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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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9/22

第九話 今日の洗濯と明日のお金

 十月の神田は、秋の匂いがした。


 万博が閉幕して二週間が経つ。

 テレビから「人類の進歩と調和」という言葉が消えて、光化学スモッグ注意報が出なくなって、空が澄んできた。

 古書店の棚の前で文庫本を開いている人たちの息が、少しだけ白く見える。

 夏の間ずっと黄ばんでいた石畳が、今日は雨上がりのように光っている。

 神田川の水面にも、その光が映っていた。


 美智子はすずらん通りを歩きながら、胸の中でひとつのことを確かめていた。

「お父様には、まだ話さないでほしかった」・・正人にそう言った日から、一ヶ月が経つ。

 結納の話は止まっている。

 父はあれ以来、何も言わない。

 正人も待っている。

 みんなが待っている。

 美智子が何かを言うのを。

 でも何を言えばいいのか、まだわからない。


 大学の友人たちは、美智子の話を聞いて「え、正人さんほどの人をなぜ迷うの?」と口を揃えた。

 母は「若いうちの感情なんて信用しちゃだめよ、一緒に暮らせばわかる」と言った。

 担任の教授は「有馬さんは優秀だから就職も考えたらどうかしら」と言った・・でもそれは「結婚より就職を選べ」という意味ではなく、「優良物件に選ばれる前に腰を落ち着けなさい」という意味だと、美智子にはわかった。


 いつもなら「まあいいか」と折れていた。

 でも最近は、折れようとするたびに、何かが邪魔をする。

 正人の「完璧すぎて私が入る隙間がない」という感覚が、折れようとするたびに戻ってくる。

 それが何なのか、言葉にならないまま、ずっと頭の中でぐるぐるしている。


 洗濯。

 お金。

 取り返しのつかないこと。

 ちゃんとした文章にはならないのに、その言葉だけが、何度も何度も浮かんでくる。


 喫茶「かぐら」の引き戸を開けると、竜介がいた。

 珍しく先に来ていた。

 カウンターの端に座って、取材ノートを開いたまま、コーヒーを飲んでいる。

 美智子が来ても顔を上げない。

 でも「来たか」と言った。


「待ってたんですか」

「神田に来る用があった。どうせお前も来ると思った」

「神田が狭いから?」

「そうだ」

 美智子は隣に座った。

 コーヒーを頼んで、しばらく黙って窓の外を見た。

 秋の神田川が光っている。


 竜介が先に口を開いた。

「取材、また壁にぶつかった」

「企業側の圧力ですか」

「それもある。でも今回は社内だ。デスクが『一面はしばらく経済欄に開けておけ』と言ってきた。万博が終わって広告がどう動くか、上が気にしてるらしい。スクープより広告費の方が今は大事なんだと」

「書けないの?」

「書けない。書けるけど、出せない」

 竜介はコーヒーカップを指で叩いた。

「ペンを持ってて書けないっていうのが、一番こたえる。銃持ってて撃てないようなもんだ」


 美智子はその横顔を見た。

 疲れている。

 目の下に、うっすらと隈がある。

 でもペンを手放す気はない・・それが、見ているだけでわかった。


「竜介さん」と美智子は言った。

「一つ聞いていいですか」

「なんだ」

「竜介さんは、いつかペンを手放す日が来ると思いますか」

 竜介は少し間を置いた。

「来ない」

「なぜ」

「書くことが俺の重さだからだ。活字みたいに・・書くことで俺はやっと具体的な形を持てる。それがなくなったら、俺はただの石川の農家の長男に戻るだけだ」

「農家の長男じゃいけないの?」

「いけなくはない。でも俺にはここしかない」

 美智子はコーヒーに砂糖を一つ入れて、ゆっくりかき混ぜた。


「うらやましい」と美智子は言った。

「何が」

「自分の重さを知ってること。迷わずそう言えること」

 竜介は黙った。

 美智子も黙った。

 しばらく、カウンターの端に並んで、川の方向を見ていた。

 喫茶店のラジオが低い音量で流れていた。

 歌謡曲の、知っているようで知らない曲だった。


 しばらくして、美智子は話し始めた。

 最初から言葉にするつもりはなかった。

 ただ、頭の中でずっとぐるぐるしていたものが、秋の神田の夜の空気の中で、少しずつ輪郭を持ち始めた。


「正人さんのこと、ずっと考えてた」と美智子は言った。

「なぜ答えを出せないのか。あんなにいい人なのに・・正論で、誠実で、本気で大切にしてくれているのに、どこかで頷けない。なぜなのか、ずっとわからなかった」

「わかったのか」

「少しだけ」


 美智子は窓の外を見た。

 神田川に街灯が映って、揺れている。


「竜介さんたち男の人は、大きな言葉で生きていられるよね」と美智子は言った。

「ペンで天下を獲るとか、命を捨てる覚悟だとか、法と秩序で貧しい人を救うとか・・大きくて美しい言葉で、人生を組み立てられる。その言葉を信じて、燃え続けられる。それがどれだけ苦しくても、大きな言葉がある限りは立っていられる」

「お前はそれが羨ましいのか」

「最初はそう思ってた。でも違うかもしれない」

 美智子は少し間を置いた。

 どう言えばいいか、まだ正確にはわからない。

 でも、言わないまま今夜が終わる気にはなれなかった。


「女の人の人生は、もっと具体的なんだと思う」と美智子は言った。

「今日の洗濯があって、明日生きるためのお金があって・・一度結婚したら取り返しがつかなくて、子供が生まれたらその子の今日の洗濯と明日のお金になって。そういう具体的なことの積み重ねで生きていくしかない。大きな言葉で燃えているひまが、そもそもない」


 竜介は何も言わなかった。

「恵子はそれをわかってて『最初の一手が大事』と言う。母はそれをわかってて黙って続けてきた。正人さんはそれをわかっていて『一生守る』と言う。みんな正しい。正しいのに・・」

 美智子の声が、少し震えた。

 震えているのに気づいて、自分でも驚いた。


「・・正しいのに、私はその正しさの中に入っていけない気がする。守られた人生は、守ってくれる人がいなくなったらどうなるの?私の今日の洗濯を、私が回せるかどうか。私の明日のお金を、私が稼げるかどうか。そこから始めないと、どこへも行けない気がする」

 竜介はコーヒーカップを置いた。

 しばらく黙っていた。


「お前、それを正人に言ったのか」

「言えてない」

「なぜ」

「正人さんは間違っていないから。守るという優しさは本物だ。だから・・その正しさに、私の言葉で傷をつけることが怖かった」

「傷をつけてもいいんじゃないか」と竜介は言った。

「え?」

「正論だから傷つけてはいけない、なんて理屈はない。お前の言葉もお前の人生に対する正論だ。正論と正論がぶつかって当然だろ。お前が折れるしかない理由はない」

 美智子は竜介を見た。


「あなた、意外と・・」

「意外と、なんだ」

「優しいんですね」

「違う」

 竜介は即座に言った。

「俺が言ってるのは、お前が言い訳してると言ってるんだ。折れていい場所じゃないのに、折れようとしてる」

 美智子は少し笑った。

「そっちの方が竜介さんらしい」

「俺が優しかったことは一度もない」

「私が知ってる竜介さんは、わりと優しいですよ」

 竜介は黙った。

 否定もしなかった。


 帰り際、夜の神田川の橋の上で、美智子は立ち止まった。

 水面に街灯が映っている。

 冷たい秋の風が川上から来て、コートの裾を揺らした。


「ひとつだけ聞いていいですか」と美智子は言った。

「なんだ」

「竜介さんは、私に自分で決めてほしいと思ってますか。それとも・・正人さんと結婚してほしいと思ってますか」

 竜介は少し間を置いた。

 川の音がした。


「俺には関係ない」と竜介は言った。

「そう」

「ただ」

 竜介は続けた。

「お前が今夜言ったことを、自分で忘れるな。今日の洗濯と、明日のお金・・その言葉はお前から出てきた言葉だ。誰かに教わったんじゃない。お前の中から、今夜ここで出てきた」


 美智子は竜介を見た。

 夜の神田川の街灯の下、その顔はいつもより少しだけ柔らかかった気がした。

「ありがとう」と美智子は言った。

「礼はいらない」

「でも言いたいから言います」

 竜介は何も言わなかった。

 ただ、橋の欄干に肘をついて、川を見ていた。


 美智子も川を見た。

 水面に映った街灯が、風で少し揺れている。


 今日の洗濯と、明日のお金・・それだけで充分じゃないのか、と美智子は思った。

 大きな言葉なんかなくていい。

 この川の、この灯りの揺れ方を、ちゃんと見ていられること。

 具体的な一日を、具体的に生きていけること。

 それだけが今夜、一番正直な言葉に思えた。

 風が、秋の神田川を吹き抜けていった。

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