第13話 迷い込んだ他国の出口
猶予期間も十二週目に入った。
残りは、あと十四週。数えたのは、ヒルダだった。リディア本人は数えていない。数えるのは頭の中の帳面の仕事で、今は帳面よりも、足元の階段のほうが大事だった。
その日のリディアたちは、第三層よりさらに下にいた。
第四層は、水晶の森だった。透明な柱が林立し、足元の水面に、頭上の光が揺れている。第五層は、蜘蛛の巣のように入り組んだ洞窟。第六層は、ただひたすらに、長い下り坂が続いた。ここまで来ると、魔物の気配ははっきりと濃くなる。
護衛隊は、そのたびに無茶な指示を受けた。攻撃してよい箇所の指示は具体的。攻撃の方法の指示は抽象的。その他、傷をつけずに。炎だけで。氷だけで。素手で。足音を立てずに。もはや、誰も驚かない。
「お嬢様。この道は、何度も確認しました。分岐が多すぎます」
ヒルダが肩越しに言った。
「大丈夫。全部、覚えてる」
リディアは手帳に何かを書き込みながら答えた。
実際、彼女の頭の中の地図はすでに、第六層まで完成していた。その中に、ひとつだけ、おかしな分岐がある。
第六層の最果て。壁に隠れるように、上へ向かう階段があったのだ。
「上に、行く階段」
リディアの目が輝いた。
「お嬢様。ダンジョンは、普通、下へ潜るものです」
「だから、おかしい」
それが答えだった。
その夜は、第六層の最果て近くにあった青い紋の休憩部屋で明かした。今度は、水は湧かなかった。
翌朝、護衛隊は見張りを交代しながら、階段の上を確かめた。罠も、魔物の気配もない。ただ、白い石の段がまっすぐ、上へ続いている。
*
階段は、白い石でできていた。
上るにつれて、空気が変わった。冷たい石の匂いが薄れ、代わりに、乳香の香りがかすかに混じり始める。足音が静かに、澄んだ響きになっていく。
アルベルトの足がふと止まった。
「……この香り」
かすれた声だった。ほとんど独り言に近い。
彼の顔から、いつもの穏やかさが消えていた。澄んだ青の瞳が、何かを必死に確かめている。
「アルベルト」
ゼノンが静かに声をかけた。
「いえ。……確かめたいのです。この階段の先を」
階段の終わりに、黒い口があった。
内側から見る黒のゲートは、外から見るよりずっと薄かった。光が向こう側から、にじむようにこぼれている。
リディアは息を詰めて、その縁に手を伸ばした。魔力の渦の向き。縁の石の質。大公領のゲートと似ている。けれど、違う。
「他のゲートと、繋がってる」
声が弾んだ。
「階層は違っても、同じダンジョン。あっち側から、出られる」
護衛隊は顔を見合わせた。ゼノンが前に出ようとした。
「私が、行きます」
アルベルトの声は、いつになく強かった。
誰も反対しなかった。
*
光の向こうは、暗く鬱蒼とした森だった。
鬱蒼とした暗い森の、ちょうど中央。ゲートの周りの木々だけが、白い樹皮をまとい、闇の中に浮かび上がるように立っている。太い白い幹に抱かれるように、黒い口が静かに開いていた。梢の隙間から、朝の光が細く落ちている。
乳香に似た、甘く澄んだ香りがかすかに漂っていた。ゲートの周りにだけ生える、白い樹皮の乳香の木。神聖王国の者なら、誰もが知っている香りだった。
リディアはこの森を知っていた。
神聖王国の、黒のゲートの森。数ある森の中でも、幻想的なことで有名だ。
白い樹皮の乳香の木が、暗い森の中で、香りとともに浮かび上がる。その神秘的な光景が、この森を有名にしていた。
森の縁からゲートまでは、大人の足で、朝に出て、夕方の少し前に着く。馬を使っても、昼頃までかかる。鬱蒼とした木々が、どこまでも続く深い森だった。二年前、資料集めのために神聖王国を訪れ、そのまま一年ほど滞在した。解呪の場に立ち会ったのも、その滞在中のことだ。そのあいだ、馬を使い、時には大人に抱えられながら、この森を、探索し尽くした。木々の配置も、沢の流れも、魔物の縄張りも、頭の中に、そっくり残っている。
隣で、アルベルトが周囲を見回していた。その横顔が、わずかに強張っている。ここは、彼の故郷の森でもあった。
森を抜けるのに、朝から夕方近くまでかかった。
リディアの足では、とても間に合わない。最初の数刻は、自分で歩いた。それから先は、アルベルトの背に負われ、ゼノンの腕に抱えられながら、交代で運ばれていった。それでも、頭の中の地図は一歩も迷わず、道を選び続けた。
沢を渡り、苔むした岩場を越え、魔物の縄張りの境目を縫うように進んでいく。出てくる魔物は、ミーシャが機嫌よく片づけ、ゼノンが傷ひとつつけずに素材を残した。
鬱蒼とした木々は、どこまでも続いた。陽の光は梢に遮られて、足元までほとんど届かない。昼なのか夕方なのか、時間の感覚が曖昧になるほど、森は深かった。
木々が少しずつ、まばらになっていった。
やがて、森の縁に、白い石の建物が見えた。夕暮れの光の中で、鐘がゆっくりと鳴っている。
アルベルトは森の縁を越えて、白い石畳に一歩を踏み出した。
そして、動けなくなった。
聖堂の前庭に、ひとりの女性が、森に向かってひざまずいていた。少し離れた柱の陰には、白い鎧の聖騎士が四人、彫像のように控えている。森から魔物が現れたときに、祈り手を護るための番人だ。
淡く桃色がかった金髪を、ゆるく編んで肩から流している。白い祈りの衣。細い背中。両手を胸の前で組み、静かに、暮れていく森に向かって祈っていた。
アルベルトはその背中を、知っていた。
二年だった。彼がこの国を離れてから。枢機卿の計らいで、聖騎士のまま別の任に就いてから。あの日以来、一度も、この聖堂には戻っていなかった。
足が石畳に縫いつけられたように、動かない。
祈りが止まった。
女性がゆっくりと顔を上げる。森の奥から近づく気配を、感じ取ったのだろう。振り返る。
淡い菫色の瞳が、こちらを捉えた。
時間が止まった。
柱の陰で、四つの影が同時に動いた。
白い鎧の聖騎士たちだった。剣の柄に手をかけ、一斉に踏み出す。森から現れた者を、迷わず斬るために。
けれど、そのうちのひとりがアルベルトの顔を見て、足を止めた。
「……アルベルト卿?」
かつての同僚の声が驚きに掠れた。聖騎士たちは、剣を抜きかけたまま固まっている。
セラフィナが静かに片手を上げた。
「大丈夫です。剣を、収めてください」
聖騎士たちがゆっくりと手を下ろした。
セラフィナ・ルミエール。神聖王国の第二王女。かつて、原因不明の病で衰弱の一途をたどっていた人。今は頬に、淡い血の色がさしている。細身だけれど、立ち姿には確かな力があった。救われた命の礼として、いまは、この聖堂で、鎮魂の祈り手を務めている。
「……アルベルト」
囁くような声だった。それでも、その響きは聖堂の鐘よりも深く、彼の胸に落ちた。
アルベルトは膝を折った。
聖騎士の礼。右手を胸に。頭を垂れる。
「姫様。……長く、お目にかかれず、申し訳ございません」
「顔を上げて」
彼女は立ち上がって、数歩、近づいた。三歩手前で、足を止める。
それ以上は、近づけない。近づいては、ならない。二人とも、それを知っていた。
「お元気そうで」
アルベルトはようやく、それだけを言った。
「あなたこそ」
セラフィナの瞳は潤んでいた。けれど、涙はこぼれなかった。
「呪痕は、再び浮き上がることはしていませんか」
「はい。浄化していただき、完全に消えました」
右腕の袖の下で、呪痕があった場所が、かすかに疼いた。
それ以上の言葉は、交わされなかった。交わす必要もなかった。彼女が生きて、そこに立っている。それだけで、あの日からの二年が報われた気がした。
セラフィナは小さく微笑んだ。
「ずっと、お礼が言いたかったのです」
その視線がアルベルトの肩越しに、移っていく。
*
リディアは、聖堂と森の境を跨いだところで、立ち止まっていた。
目の前で、聖騎士と王女が三歩の距離で見つめ合っている。護衛たちは全員、気を利かせて、少し離れた場所に控えていた。ヒルダはそっと目頭を押さえている。ミーシャは見ないふりをしていた。
リディアは周囲を観察していた。浄めの術で保たれた、汚れのない白い石畳。森の縁に並ぶ、小さな石碑の列。鐘の音の周期。これは、新しい頁だ。ひとつ残らず、頭の中の棚に収めていく。
この聖堂のことは、滞在中に資料で読んでいた。鎮魂の聖堂。森で命を落とした者の魂が、魔物に呑まれず、安らかに眠れるように、祈りを捧げるための場所だ。
祈りに、魔物を弱める力はない。だから、他の国は真似をしない。ただ、神聖王国だけが、帰らなかった者のために、何百年も祈り続けている。ゲートのすぐそばは魔物の領域で、祈りを捧げ続けることは難しい。だから、聖堂は森の縁に建てられたのだ。
石碑の列には、ひとつひとつ名前が刻まれていた。
その背中に、声がかかった。
「リディア様。……あのとき以来、ですね」
振り返ると、桃色がかった金髪の女性が、すぐそばまで来ていた。
解呪の場で顔を見たのが、最後だった。あの日の王女は、寝台に横たわり、血の気のない顔で目を閉じていた。慌ただしい場で、言葉はひとつも交わしていない。目の前で背筋を伸ばして立つ彼女は、まるで別人のようだった。
セラフィナはリディアの前で、静かに膝をついた。
王女が少女の前に、跪く。その光景に、護衛たちが息を呑んだ。
「姫様!?」
石畳の向こうから、白い衣の神官たちが慌てて駆け寄ってくる。けれど、セラフィナは立ち上がらなかった。
「わたくしの命を、救ってくださった方。あの日は、意識も朧げで、お礼を言うことも、できませんでした。あなたが、あの呪痕を読み解いてくださらなかったら」
声がわずかに震えている。
「ありがとうございました」
リディアは少し困った顔になった。
「お礼は、いらないです」
「でも」
「あの呪いは、珍しかったので。データが、取れました」
あっさりとした声だった。セラフィナは目を丸くして、それから、ふふ、と笑った。
その笑い声は、少女のように軽やかだった。
「……お噂どおりの方」
神官たちがようやく追いついた。
「姫様! 森の奥から、見知らぬ一行が!」
「彼らは、わたくしの客人です」
セラフィナは立ち上がりながら、静かに言った。
神官たちは言葉を失った。暮れかけた森の奥から見知らぬ一行が現れるなど、前代未聞の出来事だった。けれど、王女の声には、有無を言わせない響きがあった。
*
その夜、リディアは聖堂の客室で、窓の外の月を眺めていた。
石造りの、簡素で清潔な部屋。暖かな毛布。床には藁のマットが敷かれている。ヒルダたちは隣の部屋で、手分けして荷物の整理をしていた。
リディアの頭の中には、すでに新しい地図が描かれていた。大公領のゲートから、第六層の最果ての階段を上って、神聖王国の森を抜け、聖堂へ。歩数も、時間も、分岐も、すべて覚えている。
これは、使える。
もし、深層で何かが起きたとき、ここまで撤退できる。補給も、ここから受けられるかもしれない。
扉が静かに叩かれた。
「失礼します。少し、よろしいですか」
セラフィナだった。白い夜着の上に、薄い羽織を重ねている。手には、古い革表紙の書物を一冊。
「はい」
リディアは床に座ったまま、答えた。
セラフィナは少し迷ってから、リディアの隣に、そっと腰を下ろした。王女が床に座る。それを見て、リディアは少しだけ、この人を好きになった。
「あれから、わたくしも、呪いについて学び始めました」
セラフィナは書物を膝の上に置いた。
「あの日、助けていただいてから。同じ苦しみを、誰かが受けていないか。ずっと、気になって」
「うん」
「それで、ひとつ、お尋ねしたいのです」
彼女はリディアの瞳を、まっすぐに見た。
「最近、どこかで、見たことのない呪いの気配に、触れたことはありませんか。黒の色ではなく、もっと、静かで、冷たくて、時間が止まったような」
リディアの手が止まった。
頭の中の棚が、ひとつ、ことりと動いた。
ゲートの前の祠。白い花。そして、あの日、ゲートを見上げたときに感じた、冷たいのではない「向こう」の気配。
違和感は、確かにあった。それを、リディアは「ゲートの気配」と分類して、棚の奥にしまっていた。
「……ひとつ、気になること、あります」
ゆっくりと答えた。
「確かめてから、お話します」
セラフィナは静かに頷いた。
「お待ちしています。わたくしにできることがあれば、何でも」
窓の外で、鐘がひとつ、鳴った。
リディアは手帳を開いた。大公領の黒のゲートの、魔力の渦の向き。縁の色。祠の周りの空気の温度。ひとつずつ、記憶から引き出していく。
帰らなくては、と思った。
猶予は、あと十四週。そして、確かめなければならないことが、できた。




