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第12話 姉、来る

 猶予期間も十週目に入った朝のことだった。

 リディアが森から戻って、玄関の石段を上ろうとしたとき、門のほうが妙に騒がしかった。

 新しく着任した門番たちが、一斉に背筋を伸ばしている。馬車でも到着したのか、と振り返った瞬間、リディアは背中に、ぎゅっと何かがぶつかるのを感じた。

「リディ!」

 柔らかな、けれど力強い腕。ふわりと柑橘の香りがした。

「……お姉様」

 身動きが取れないまま、リディアはその名を呼んだ。

 栗色のポニーテールが頬に触れる。輝くような艶のある髪。見上げると、琥珀色の切れ長の瞳が涙ぐんで、こちらを覗き込んでいた。長身で、引き締まった体。腰には、細身の長剣が下がっている。

 セレスティア・ヴェルナー。リディアの姉だった。

「会いたかった! 一年と二か月も! 手紙は短いし、返事は遅いし!」

 セレスティアはリディアの肩を掴んで、ぐるぐると全身を確かめた。

「痩せた? 痩せたわね? ご飯は? ちゃんと食べてるの?」

「食べてる。昨日は、煮込み」

「煮込み!」

 姉は天を仰いだ。

「髪はどうしたの。また寝癖のまま。眼鏡も曲がってる。ああ、もう」

 彼女は手を伸ばして、リディアの眼鏡をそっと直した。それから、乱れた髪を指先で撫でつける。慣れた、優しい手つきだった。

 リディアはされるがままになっていた。久しぶりの姉の匂い。どこか、安心する。

 背後では、ヒルダたちがほっとした顔をしている。護衛隊にとっても、彼女は旧知の頼もしい味方なのだ。

「……お姉様。来るって、聞いてない」

「お父様に止められてたの。『まだ、その時ではない』って。だから、我慢して、我慢して、ついに、限界が来ちゃったの」

 セレスティアは胸を張った。

「皇帝陛下には、ちゃんと許可をもらっているわ。妹の様子を、見に来ただけよ」

 その笑顔がふと、凍った。

 視線がリディアの肩越しに、石段の上へ向けられている。

 玄関の扉が、開いていた。

 そこに、黒髪の青年が立っていた。

  *

 レオンハルトは石段の上から、その光景を見ていた。

 栗色のポニーテール。長身。腰の長剣。「美人で、剣の腕が立つ」という噂どおりの、いや、噂以上の女性が、そこにいた。

 ――この人だ。

 一年前、自分が来ると思い込んでいた人。両親が嫁にと願っていたはずの、伯爵家の娘。

 けれど、胸に浮かんだのは、期待でも落胆でもなかった。

 彼女の腕の中に、小さな少女が収まっている。眼鏡のずれを直され、髪を撫でつけられて、おとなしく目を細めている少女。

 顔立ちが似ている。

 髪の色も瞳の色も、輪郭も。眼鏡と寝癖を取り払ったら、二人は同じ型から作られたように見えるのではないか。

 その考えが頭をよぎった瞬間、彼は自分の中の何かが、ひび割れる音を聞いた気がした。

 セレスティアの琥珀色の目が、まっすぐレオンハルトを見据えていた。

 それは、先ほどまで妹を見ていた目とはまるで違う。切れ長の瞳の奥に、冷たい刃のような光が宿っている。

「あなたが、大公爵ね」

 声も、温度が下がっていた。

「ヴェルナー家の長女、セレスティアです」

「レオンハルト・アイゼンベルクだ。……ようこそ」

 レオンハルトは石段を降りて、礼をした。

 セレスティアは礼を返さなかった。ただ、静かに、彼を見ていた。

「聞いています。あなたが一年前、嫁いでくるのは私だと思っていたと」

 レオンハルトの背筋が冷たくなった。

「……そうだ」

「年も近いですものね」

 セレスティアは淡々と続けた。

「では、もうひとつ、お聞かせください。もし、あの日、馬車から降りてきたのが私だったら。あなたは私を、どう扱いましたか」

 それは、問いというより、試すような響きだった。

 レオンハルトはすぐには答えなかった。

 あの日の自分を、思い返す。窓から見下ろして。落胆して。任せる、と言って。もし、あの馬車から降りてきたのが、輝くような剣の名手だったら。自分は、石段を駆け降りて、出迎えたのだろうか。

 そうかもしれない。けれど、それはきっと、彼女が「期待どおり」だったからだ。

「……分からない」

 彼は正直に言った。

「出迎えたかもしれない。だが、それは、期待どおりの人が来たからだ」

 喉が乾いていた。

「私は、一年間、妻に一度も会いに行かなかった。その理由は、妻の容姿でも年でもない。私が、会いに行かなかった。それだけだ。誰が来ていても、同じことが起きたと思う。私が、責任から目を逸らしていたから」

 石段の周りが、しん、と静まった。

 セレスティアはしばらく、彼を見つめていた。それから、ふっと息を吐いた。

「……そう答えられるなら、少しはましです」

 その声から、棘がわずかに抜けた。

「でも、それで許したわけではありません」

 彼女は腰の長剣に、手を添えた。

「ソードエキスパートと伺っています。一手、ご指南をお願いできますか」

 それは、断る余地のない挑戦だった。

  *

 中庭の石畳は、よく乾いていた。

 レオンハルトは愛用の剣を抜いた。父から受け継いだ、黒鋼の長剣。握るのは、ひさしぶりだった。領主の仕事に追われて、鍛錬の時間を、もう長いあいだ取っていない。

 向かい側に、セレスティアが立っている。抜いた剣は細身で、鏡のように磨かれていた。構えは、とても自然だった。肩の力が抜け、剣先はほとんど動かない。

 見物人が集まっていた。ヒルダたち護衛隊。新しい使用人たち。上階の窓から、リディアの小さな顔が一瞬、覗いて、すぐに引っ込んだ。刃が光るのを、嫌ったのだろう。

 その隣に、白髪の老人が静かに立っている。ゼノン。

「セレスティア様は、私の最後の弟子でございます」

 老剣士は穏やかに言った。

「大公爵様。どうぞ、全力で」

 その一言で、背筋が粟立った。

 レオンハルトは踏み込んだ。

 渾身の一太刀。ソードエキスパートの、研ぎ澄まされた袈裟斬り。父に鍛えられた、もっとも得意な型。

 ――空を、切った。

 セレスティアの体が、わずかに横へ流れていた。いつ動いたのか、見えなかった。剣先は彼の剣の腹を、軽く撫でている。

 二の太刀。三の太刀。連続で繰り出したが、そのすべてが紙一重で流された。まるで、風を斬っているようだった。

 四撃目の途中で、レオンハルトは気づいた。

 彼女は反撃をしていない。

 ただ、受けて、流して、待っている。彼の剣が、わずかに乱れる瞬間を。

 その瞬間は、すぐに来た。

 息が切れる。腕が重くなる。踏み込みが一歩、遅れた。

 刹那、銀色の光が閃いた。

 気づいたときには、彼の剣は石畳の上を、からん、と転がっていた。そして、喉元に、細身の剣先がぴたりと当てられていた。

 静寂。

 セレスティアの琥珀色の瞳が、すぐそばにあった。息も乱れていない。

「これが、一年分の差です」

 低い声で、彼女は言った。

「あなたが領主の仕事に追われて、鍛錬を怠った。その差。……でも」

 彼女は剣を引いた。

「踏み込みは悪くなかった。基礎は本物です」

 レオンハルトは数秒、動けなかった。それから、ゆっくりと膝をついた。

 負けたのだ。完敗だった。剣のことだけは誰にも負けない、とどこかで思っていた。その最後の矜持が、音もなく崩れていく。

 けれど、不思議と、悔しさよりも澄んだ感覚のほうが強かった。

「……ご指導、感謝する」

 彼は深く頭を下げた。

「家族の格を知った。妻の、家族の」

 セレスティアの眉がぴくりと動いた。

「素直ですね」

「負けは、負けだ」

 レオンハルトは顔を上げた。

「鍛錬を再開する。いつか、もう一度、お相手願いたい」

 セレスティアはしばらく黙って、彼を見ていた。それから、剣を鞘に収めた。

「……考えておきます」

 それだけ言って、彼女は背を向けた。けれど、その肩の力がほんの少しだけ抜けているのが、見えた。

  *

 その夜、北向きの部屋で、リディアは姉と二人きりになっていた。

 暖炉の火が、ぱちぱちと爆ぜている。部屋は温かい。壁際にはまだ少し古びた家具が並んでいたが、床には新しい絨毯が敷かれていた。

 今さらだけれど、と、大公爵から南側の客間を使うよう勧められた。けれど、リディアは断った。一年間を過ごした部屋だ。何事においても、慣れは大事な要素だった。

 その代わりに、せめてこれだけはと、大公爵が用意してくれたのが、この絨毯だった。床に直に寝転がるリディアのための気配りだとは、本人は思いつきもしていない。

 事実を受け止めるのは得意だが、推察は難しい。特に、人間の心は。

 セレスティアは部屋を、ゆっくりと見回している。

「……北の端の、小さな部屋。お父様の手紙どおりね」

 その声は静かだった。

「これが、一年」

「うん」

 リディアは床に足を投げ出して座っていた。

「でも、記録は、全部、取った。もう、終わったこと」

「あなたは、いつも、そう」

 セレスティアは苦笑して、リディアの隣に腰を下ろした。長い足を、行儀悪く投げ出す。

「ねえ、リディ。ひとつ聞いていい?」

「うん」

「どうして一年も我慢したの。お父様は、いつでも助け出すって言っていたでしょう」

 リディアは少し考えた。

「我慢、してない」

 淡々と答える。

「どうでもいい人たちのことは、気に掛けるだけ時間の無駄。そんなことより、みんなが居てくれたし、森に行けたし、ゲートにも入れた。……それに」

 彼女は膝を抱えた。

「先代の大公様と、奥様が、好きだったから。この家が潰れるのは、嫌だった」

 セレスティアは黙って聞いていた。それから、妹の頭をそっと撫でた。

「……優しい子ね。昔から」

「優しくない。ただの、投資」

「はいはい」

 セレスティアは笑った。けれど、その目は少し潤んでいた。

 部屋が穏やかな沈黙に包まれる。暖炉の火が、二人の顔を赤く照らしていた。

「ねえ、リディ」

 姉はぽつりと言った。

「あの人、悪い人じゃないわね」

 リディアは顔を上げた。

「……分かってる」

「負けたあと、素直に頭を下げた。あれは、なかなかできないことよ」

「うん。記録した」

「それだけ?」

「……態度、保留。でも、少し、加点」

 セレスティアは吹き出した。

「あなたらしい」

 それから、姉はリディアの顔を、じっと見つめた。

「でも、リディ。覚えておいて。あなたがどうするかは、あなたが決めるの。離婚を成立させても、取り下げても。私も、お父様も、あなたの味方」

「……うん」

 リディアは小さく頷いた。

 それから、ふと顔を上げて、姉を見た。

「お姉様」

「なに?」

「お姉様の剣、近くで見ると、光るから、嫌い」

 姉は一瞬、きょとんとして、それから、困ったように笑った。

「ごめんなさい。しまっておくわ」

 彼女は腰の剣を鞘ごと外して、遠くの壁際に、そっと置いた。




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