第九話 今日の洗濯と明日のお金
十月の神田は、秋の匂いがした。
万博が閉幕して二週間が経つ。
テレビから「人類の進歩と調和」という言葉が消えて、光化学スモッグ注意報が出なくなって、空が澄んできた。
古書店の棚の前で文庫本を開いている人たちの息が、少しだけ白く見える。
夏の間ずっと黄ばんでいた石畳が、今日は雨上がりのように光っている。
神田川の水面にも、その光が映っていた。
美智子はすずらん通りを歩きながら、胸の中でひとつのことを確かめていた。
「お父様には、まだ話さないでほしかった」・・正人にそう言った日から、一ヶ月が経つ。
結納の話は止まっている。
父はあれ以来、何も言わない。
正人も待っている。
みんなが待っている。
美智子が何かを言うのを。
でも何を言えばいいのか、まだわからない。
大学の友人たちは、美智子の話を聞いて「え、正人さんほどの人をなぜ迷うの?」と口を揃えた。
母は「若いうちの感情なんて信用しちゃだめよ、一緒に暮らせばわかる」と言った。
担任の教授は「有馬さんは優秀だから就職も考えたらどうかしら」と言った・・でもそれは「結婚より就職を選べ」という意味ではなく、「優良物件に選ばれる前に腰を落ち着けなさい」という意味だと、美智子にはわかった。
いつもなら「まあいいか」と折れていた。
でも最近は、折れようとするたびに、何かが邪魔をする。
正人の「完璧すぎて私が入る隙間がない」という感覚が、折れようとするたびに戻ってくる。
それが何なのか、言葉にならないまま、ずっと頭の中でぐるぐるしている。
洗濯。
お金。
取り返しのつかないこと。
ちゃんとした文章にはならないのに、その言葉だけが、何度も何度も浮かんでくる。
喫茶「かぐら」の引き戸を開けると、竜介がいた。
珍しく先に来ていた。
カウンターの端に座って、取材ノートを開いたまま、コーヒーを飲んでいる。
美智子が来ても顔を上げない。
でも「来たか」と言った。
「待ってたんですか」
「神田に来る用があった。どうせお前も来ると思った」
「神田が狭いから?」
「そうだ」
美智子は隣に座った。
コーヒーを頼んで、しばらく黙って窓の外を見た。
秋の神田川が光っている。
竜介が先に口を開いた。
「取材、また壁にぶつかった」
「企業側の圧力ですか」
「それもある。でも今回は社内だ。デスクが『一面はしばらく経済欄に開けておけ』と言ってきた。万博が終わって広告がどう動くか、上が気にしてるらしい。スクープより広告費の方が今は大事なんだと」
「書けないの?」
「書けない。書けるけど、出せない」
竜介はコーヒーカップを指で叩いた。
「ペンを持ってて書けないっていうのが、一番こたえる。銃持ってて撃てないようなもんだ」
美智子はその横顔を見た。
疲れている。
目の下に、うっすらと隈がある。
でもペンを手放す気はない・・それが、見ているだけでわかった。
「竜介さん」と美智子は言った。
「一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「竜介さんは、いつかペンを手放す日が来ると思いますか」
竜介は少し間を置いた。
「来ない」
「なぜ」
「書くことが俺の重さだからだ。活字みたいに・・書くことで俺はやっと具体的な形を持てる。それがなくなったら、俺はただの石川の農家の長男に戻るだけだ」
「農家の長男じゃいけないの?」
「いけなくはない。でも俺にはここしかない」
美智子はコーヒーに砂糖を一つ入れて、ゆっくりかき混ぜた。
「うらやましい」と美智子は言った。
「何が」
「自分の重さを知ってること。迷わずそう言えること」
竜介は黙った。
美智子も黙った。
しばらく、カウンターの端に並んで、川の方向を見ていた。
喫茶店のラジオが低い音量で流れていた。
歌謡曲の、知っているようで知らない曲だった。
しばらくして、美智子は話し始めた。
最初から言葉にするつもりはなかった。
ただ、頭の中でずっとぐるぐるしていたものが、秋の神田の夜の空気の中で、少しずつ輪郭を持ち始めた。
「正人さんのこと、ずっと考えてた」と美智子は言った。
「なぜ答えを出せないのか。あんなにいい人なのに・・正論で、誠実で、本気で大切にしてくれているのに、どこかで頷けない。なぜなのか、ずっとわからなかった」
「わかったのか」
「少しだけ」
美智子は窓の外を見た。
神田川に街灯が映って、揺れている。
「竜介さんたち男の人は、大きな言葉で生きていられるよね」と美智子は言った。
「ペンで天下を獲るとか、命を捨てる覚悟だとか、法と秩序で貧しい人を救うとか・・大きくて美しい言葉で、人生を組み立てられる。その言葉を信じて、燃え続けられる。それがどれだけ苦しくても、大きな言葉がある限りは立っていられる」
「お前はそれが羨ましいのか」
「最初はそう思ってた。でも違うかもしれない」
美智子は少し間を置いた。
どう言えばいいか、まだ正確にはわからない。
でも、言わないまま今夜が終わる気にはなれなかった。
「女の人の人生は、もっと具体的なんだと思う」と美智子は言った。
「今日の洗濯があって、明日生きるためのお金があって・・一度結婚したら取り返しがつかなくて、子供が生まれたらその子の今日の洗濯と明日のお金になって。そういう具体的なことの積み重ねで生きていくしかない。大きな言葉で燃えているひまが、そもそもない」
竜介は何も言わなかった。
「恵子はそれをわかってて『最初の一手が大事』と言う。母はそれをわかってて黙って続けてきた。正人さんはそれをわかっていて『一生守る』と言う。みんな正しい。正しいのに・・」
美智子の声が、少し震えた。
震えているのに気づいて、自分でも驚いた。
「・・正しいのに、私はその正しさの中に入っていけない気がする。守られた人生は、守ってくれる人がいなくなったらどうなるの?私の今日の洗濯を、私が回せるかどうか。私の明日のお金を、私が稼げるかどうか。そこから始めないと、どこへも行けない気がする」
竜介はコーヒーカップを置いた。
しばらく黙っていた。
「お前、それを正人に言ったのか」
「言えてない」
「なぜ」
「正人さんは間違っていないから。守るという優しさは本物だ。だから・・その正しさに、私の言葉で傷をつけることが怖かった」
「傷をつけてもいいんじゃないか」と竜介は言った。
「え?」
「正論だから傷つけてはいけない、なんて理屈はない。お前の言葉もお前の人生に対する正論だ。正論と正論がぶつかって当然だろ。お前が折れるしかない理由はない」
美智子は竜介を見た。
「あなた、意外と・・」
「意外と、なんだ」
「優しいんですね」
「違う」
竜介は即座に言った。
「俺が言ってるのは、お前が言い訳してると言ってるんだ。折れていい場所じゃないのに、折れようとしてる」
美智子は少し笑った。
「そっちの方が竜介さんらしい」
「俺が優しかったことは一度もない」
「私が知ってる竜介さんは、わりと優しいですよ」
竜介は黙った。
否定もしなかった。
帰り際、夜の神田川の橋の上で、美智子は立ち止まった。
水面に街灯が映っている。
冷たい秋の風が川上から来て、コートの裾を揺らした。
「ひとつだけ聞いていいですか」と美智子は言った。
「なんだ」
「竜介さんは、私に自分で決めてほしいと思ってますか。それとも・・正人さんと結婚してほしいと思ってますか」
竜介は少し間を置いた。
川の音がした。
「俺には関係ない」と竜介は言った。
「そう」
「ただ」
竜介は続けた。
「お前が今夜言ったことを、自分で忘れるな。今日の洗濯と、明日のお金・・その言葉はお前から出てきた言葉だ。誰かに教わったんじゃない。お前の中から、今夜ここで出てきた」
美智子は竜介を見た。
夜の神田川の街灯の下、その顔はいつもより少しだけ柔らかかった気がした。
「ありがとう」と美智子は言った。
「礼はいらない」
「でも言いたいから言います」
竜介は何も言わなかった。
ただ、橋の欄干に肘をついて、川を見ていた。
美智子も川を見た。
水面に映った街灯が、風で少し揺れている。
今日の洗濯と、明日のお金・・それだけで充分じゃないのか、と美智子は思った。
大きな言葉なんかなくていい。
この川の、この灯りの揺れ方を、ちゃんと見ていられること。
具体的な一日を、具体的に生きていけること。
それだけが今夜、一番正直な言葉に思えた。
風が、秋の神田川を吹き抜けていった。




