第14話 呪いの痕跡
神聖王国での一夜が明けて、リディアたちは来た道を戻った。森を抜けてゲートに着くまで、朝から夕方近くまでかかった。
第六層の最果ての階段を下り、分岐をひとつずつ辿る。帰り道は、行きよりもずっと速かった。頭の中の地図が、一歩ごとに正しい角を教えてくれる。第五層。第四層。第三層の長い廊下。
ほとんど休まず、夜通し歩いて、大公領の黒のゲートを内側から抜けたのは、夜明け前だった。
外に出た瞬間、冷たい森の空気が頬を撫でた。木々の梢の向こうが、わずかに白んでいる。
ゲートの前の祠に、誰かが立っていた。
黒髪の青年が、白い花を手にしたまま、凍りついたようにこちらを見ている。
レオンハルトだった。
彼は動かなかった。瞬きもしなかった。ゲートから人が出てくる。それは、五年あまりのあいだ毎朝、夢に見ては、そのたびに否定してきた光景だったのだろう。
白い花が彼の指から、はらりと落ちた。
「……リディア」
掠れた声だった。
「はい」
リディアはゲートの縁から降りて、土の上に立った。
「ゲートの、向こうから、人が」
「うん。出てきた。驚かせて、ごめんなさい」
淡々とした声に、レオンハルトの肩ががくりと落ちた。安堵とも落胆ともつかない息が、漏れる。
彼は落ちた花を拾い上げた。震える指で、土を払う。
「毎月、来ている。今日は、父と母が、ここへ入った日だ。……知っていたか」
「祠の花。誰が置いてるのか、気になってた」
リディアは少し間を置いてから、続けた。
「あなたの、だったんですね」
レオンハルトは何も答えなかった。ただ、拾った花を祠の石の上に、静かに置いた。
リディアはその背中を見ていた。それから、ゲートのほうを振り返った。
「お願いがあります。ここを、調べさせてください」
「何を」
「呪いの痕跡」
その言葉に、レオンハルトの背筋がぴくりと動いた。
*
リディアは黒のゲートの縁に、膝をついた。
大きな木の根が門柱のように左右から絡み合い、その間に、ただ黒い空間が口を開けている。その黒の縁を、彼女はレースの手袋の指先で、そっとなぞった。
肌色の手袋の下の指に、冷たいような、そうでないような感触が伝わる。大公領のゲートに初めて来た日にも、同じ感触があった。あのとき、彼女はそれを「ゲートの気配」と分類して、棚の奥にしまった。
けれど、あの夜、セラフィナの言葉を聞いてから、その棚はずっと、頭の中で小さく揺れていた。
――静かで、冷たくて、時間が止まったような。
リディアは眼鏡のつるを指で押さえた。鑑定を補助する魔道具が、レンズの奥で淡く光る。
そして、見つけた。
黒の縁の、さらに内側。目を凝らさなければ見えないほどの、細い糸。黒ではない。ごく淡い、銀に近い金色の糸が、ゲートの縁に絡みつくように、何本も奥へ向かって伸びている。
「……ある」
小さな声が漏れた。
「アルベルト」
呼ぶと、後ろに控えていた聖騎士がすぐに膝をついた。
「ここ、見える?」
アルベルトは胸の前で短く祈りの形を取り、右手をゲートの縁にかざした。神聖魔法の淡い光が、彼の掌から広がる。
その光に反応するように、金色の糸がふわりと浮かび上がった。
彼の青い瞳が見開かれた。
「これは……呪いです。それも、普通の呪いではない」
声が震えていた。
「聖典の記録でしか、見たことがありません」
*
リディアの頭の中で、頁がめくられていった。
二年前、神聖王国に滞在していたときに読んだ、古い年代記。その中の、「忌まれる呪いの章」。三つしか記録のない、稀少な呪い。
――停滞の枷。
ボス級の、それも、国ひとつを揺るがすほどの超巨大な魔物を討伐したときにだけ、放たれることがある呪い。かけられた者は、現世から切り離された異空間に閉じ込められる。そこでは、時間がほとんど流れない。
命は、止まる。けれど、終わらない。
年代記には、そう書かれていた。
「停滞の枷」
リディアはその名を、口にした。
「異空間に、閉じ込める呪い。時間が止まって、命も、止まる。……でも、死なない」
レオンハルトが息を呑んだ。
「それは、父上と母上が」
「まだ、確かじゃないです」
リディアは首を横に振った。
「でも、確かめられることが、あります」
彼女は金色の糸を、指先でそっと追った。糸は、ゲートの黒の奥へ、まっすぐ伸びていた。その一本一本が、ごくわずかに脈打っている。
「呪いは、かけられた人が、死ぬと、解けます。糸も、消える」
リディアは淡々と続けた。
「この糸は、消えてない。脈を、打ってる。つまり、呪われた人は、まだ、生きてる」
静寂が落ちた。
風が木々の梢を、そっと揺らす。ゲートの黒が、呼吸するように、微かに脈動した。
「……生きて、いる」
レオンハルトの声は、ほとんど音になっていなかった。
「はい」
「父上と、母上が」
「糸の数、数えます」
リディアは指で、一本ずつ、糸の数を数え始めた。ヒルダたち護衛隊が、息を詰めて見守っている。
「……四十六本」
数え終えて、リディアは顔を上げた。
「何人、入りましたか」
レオンハルトはすぐには答えられなかった。唇が震えていた。やがて、かすれた声が漏れた。
「両親と。騎士団の、四十四名。……四十六」
それは、あの日の出発の人数だった。彼が五年あまり、毎朝、胸の中で数え続けてきた数字だった。
糸の数と人の数が、ぴたりと合っていた。
レオンハルトの膝ががくりと折れた。
彼は祠の前の土の上に、崩れるように座り込んだ。両手で顔を覆う。声は出なかった。ただ、肩だけが大きく震えていた。
アルベルトがそっと、その肩に手を置いた。ゼノンは無言のまま、少し離れたところに立って、彼を森の風から守るように構えている。
リディアはどうしていいか、分からなかった。
貴族の令嬢としての立ち居振る舞い。挨拶の仕方。返答の仕方。扇の使い方と、その意味。それらは母と祖母に教わった。全部覚えている。全部できる。
でも。
泣いている人の前で、何をすればいいのか。頭の中の棚には、その手順が入っていない。魔物の解体なら、いくらでも説明できるのに。
迷った末に、彼女はポシェットから小さな水筒を取り出した。それを、レオンハルトの隣に、そっと置く。
「……水。息、してください」
それが精一杯だった。
レオンハルトは顔を覆ったまま、小さく頷いた。
*
しばらくして、朝日が梢の隙間から、祠の石に差し込んだ。
レオンハルトはゆっくりと顔を上げた。目は赤かった。けれど、その瞳はもう、揺れていなかった。
「……ありがとう」
絞り出すような声だった。
「五年あまり、誰にも言えなかった。生きているのか、死んでいるのか。祈ることしかできなかった」
リディアは水筒の蓋を閉めながら、答えた。
「まだ、お礼は、早いです」
「分かっている」
レオンハルトは立ち上がった。膝がまだ、少し震えていた。それでも、彼はまっすぐ立った。
「助けてもらえないだろうか。いや、助けてほしい」
その問いに、その切実な願いに、リディアはすぐには答えなかった。
頭の中で、情報を並べる。停滞の枷は、討伐した魔物が呪いの源になっている。糸の先は、異空間に繋がっている。そこへ辿り着くためには、討伐の現場、深層のどこかへ、行かなければならない。
深層。ボス級。呪いへの対策が、必須。
護衛隊は全員、対策の装備を身に付けている。けれど、大公爵は持っていない。
「助けるには、深いところまで、行く必要があります」
リディアはゆっくり言った。
「呪いの、元が、そこにある。……でも、行くには、準備が、要ります」
「連れて行ってくれ」
レオンハルトは迷わなかった。
「私も、行く。足手まといなら、後ろからでいい。だが、行かせてほしい」
リディアは彼の顔を、じっと見た。
青い瞳に、迷いはなかった。あるのは、五年あまり待ち続けた人の、静かな覚悟だけだった。
「……あなたの分の、呪い対策が、いります」
やがて、リディアは言った。
「作ります。時間が、かかるけど」
猶予は、あと十三週。
「それと、条件があります」
これは、遊びではない。必要なのは、覚悟だけではない。リディアは守ってもらう立場だが、護衛役五人の命を預かっているのだ。
「作っている間に、私の専属の五人から、合格をもらってください。ダメだったら、諦めてもらいます。連れて行けません」
間に合うのか。間に合わせるのか。リディアはそこで、考えるのをやめた。やるべきことが、はっきりした以上、あとは手を動かすだけだ。
*
その夜、リディアは北向きの部屋の机の前で、一通の手紙を書いていた。
宛先は、神聖王国のセラフィナ。
『お尋ねの呪いの気配に、心当たりがありました。確かめた結果を、お知らせします。名前は、停滞の枷。かけられた人は、生きています』
書き終えて、ペンを置く。
それから、彼女は胸の奥の、小さな棘のようなものに、ふと気づいた。
もし、あのとき、先代夫妻に呪い対策の試作品を渡せていたら。
完成が間に合わなかった。あのとき、リディアはそう自分に言い聞かせていた。けれど、本当にそうだっただろうか。
考えても、答えは出ない。あの日には、戻れない。
リディアは手紙を畳んだ。窓の外で、星が静かに瞬いている。
――今度は、間に合わせる。
それだけを、頭の中の帳面の、いちばん上に書き込んだ。




