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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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10/23

第十話 正人のプロポーズ

 十月の末の土曜日、正人は午後二時ぴったりに迎えに来た。


 白いハコスカが、有馬家の門の前に静かに停まった。

 クラクションは鳴らさない。

 エンジンも切らない。

 ただ、静かに待っている。

 美智子が玄関を出ると、正人はすでに助手席のドアを開けて、外に立っていた。

 紺のスーツ。

 光沢のある革靴。

 腕のオメガの時計が、十月の午後の光を弾いた。


「待たせてしまって、ごめんなさい」と美智子は言った。

「二分だけです。気にしないでください」

 正人は微笑んだ。

 完璧な微笑みだった。

 二分も待たせたのに、それをちゃんと数えていて、でも責めない。

 その優しさが完璧だった。

 美智子は助手席に乗り込んだ。


 連れていかれたのは、赤坂の日本料理店だった。

 格子戸をくぐると、仲居さんが深々と頭を下げる。

「榊様、お待ちしておりました」・・名前で呼ばれた。

 予約だけでなく、常連客として扱われている店だということが、その一言でわかった。

 個室に通されると、庭の見える席に、すでに懐石の膳が整えられている。

 庭の楓が、半分だけ赤く染まっていた。

 半分が緑のまま、半分が赤に変わりつつある。

 その中間の色が、十月の午後の光の中で静かに揺れていた。


「きれいですね」と美智子は言った。

「ここの庭は、十一月の第一週が一番きれいです」と正人は言った。

「来年も来られるといいですね」

 その「来年」という言葉が、どこかに引っかかった。

 でも美智子はその引っかかりに名前をつける前に、仲居さんがお茶を運んできた。


 食事が進むにつれて、正人は話し始めた。

 いつものように、口調は静かで、丁寧で、一文ずつ間がある。

 今日の話題は将来のことだった。

 来年の春に司法修習を終えること。

 父の知人の法律事務所に入ること。

 将来的には家庭裁判所の裁判官を目指していること。


「子供に関わる仕事がしたい」と正人は言った。

「貧しい家庭の子供たちを、制度の力で守りたい。感情論ではなく、法という確かな盾で守れるのが裁判官だと思っています」

 美智子はその言葉を聞きながら、料理の器を見ていた。

 漆塗りの椀。

 中に丁寧に盛られた菊花豆腐。

 お椀の縁まで、一分の狂いもなく整えられている。

 どこを見ても、欠けているものが何もない。


 感情論ではなく、制度の力で。正人はその言葉を迷わず使う。

 竜介が「書かなかったら、あの子供の顔を一生引きずる」と言ったのとは、まるで逆の方向から、同じ子供を守ろうとしている。

 どちらが正しいのか、美智子にはわからない。

 でも、この二人が同じ時代の同じ空の下を生きているということが、今日はなぜか、ひどくリアルに感じられた。


「美智子さん」と正人は言った。

 声のトーンが、少し変わった。

 美智子は顔を上げた。

 正人が、膳の横に小さな黒い箱を置いた。

「正式にお願いしたいと思っていました」と正人は言った。

「有馬美智子さん、僕と結婚してください」


 箱を開けると、婚約指輪が入っていた。

 プラチナの台に、一粒のダイヤモンド。

 派手ではない。

 でも、完璧な選択だった。

 美智子は指輪を見た。

 指輪は、庭の紅葉を背景に、静かに光っていた。


「僕が一生守ります」と正人は続けた。

「何の苦労もさせない。美智子さんが安心して暮らせる場所を、必ず作ります。それが僕にできる、最大の誠実さだと思っています」


 守る。

 安心。

 苦労をさせない。

 その言葉が、美智子の耳の中で、ゆっくりと形を変えた。

 温かい言葉だ。

 本物の優しさだ。

 正人は本気でそう思っている・・美智子にはそれがわかる。

 わかっているのに。

 鳥籠の、扉が閉まる音がした気がした。

 静かで、優しい音だった。

 だから余計に、こたえた。


 美智子は少し間を置いた。

 庭の楓が揺れている。

 半分が緑、半分が赤。

 その中間の色が、光の中で静かに揺れている。


「ありがとうございます」と美智子は言った。

「とても嬉しい」

「本当に?」

 正人は少し表情が緩んだ。

「本当に。こんなに丁寧に、真剣に・・本当に嬉しい」

「では・・」

「少し、考えさせてください」


 正人の表情が、止まった。

 あの完璧な落ち着きが、一瞬だけ、ひびが入った気がした。

 今回は前より長く・・三秒か、四秒か。

 それから、いつものように静けさに戻った。

「・・わかりました」と正人は言った。

「ただ、正直に聞かせてください。美智子さんは、僕のことが嫌いですか」

「嫌いじゃない」

「好きですか」


 美智子は少し間を置いた。

「大切に思っています」

「大切に思っている」と正人は繰り返した。

 声に、何かが滲んだ。

 傷ついた、というより・・初めて正確に理解した、というような声だった。

「それは・・好き、ではないですね」

「・・ごめんなさい」

「謝らないでください」正人は静かに言った。

「僕が聞きたかったことを、ちゃんと答えてくれた。それで充分です」


 仲居さんが次の料理を運んできた。

 二人は少し黙って、その膳を受け取った。

 庭の楓が揺れている。

「一つだけ、聞いていいですか」と美智子は言った。

「どうぞ」

「正人さんは・・一人で歩いている私のことを、守りたいと思いますか。それとも、守らなくていい私のことを、好きでいられますか」

 正人は少し間を置いた。

「・・難しい質問ですね」と正人は言った。

「難しい質問で、ごめんなさい」

「いいえ」

 正人は首を振った。

「正直に言うと・・僕は誰かを守ることで、自分の存在理由を確かめてきたところがある。それが愛情なのか、習慣なのか、僕自身にもまだわかっていない。美智子さんの質問は、そこを突いている」


 美智子は正人を見た。

 初めてだった。

 正人が「わからない」と言ったのは。

 完璧な正人の、初めての「わからない」だった。

「正人さん」と美智子は言った。

「あなたは、とても誠実な人だと思います。今、正直に言ってくれたことも・・本当に嬉しかった」

「でも」と正人は言った。

「でも」と美智子は頷いた。

 庭の楓が、また揺れた。

 半分が緑、半分が赤。

 その中間の色は、どちらにも名前がない。


 帰り道、ハコスカの助手席で、美智子は窓の外を見ていた。

 正人の運転は静かで滑らかだった。

 急ブレーキを踏まない。

 車線変更も、合図を必ず出してから、ゆっくりと。

 何も変わっていない。

 何も変わっていないのに、今日の「守る」という言葉が、ずっと耳の中に残っていた。

 守られた人生は、守ってくれる人がいなくなったらどうなるの・・先週の神田川の橋の上で、自分が言った言葉だ。


 指輪は箱の中に戻された。

「お返しします」と言ったら、正人は「持っていてください。返事を待ちます」と言った。

 だから鞄の中に、黒い細長い箱が入っている。

 車が信号で止まった。

「美智子さん」と正人は言った。

 前を見たまま。

「はい」

「僕は待ちます。どんなに長くても」


 美智子はその横顔を見た。

 完璧なプロフィール。

 完璧な誠実さ。

 完璧な優しさ。

 正人は間違っていない。

 正人に欠けているものは何もない。

 欠けているものが何もないのに・・「完璧すぎて、私が入る隙間がない」という感覚は、今日も消えなかった。

「ありがとうございます」と美智子は言った。


 信号が青になった。

 ハコスカが、静かに動き出した。

 鞄の中の箱の重さが、膝の上に感じられた。

 指輪の重さと、「己」の活字の重さが、同じ鞄の中で並んでいた。

 どちらも重かった。

 でも、重さの質が違った。

 違う、と思う。

 どう違うのかは、まだうまく言えない。

 でも違う・・その確かさだけが、今夜の美智子の手のひらに残っていた。

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