1.プロローグ
夫の健一が突然いなくなって、一か月が過ぎた。交通事故だった。仕事の途中、歩道を歩いていて、走ってきた車にはねられた。
連絡を受けて駆け付けた病院で対面したのは、夫の変わり果てた姿だった。何が起きたのかがわからずに、思考が停止してしまった私。妙に冷静に振る舞っていた。そう、あざだらけの顔は、高校の行き帰りの電車の中で出会った夫の悪いいたずらか、誰かが私を驚かそうとしているに違いないわ。そう、きっとそう。だから、もうしばらくしたら、いつもの買い物帰りのように、娘の多香子の進学のことを話したり、たまには若かった頃の気持ちに戻って、仲良く手を繋いだりして、一緒に帰ることだってできる。
だけど、現実は残酷だった。夫が二度と目を覚ますことはなかった。私の置かれた状況を知るにつれて、悲しみがどこからともなくじわじわと私の身体を襲ってきて、私はまともに立っていられなくなった。そこが病院だったので、そのまま点滴などの処置を受けたと思う。それから、どうやって、家に帰ったのかも覚えていない。
葬儀は、魂の抜けた蝋人形のような私に変わって、誰かが進めてくれていた。辛うじて、最後のお別れのときに、夫の棺に花を手向けることができたが、夫の亡骸が荼毘に付されて収骨するときは、とても向き合える状態ではなかった。
やがて、夫の遺骨とともに家に戻り、高校二年生になる多香子と二人きりになってみて初めて、本当に夫が亡くなってしまったことを悟った。深い悲しみに暮れ、やがてそれは激しい怒りに変わった。だが、それも長続きせず、心にぽっかりと穴が空いた状態になる。
そうして、ほとんど何も手につかないまま、一か月が過ぎた。一人娘の多香子も、葬儀の後に体調を崩してしまい、一週間ほど学校を休んで家に閉じ籠っていた。だけど、いつまでもそうしてはいられないと思ったのか、いつしか登校を再開して、見た目にはそれまでと変わらぬ生活を送っている。私だけが一人、立ち直れないでいる。まさに、そんな状態だった。
夫は、ひとことで言い表せば、堅実な人だった。大学を出て、一流商社に勤めていた夫には、それなりの貯蓄があった。それに、今、住んでいる郊外の一戸建て住宅のローンを組むときに、夫が生命保険に加入していて、ローンの残高はどうやら下りてくる保険金で賄えるようだった。そうした数々の手続きのことは、よくわからなかった。だから、私に代わって会計事務所に勤めている弟が、全部済ませてくれた。
最愛の人を失って、すぐにお金のことを考えないといけないのは、私のような遺された者にとっては酷なこと。それを弟が肩代わりしてくれたのだから、肉体的にも精神的にも、私は随分助かったのだが、それでもなお、私にはやらないといけないことがあった。
それは、夫のスマートフォンの解約手続きや、中に入っているアプリなどの削除、それに財布の中に入っている健康保険証や運転免許証などの手続き。
ボタン一つでアプリの削除が完了できることや、手続きのために訪れた役所などで受けた事務的な対応は、ある意味で残酷だった。まるで夫が生きた証が、いとも簡単に一つ、また一つと、この世から消えていくようだった。別に、私の気持ちに寄り添うようにとは言わないけれど、もう少し温かみのある対応があってよいと思う。まぁ、そんなことを私が思ったところで、相手は仕事の一環として対応している訳だから、仕方がないこともわかっているけれど……。
そうやって、今日も私は一人きりで、だいぶ中身が軽くなった夫のスマホや、財布の中のカードと向き合っている。早く解約しないと、新たに年会費がかかってくるものもあるので、急ぐに越したことはないのだが、私の作業は遅々として進まない。
「あなた、私たち、これからどうすればいいの?」
リビングの戸棚の上で微笑んでいる夫の遺影に向かって、私は何度も訊いていた。




