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第24話 休んだから、昨日とは違うものが見えた



 翌日の午後九時過ぎ。


 俺が《奈落》へ向かう準備をしていると、玄関の前にはすでに五人が揃っていた。


「……何で全員いるの?」


「確認です」


 玲華が当然のように答え、紫苑も腕を組んで頷いた。


「昨日ちゃんと休んだかどうか」


「休んだよ。七時間くらい寝た」


「七時間?」


 澪の表情がぱっと明るくなる。


「本当ですか、悠真先生?」


「本当。朝起きたら身体も軽かった」


「よかった……」


 まるで自分のことのように安心されると、少し居心地が悪い。


 陽菜は俺の顔を覗き込み、にやにやしながら言った。


「休養ランクFから、一気にDくらいまで上がったね」


「まだDなの?」


「自分から休めるようになったらCかな」


「探索者ランクより厳しくない?」


「教官」


 いつの間にか背後へ回っていた沙夜が、俺の手にある手帳を見た。


「昨日、何か分かった?」


「一個だけ」


 その言葉で、五人の空気が変わった。


 俺は昨日のページを開き、《深層守護獣》について書いた箇所を見せる。


「三回目の左前脚。昨日は側面移動の合図だと思ったけど、たぶん違う」


「では、何だと思うんです?」


「まだ分からない。ただ、一回目と二回目は地面を踏んでたのに、三回目だけ軽く触れてた気がする」


 玲華が図を覗き込み、紫苑も隣から顔を寄せた。


「接地の強さが違う?」


「うん。だから今日はそこを見る」


「それだけのために?」


 紫苑の問いに、俺は頷いた。


「それだけ分かれば十分だろ」


 昨日までなら、その言葉を聞いた彼女たちは少し不思議そうな顔をしていた。


 今は誰も笑わない。


 俺が十二年間、本当にそれだけを積み重ねてきたことを、もう知っているからだ。


「じゃあ行ってくる」


「先生」


 玲華が呼び止める。


「今日は怪我をしたら?」


「帰る」


「怪我をしなくても、予想外の動きをしたら?」


「帰る」


「無理にもう一度確認しようとしたら?」


「……帰るよ」


 少し間が空いたせいで、五人の目が細くなった。


「本当に?」


「本当に」


「録音しました」


 陽菜がスマートフォンを見せる。


「そこまでする!?」


「証拠は大事だから」


 信用を取り戻すには時間が掛かりそうだった。


 ◇


 午前零時十三分。


 《奈落》第八十五階層。


 昨日と同じ大型扉の前に立ち、俺は一度だけ深く息を吐いた。


 右肩に痛みはない。


 身体も軽い。


「やっぱ休んだ方が動くな」


 そんな当たり前のことを、二十九歳になって初めて実感した気がする。


 扉を数センチだけ開ける。


 暗い部屋の中央には、《深層守護獣》が伏せていた。


 黒い甲殻。


 二本の角。


 巨大な四肢。


 昨日と同じ。


 時計を確認する。


「開始」


 一分。


 右耳が小さく動く。


 二分四秒。


 尾が一度、床へ落ちた。


 三分を過ぎると呼吸が僅かに速くなる。


 そして。


 四分四十九秒。


 左前脚。


 一度目。


 ――踏む。


 二度目。


 ――踏む。


「…………」


 昨日と同じだ。


 問題は次。


 三度目。


 巨大な爪先が、床へゆっくり伸びる。


 だが。


「やっぱり」


 踏んでいない。


 触れただけ。


 ほんの一瞬。


 そして。


 守護獣の身体が横へ沈んだ。


「閉める」


 扉を閉じる。


 直後。


 昨日と同じように壁が爆発した。


 ドゴォン!!


 破片が通路へ飛び散る。


 俺は十分に距離を取っていたので、今日は掠りもしない。


「一個確認」


 手帳へ書く。


『第三接地――弱い』


『側面移動直前』


 ただ。


 これだけではまだ分からない。


「何を確かめてる?」


 壁?


 距離?


 床?


 俺は昨日の動きを頭の中で繰り返した。


 一回目。


 二回目。


 強く踏む。


 三回目。


 軽く触れる。


「…………」


 ふと思いつく。


 近くに小石が落ちていた。


「試すか」


 守護獣が元の位置へ戻るまで待つ。


 十分。


 十五分。


 気配が落ち着いたところで、もう一度扉を開いた。


 今度は。


 小石を部屋の右端へ投げる。


 カン。


 小さな音。


「…………」


 守護獣は動かない。


「音じゃない?」


 次。


 少し大きな石。


 床へ落とす。


 ゴトッ。


 その瞬間。


 守護獣の左前脚が。


 ――床を踏んだ。


「……ん?」


 もう一つ。


 今度は逆側。


 石を滑らせる。


 ごろごろと床を転がる。


 左前脚。


 一度。


 二度。


 そして。


 守護獣の顔が。


 石の転がった方向へ向いた。


「目じゃない」


 俺は扉の陰で完全に動きを止めた。


 守護獣の目は開いている。


 こちらを向いているように見える。


 でも。


 俺には来ない。


「まさか」


 床を見る。


 石。


 守護獣の脚。


 そして。


 俺自身の足。


 試す。


 その場から。


 ほんの少しだけ右足を浮かせ。


 床へ。


 トン。


 置いた。


 守護獣の頭が。


 一瞬でこちらを向いた。


「…………」


 心臓が少し速くなる。


「そういうことか」


 目で見ているんじゃない。


 少なくとも。


 目だけではない。


 床を伝う振動。


 それを。


 左前脚で拾っている。


「だから三回目」


 手帳へ書く。


『左前脚――攻撃予備動作ではない可能性』


『床振動による位置確認?』


 昨日。


 俺が扉を閉めようとして動いた。


 その足音。


 振動。


 守護獣は三度目の接地で、俺の位置を取り直した。


 だから。


 正面ではなく。


 壁を越えて。


 俺のいる側面へ来た。


「…………」


 面白い。


 昨日まで。


 攻撃の合図だと思っていた。


 でも違う。


 あれは。


 敵を探している動作だった。


「じゃあ」


 もし。


 振動を出さなかったら?


 そこまで考えて。


 止める。


「今日はここまで」


 確かめたい。


 ものすごく確かめたい。


 でも。


 次は。


 実際に部屋へ入ることになる。


 今日やる必要はない。


 昨日約束した。


 予想外のことが分かったら帰る。


「明日だな」


 手帳を閉じる。


 踵を返す。


 いつもなら。


 少しだけ。


 勿体ない気がしたかもしれない。


 今日は違った。


「休んだら気づけたんだし」


 急がなくていい。


 分かったことを。


 一晩置く。


 それも。


 たぶん。


 前へ進む方法の一つだ。


 ◇


 午前一時三十七分。


「お帰りなさい、先生」


「…………」


 《奈落》の入口を出ると。


 五人。


 全員いた。


「なんで?」


「待っていました」


「昨日全員で動くなって話したよな?」


「入口で待つだけです」


 玲華が平然と言う。


「目立つって」


「今日は変装してるから」


 陽菜が帽子を指差す。


「そういう問題?」


 澪は俺の右肩へ真っ先に視線を向けた。


「怪我は?」


「ゼロ」


「本当に?」


「ほら」


 両腕を動かす。


 澪が安心したように胸へ手を当てた。


「よかったです」


「それで?」


 紫苑が一歩近づく。


「分かったの?」


「たぶん一個」


 手帳を開く。


「深層守護獣、目より床を見てるかもしれない」


「床?」


「左前脚で振動拾ってる」


 五人の顔から軽さが消えた。


 俺は石を落とした時の反応と、自分が足を置いた瞬間に頭が向いたことを説明する。


 最後まで聞いた沙夜が、小さく息を吐いた。


「教官」


「何?」


「それなら」


「うん」


「私が一番向いている」


「何に?」


「歩くこと」


「ああ」


 《影踏み》。


 音も。


 気配も。


 足運びも消せる沙夜なら。


 確かに。


「でも」


 俺は首を振る。


「明日は俺がやる」


「なぜ?」


「俺が見つけた仮説だから」


「…………」


「間違ってた時に沙夜が怪我するの嫌だし」


 沙夜が止まった。


「俺なら昨日一回見てる。逃げ方も少し分かる」


「…………」


「だからまず俺」


 数秒。


 沙夜は何も言わなかった。


 やがて。


「分かった」


 いつもの平坦な声。


 でも。


 ほんの少しだけ。


 柔らかい。


「教官」


「ん?」


「そのあと」


「うん」


「私にも教えて」


「もちろん」


「……うん」


 その横。


 玲華たち四人が。


 なぜか沙夜を見ていた。


「黒羽さん」


「何?」


「今のは少しずるくありませんか?」


「何が?」


「先生と二人だけで通じ合った感じがします」


「事実」


「そこです!」


 紫苑も不満そうに口を挟む。


「だったら私も明日行く」


「紫苑さんは振動消せるの?」


 陽菜。


「練習する!」


「一晩で?」


「先生なら何か方法知ってるでしょ!」


「俺に振るなよ」


 さっきまで深層守護獣の話をしていたはずなのに。


 また違う話になっている。


 ◇


 その夜。


 国立探索技術研究所。


 御堂啓介は。


 十二年前の記録をさらに遡っていた。


 匿名掲示板。


 十七歳。


 低魔力。


 圧縮訓練。


 投稿時刻。


 そして。


 初到達記録。


 偶然では済ませられないほど。


 重なる。


「あと一つ」


 証拠ではない。


 確信でもない。


 だが。


 黒瀬悠真を。


 もう一度。


 ただのE級として見ることはできなかった。


 御堂は過去の探索記録から。


 ある項目を開く。


『初期探索者向け実技講習――十二年前』


 参加者一覧。


 そこに。


『黒瀬悠真』


 名前があった。


「映像が残っている」


 古い。


 低画質。


 新人探索者たちが。


 魔力操作の基礎訓練を受けている。


 十七歳の黒瀬悠真。


 今より細い。


 まだ。


 どこにでもいる少年。


「…………」


 課題。


『魔力を手のひらへ集中』


 周囲の新人たち。


 光。


 強い魔力。


 黒瀬。


 ほとんど光らない。


 教官が何かを言う。


 少年は。


 少し困ったように笑っていた。


 御堂は音量を上げる。


『黒瀬。お前は元々の魔力量が少なすぎる』


『はい』


『人より何倍も努力しないと厳しいぞ』


『そうですか』


『探索者を続けるなら覚悟しろ』


『分かりました』


 少年は。


 落ち込まなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ。


 自分の手を見て。


 小さく呟いた。


『じゃあ』


『使わない分を減らせばいいのかな』


「…………」


 御堂の背筋に。


 ゆっくり。


 震えが走った。


 十二年前。


 まだ何の力もなかった少年は。


 その日すでに。


 同じことを考えていた。


「黒瀬悠真」


 御堂は。


 画面の少年へ向かって。


 小さく呟く。


「お前」


 もはや。


 疑問ではなかった。


「本当に十二年、続けたのか?」


 そしてその頃。


 当の本人は。


 自宅の手帳に。


『明日』


『振動を出さずに一歩入る』


 たったそれだけを書いて。


 眠りについていた。


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