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最終話 猶予の最終日

 猶予の最終日の前日は、よく晴れていた。

 リディアは北向きの小さな部屋の床に座って、手帳に何かを書き込んでいた。荷造りをしているのは護衛たちで、リディア本人は時々、短く指示を出すだけだ。

 部屋の荷物は、あっという間にポシェットと革鞄の中へ消えていった。一年と少し過ごした部屋が、元の殺風景な石の部屋に戻る。窓の外には、柔らかな光が差していた。

「お嬢様。この部屋の暖炉は、最後まで温かかったですね」

 ヒルダが少し寂しそうに言った。

「うん」

 リディアは手帳から目を離さずに頷いた。

 この二週間で、大公邸は見違えるほど変わっていた。

 支援者であるユリウスが手配した、新しい家令と執事長が着任した。数字に強い年配の女性の家令。控えめだが目配りの利く執事長。先に着任していた、厳しいが筋の通った侍女長とあわせて、屋敷の要が揃った。使用人たちは、彼らのもとで再教育を受け、あるいは新しく雇われて、屋敷の空気を入れ替えていった。

 ヴィルヘルムは執務室の机に戻った。五年あまり溜まった書類の山を前に、息子にこれを全部押しつけていたのか、と豪快に笑って、三日で半分に減らした。エレオノーラは屋敷じゅうを歩いて、すべての使用人の名前を覚え直している。

 騎士団も動き出した。帰還した四十四名のベテランが、見習いたちを鍛え直している。中庭には毎朝、剣の音が響いていた。

 その中に、レオンハルトの姿があった。

 父の隣で書類の読み方を習い、午前は領政、午後は騎士団と、毎日忙しくしている。眠る時間は五時間まで伸びた。目の下の隈はまだ消えていないが、少し薄くなった。

  *

 その日の午後、オットーが一通の封書を、リディアの前に差し出した。

「ハインリヒが使っていた私室から見つかりました」

 封筒は古く、少し黄ばんでいた。宛名は整った女性の字で書かれている。

 『リディア・ヴェルナー様』

 送り主は、エレオノーラ。

 リディアは少しのあいだ、それを眺めていた。それから、レースの手袋の指で封を開けた。

 便箋は二枚。魔物のデータの写しが添えられている。一枚目は、いつもの挨拶と新しい魔物の記録。そして、二枚目の終わりに、短い文章があった。

 『今日、ゲートに入ります。深層を調べながら進み、来月、大亀に挑むつもりです。国を揺るがすほどの魔物と言われているので、呪いが心配です。もし、あなたの知恵をお借りできるなら、対策のお話を聞かせてください。ゲートの詰所へ届けてくだされば、受け取れるようにしておきます』

 その下に、もう一行。

 『それから、もし、私たちに何かあったら。息子を、助けてあげてください。不器用だけれど、真面目で、頑張れる子ですから』

 リディアは便箋をゆっくり畳んだ。

 この手紙が届いていたら。呪い対策の相談に、間に合ったかもしれない。あの棘が、また胸の奥で小さく動いた。

 けれど、考えても、あの日には戻れない。

 彼女は手紙をポシェットにしまった。

「頑張れる子」

 小さく呟いた。

「奥様も、同じ評価でした」

 ひとりごとだった。オットーは聞こえなかったふりをして、静かに頭を下げた。

「ハインリヒから、聞き取りを済ませました」

 オットーは手元の書類を一枚めくった。

「伯爵家に大公家の内情を知られ、口を出されるのを嫌ったそうです。領のために、と。数日だけ遅らせるつもりで、使いの者から預かったと申しておりました」

 その数日のあいだに、夫妻は戻らなくなった。

 今さら届ければ、止めたことが知れる。だから、出せなくなった。大それた企みではない。小さな保身がひとつ、引き出しの奥に五年あまりしまわれていただけだった。

「処遇は」

「紹介状なしの解雇です。ご実家への通達も済みました。遠ざけた古参の者たちへの呼び戻しの手紙は、すべて本人に書かせております」

 マティアスの小遣いは実家を通して全額が戻り、ベルタの分の慰謝料も話がついた。ガルシア商会は一括で払えず、十年の分割を願い出てきた。差額は大公領の収入となり、そのまま返済の元手になる。特許料は、リディアの手元に入る。

「十年の分割が、増えました」

 リディアは少し考えてから、ポシェットの奥を探った。取り出したのは、小さな水晶がひとつ。広間で水をかけられかけた日の記録だ。

「これを、ヴァイス家へ。公にはしません。大公爵様の名前を、二度と使わなければ」

「承知いたしました」

 使うべき時が来るまで使わない、とロザリンドに告げてある。その時が、来ただけのことだった。

 オットーは最後の一枚を差し出した。返済計画の案だった。嫁入り道具の評価の欄が、空いている。

「時価にいたしますか」

「取得原価で。利息は、年三分」

 リディアは鉛筆で書き入れた。

「時価だと、払えなくなります。回収できない貸しは、貸しじゃないので」

 それから、欄外に小さく一行を足した。袖留めの代金。

  *

 その夜の夕食は、大公邸の食堂で開かれた。

 長いテーブルに、ヴェルナー家の客人たちと大公家の者たちが、向かい合って座った。リディアの隣には、姉のセレスティア。向かいにユリウス。その隣で、皇帝が穏やかな顔で杯を傾けている。

 ヴィルヘルムが乾杯の音頭を取った。

「リディア嬢に」

 杯が一斉に掲げられた。

「大公家の恩人であり、我が家の大切な娘に」

「ヴィルヘルム様」

 リディアは静かに言った。

「私は、明日、離婚します」

「分かっている」

 ヴィルヘルムは杯を置いた。

「だが、言わせてくれ。私たちは、あなたを娘のように思っている。離婚しても、それは変わらない。この領は、いつでも、あなたの帰る場所だ」

 エレオノーラが静かに頷いた。目に涙が滲んでいる。

「ありがとうございます」

 リディアは丁寧に頭を下げた。

「でも、それは、友人として、ですね。契約が終われば、取引先です。素材の優先権は十年。適正価格で。特許料は、必ず上乗せで」

「ああ、もちろんだ」

 ヴィルヘルムは豪快に笑った。

「その点は、息子がきっちり書面にしている」

 食堂に笑いが広がった。

 リディアは少し黙ってから、付け加えた。

「それと」

 全員がリディアを見た。

「お料理は、おいしいです」

 それは、これまででいちばん素直な褒め言葉だった。厨房の扉の陰で、マルセルが小さく拳を握ったのを、ミーシャが目撃していた。

  *

 離婚の承認は、猶予の最終日の朝、応接室で行われた。

 皇帝が重々しく筆を取った。立ち会いは、ユリウスと先代夫妻と、オットー。

 書面の署名欄には、リディアの名前がすでにあった。レオンハルトがその隣に、自分の名を書き入れた。

 手は震えていなかった。

「返済は、分割で」

 リディアが念を押した。

「嫁入り道具分の現金。取得原価に、年三分の利息。袖留めの代金も。素材の取引で払う特許料の上乗せ分は、別。十年で」

「分かった」

 レオンハルトは書面を揃えた。

「十年で、必ず」

 皇帝が筆を置いた。

「これをもって、離婚を承認する」

 それだけだった。拍手も歓声もない。ただ、紙一枚が静かに閉じられた。

 皇帝は続けてレオンハルトへ目を向けた。

「数字に強い伴侶の件は、先代が戻った以上、急ぐ理由がなくなった。保留とする。そなたは、先代のもとで領政を学び直せ。道を決めるのは、そのあとでよい」

 レオンハルトは静かに頭を下げた。

「承知しました。一から、学び直します」

 皇帝は筆を片づけながら、ふとリディアに目を向けた。

「これで、孫がまた少々うるさくなるな」

 独り言のような声だった。ユリウスの笑顔の温度が、ほんの少しだけ下がった。

 その言葉は、いつも通り頭の棚に収まった。意味を考えるのは、後回しにした。

  *

 門の前には、馬車が並んでいた。

 来たときと同じ数。けれど、荷台はずっと軽い。ヴェルナー家の使用人たちが荷を積み込み、護衛隊が馬車の周りに立っている。ヒルダ。ミーシャ。ノワール。ゼノン。アルベルト。その隣には、姉のセレスティアの姿もあった。

 見送りの人の中に、レオンハルトがいた。

 彼はリディアの前に立った。袖口には、銀の枠の石がまだ光っている。

「この袖留めは、返したほうがいいか」

「いいです。もう、あなたのものなので」

「……そうか」

 レオンハルトは少し笑った。この一年で初めて見る、小さな笑顔だった。

「リディア。これまで、本当に」

「まだ、お礼は、早いです」

 いつもの言葉だった。

「十年の返済が終わったら、そのとき、考えます」

 それが彼女の、最後の返事だった。

 レオンハルトは深く頭を下げた。その背後で、ヴィルヘルムとエレオノーラがそっと息子の肩に手を置いた。

 リディアは馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。窓の外で、大公邸の石造りの屋敷がゆっくりと遠ざかっていく。

 北向きの窓。三階のいちばん端。

 あの部屋に、もう誰もいない。

「お嬢様。次は、どちらへ」

 ヒルダが静かに尋ねた。

 リディアはポシェットから、月梟のランタンを取り出した。青銅の枠が、窓の外の光を受けて鈍く光る。

 あれの使い道を考えなきゃ、と離婚届を出した朝に呟いた。その答えが、ようやく出た。

 失敗作だと思っていた。使い道のない、迷走した品だと。

「……失敗作、じゃなかった」

 小さく呟いた。

「保留に、しとく」

「保留、でございますか」

「うん。まだ、使い道が、あるかもしれない」

 リディアは手帳を開いた。大公領のゲートの第六層。神聖王国へ続く、白い階段。その先にも、まだ誰も知らない道があるはずだ。

「次は」

 彼女はほんの少しだけ、口の端を上げた。

「どこの黒のゲートに、行こうか」

 馬車が街道を走り出した。窓の外で、初夏の森が濃い緑に輝いていた。




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