルト。ヒルダ。ミーシャ。ノワール。リディア専属の護衛隊の全員だ。

 リディアは、床にぺたんと座ったまま、手帳を開いた。

「試験、します」

 五人が、無言で瞬きをした。

「大公爵が、深層に一緒に行く条件。五人全員の合格。……だから、みんなにお願いします」

「お嬢様」

 ヒルダが、慎重に口を開いた。

「お嬢様がご自身の判断で、同行者を増やされるのは、初めてでございます」

「死なれると、返済が滞るので」

 リディアは手帳から目を離さずに答えた。

 ミーシャが吹き出した。ゼノンは穏やかに微笑んだ。アルベルトは少し目を細めて何も言わなかった。ノワールはいつもの無表情のまま、どこか楽しそうに小さく頷いた。

 それが猶予の十三週の、はじまりだった。

  *

 最初の試験は、ゼノンだった。

 夜明け前の中庭に、黒鋼の剣を提げたレオンハルトが立っている。向かい側では、柔和な老紳士の顔をした剣神が、一枚の板を台に載せて待っていた。

 板の上に、薄い皮が三枚重ねてある。焔鱗蜥蜴の、練習用の皮だった。

「一番上の一枚だけを、斬ってください。二枚目には傷をつけずに」

 それだけが、試験の内容だった。

 レオンハルトは踏み込んで、剣を振るった。三枚が同時に断たれた。

「不合格」

 ゼノンは、淡々と言った。

「剣は壊すためのものではございません。通すためのもの。斬るのではなく通す」

 翌朝もその翌朝も、皮は三枚とも断たれた。一週間が過ぎ二週間が過ぎた。レオンハルトの手のひらでは豆が潰れ、潰れた上にまた豆ができた。

 三週目の朝、板の上には、一枚だけが断たれた皮と傷ひとつない二枚が並んでいた。

 ゼノンはそれを見て静かに頷いた。

「合格でございます」

 リディアの帳面に一行が増えた。ゼノン:合格、三週目。

  *

 ヒルダの試験は、荷物だった。

 二十キロの背負い荷を担いで森の縁からゲートの祠まで。朝に出て、日が落ちる前に着くこと。休憩は二度まで。遅れたら不合格。

 革鞄がある以上、本来なら荷は要らない。けれど、鞄を失ったときにも歩ける体が、ヒルダの求める条件だった。

 リディアはヒルダの鞍の前に乗せられ、馬上からその試験を眺めていた。

 レオンハルトは、歩いた。

 森は深く、木々は暗く、足元では苔と根が絡み合っている。魔物が出る。ミーシャが機嫌よく片づける。二十キロが肩に食い込む。最初の休憩のころには顔が土色になっていた。二度目の休憩のころには、足がもつれ始めた。

 ゲートの祠に着いたのは、日が落ちたあとだった。

「不合格です」

 ヒルダは侍女服の裾を払いながら、はっきりと言った。

「日が落ちる前、と申し上げました」

 レオンハルトは膝に手をついて、荒い息のまま頷いた。

 それから毎日、その試験は繰り返された。夜は執務室で書類を片づけ、朝は日の出前に起きて荷を担ぐ。眠る時間はさらに削られていった。それでも彼は、一度も弱音を吐かなかった。

 五週目、ゲートの祠に着いたのは、日が沈む少し前だった。

「合格です」

 ヒルダがそう告げたとき、リディアの帳面にまた一行が増えた。

  *

 ミーシャの試験は野営だった。

「今夜はこれだけで生き延びな」

 彼女は、小さな鍋と、火打石と、水筒だけをレオンハルトの前に置いた。それ以外の荷物は、すべて取り上げられている。

 場所は森の浅いところ。魔物の縄張りのぎりぎり外側。リディアは遠くの木の上から、ミーシャと一緒に、その様子を観察していた。

 レオンハルトは、火を起こした。沢を探して、水を汲んだ。それから足元に生えている茸を見て、少し考えて手に取った。

 青い斑のある茸だった。

 それを見たミーシャが、指を鳴らした。

「はい、不合格」

「……毒か」

 口に運ぶ前に、レオンハルトは茸を止めていた。それでもミーシャは容赦なかった。

「食べる前に毒かどうかを確かめる方法。持ってなかった。次いこうぜ」

 二日目には、リディアが書いた相場表の隣に、効果が添えられた茸の一覧が増えていた。リディアにとって、毒も効果のひとつに過ぎないことが伝わる、そんな一覧だった。レオンハルトはそれを夜な夜な暗記していた。

 四週目、彼はひと晩を、火と水とひと握りの薬草だけで乗り切った。

「……ま、悪くねえ」

 ミーシャはぶっきらぼうに言って親指を立てた。

  *

 ノワールの試験は三日間の沈黙だった。

 彼女は何も説明しなかった。ただ大公爵の肩をぽんと叩いて、指をいくつかの形に動かして見せた。止まれ。進め。伏せろ。待て。それだけ。

 その三日間、レオンハルトは声を出してはいけなかった。

 一日目の夕方、彼は背後から迫る小さな気配に、思わず声を出した。待て、と。

 ノワールは無言で首を横に振った。不合格。

 二回目の挑戦のとき、彼は声を飲み込んだ。

 三回目のとき、彼は手の形でノワールに、前方は安全だと伝えた。ノワールはほんのわずかに口の端を動かした。

 合格。

 リディアは帳面に四行目を書き足した。

  *

 アルベルトの試験だけは、誰も簡単に見ることができなかった。

 聖堂の礼拝堂で、彼はひとりの青年と向かい合って座っていた。膝の間に小さな石がひとつ。呪いの気配がわずかに残る、古い遺物だった。安全な程度に封じられている。

「呪いは、恐れを糧にします」

 アルベルトは、静かに言った。

「恐れを持つなとは申しません。恐れは人として当たり前のものです。ただ、恐れに動きを奪われたとき、人は呪いに喰われます」

 レオンハルトは石をじっと見つめていた。

 一度目、彼は目を逸らした。不合格。二度目も逸らした。三度目は石を見つめ続けた。けれど額には冷たい汗が滲み、指先が小さく震えていた。

 アルベルトは首を横に振った。

「震えが止まっていません」

 四度目の挑戦の前夜、レオンハルトはひとり礼拝堂の長椅子に座っていた。

 ふと隣に人影が座る。アルベルトだった。

「……私にも、あります」

 聖騎士は、静かに言った。

「愛する人が呪われて、何もできなかった日のことを思い出すたび、今でも震えます。……怖い。そう素直に認めることです」

 レオンハルトはしばらく黙っていた。それから掠れた声で言った。

「……怖い」

 これまでにも、何度か口にしたことのある言葉だった。けれど、たった今口にしたのは、同じ言葉でありながら、まるで違っていた。生まれて初めて、心の底から滲み出た思いを、形にできた気がした。

「怖い。両親と同じ目に遭うのが。……それでも行く」

 翌朝、石の前に座ったレオンハルトの指先は、まだ小さく震えていた。それでも彼は石から目を逸らさなかった。

 アルベルトは深く頷いた。

「合格です。あなたは、怖さを認められる人です」

 リディアはその報告を、帳面に書き写した。五行目。五人全員の、合格。

 猶予は、あと五週になっていた。

  *

 その間、夜の北向きの部屋では、もうひとつの試験が続いていた。

 リディアの机の上には、小さな乳鉢と、いくつもの小瓶が並んでいる。呪喰いの蛾の鱗粉。聖域に生える白い苔。月影茸の笠の裏。それぞれのわずかな欠片を、さまざまな比率で混ぜては記録していく。

 護衛の分と自分の分の呪い対策は、すでにある。けれど、今回は足りない。

 停滞の枷は、弾く呪いではない。弾こうとしても、ゲートの縁にすでに絡みついている。必要なのは、かけられたあと異空間から引き戻す力。

 リディアは、手を止めた。

 机の隅に、月梟のランタンが置かれていた。青銅の枠。月の形の窓。光の中の全員に、最後に安全だった場所を指し示す。

 帰巣。

 あれは道標になる。もしあの効果を、護りの石に組み合わせることができたなら。

 けれど、すぐに首を横に振った。

 素材は二つまで。ランタンは、すでに四つの素材で作られている。ここに、新しい素材を足すことはできない。

 ――使い道は、別にある。きっと。

 そう思って、リディアはランタンをそっとポシェットに戻した。

 それからまた、乳鉢に向かった。

 同じ素材で、何度も作り直した。自分の分と護衛の分は、一度で効率よく作った。最後のひとつだけは、何度も何度も、比率を変えて作り直した。失敗すれば、あの人たちは助けられない。手を止める理由が、どこにもなかった。

  *

 五人全員の合格が出た夜、リディアは、レオンハルトを北の部屋に呼んだ。

 彼は扉の前で少し迷ってから、入ってきた。手のひらは豆だらけで、目の下の隈は前よりも濃かった。それなのに、背筋は以前よりしっかりと伸びている。

「これ」

 リディアは小さな箱を差し出した。

 蓋を開けると、中には一対の袖留めが入っていた。銀色の細い枠。その中央に、小さな透明な石がひとつずつ嵌まっている。石の奥で白い光がゆっくりと呼吸するように揺れていた。

「呪い対策。一対あります。両方の袖口に。落としたり壊したりしないように気をつけてください」

 レオンハルトはしばらくそれを見つめていた。

「……対価は」

「値段にすると、かなり高い、そうです」

 金銭感覚がずれている、と言われている。数字としては把握している。それ以上のことは、正直よく分からない。

 はっきりしているのは、損する取引はダメ、ということ。そう教わっている。

「返済に、上乗せします」

 リディアは、はっきりした口調で答えた。

「あと、つけ心地が悪かったら、言ってください。調整するので」

 彼は袖留めをひとつ取り上げた。右の袖口にゆっくりと留める。続けて、もうひとつを左の袖口に。

 石がかすかに光った。

「……軽いな」

「重さは、ほとんどないです」

「温かい」

「それは、たぶん気のせいです」

 リディアは少し目を逸らした。

 レオンハルトは袖口の石をじっと見つめていた。それから静かに顔を上げた。

「ありがとう、リディア」

 その呼び方は、一年前には一度も口にされなかったものだった。

「……代金は、ちゃんともらいます。それに、まだお礼は早いです」

 リディアはいつもの言葉を返した。声も、いつもと変わらなかった。

 扉が閉まったあと、ヒルダがそっと茶を差し出した。

「お嬢様。お疲れさまでございました」

「うん」

 リディアは茶碗を両手で包んだ。窓の外の星をぼんやりと眺める。

 猶予は、あと五週。

 深層へ向かう日が、決まった。




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