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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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第十一話 新聞社の意地と、偶然の出会い

 十一月に入って、横浜は急に冬の気配を見せ始めた。


 神奈川政経新聞社を訪ねるのは、美智子にとって初めてのことだった。

 竜介から「来るな」とは言われていない。

 でも「来てもいい」とも言われていない。

 それでも、足が向いた。

 理由はうまく説明できなかった。

 先週の正人さんのプロポーズから一週間、まだ答えを出せていない自分が、ただ何かを確かめたかった。

 確かめたいものの名前すら、自分でもわからないまま、桜木町行きの電車に乗っていた。


 車窓から見える東京の街並みは、万博閉幕後の静けさを取り戻していた。

 テレビも新聞も「人類の進歩と調和」の代わりに、新しい話題を探している。

 光化学スモッグの黄ばんだ空も消えて、十一月の空はどこまでも澄んでいた。

 澄んだ空の下で、美智子の心の中だけが、まだ何かに迷っていた。


 社屋は、思っていたより古びていた。

 五階建てのビルで、一階の脇から低い地響きが伝わってくる。

 輪転機の音だ、と美智子にはすぐにわかった。

 竜介が定食屋で話していた、あの音。


 受付で「津島さんに」と言うと、若い事務員が困った顔をした。

「津島さん、今ちょっと・・大丈夫かどうか、聞いてみます」

 待っている間、美智子はロビーの長椅子に座った。

 壁に貼られた古い記事の切り抜きが目に入る。

「東京オリンピック開幕」

「いざなぎ景気、続く」・・色褪せた紙面の中で、過去の見出しが静かに眠っていた。

 傍らには電話交換台があって、女性交換手がせわしなくコードを差し替えている。

 ダイヤル式の黒電話が、奥のデスクで何台も鳴っていた。


 出てきたのは、竜介ではなく、デスクの鬼塚だった。

 灰色のジャケットを着た、五十がらみの男だった。

 タバコの匂いが、近づくだけで漂ってくる。

「お前さんが、津島の知り合いか」と鬼塚は言った。

 値踏みするような目だった。

「有馬美智子です。竜介さんとは・・神田で何度かお会いして」

「ほう」

 鬼塚は煙草に火をつけた。

「あいつが女と神田で会ってるとは聞いてなかったな」

「お忙しいところ、すみません」

「忙しいのはお前さんのせいじゃない」

 鬼塚はロビーの長椅子に、どさりと座った。

「あの馬鹿が、忙しいの一歩先にいるだけだ」


 美智子は座り直した。

「竜介さんは・・大丈夫なんですか」

 鬼塚は煙草の煙を、長く吐いた。

「正直言うとな」と鬼塚は言った。

「あの馬鹿はいい記事を書く。一年前、公害取材を始めたとき、上は誰も期待してなかった。地方紙の社会部が、企業相手に喧嘩を売って何になるんだってな。でも津島は一人で取材を続けて、証言を取って、煙突の数字を出した。あれは、ちゃんとした記事だ」

「読みました」

「読んだか」

 鬼塚は美智子を見た。

「あいつの記事、わかったか」

「数字の後ろに、顔があるとわかりました」

 鬼塚は少し黙った。

 それから、ふっと笑った。

「あいつが言いそうなことだ」

 美智子は黙って続きを待った。


「だがな」

 鬼塚の表情が、少し曇った。

「今、その取材が詰まって潰れそうだ」

「圧力ですか」

「圧力もある。でもそれだけじゃない。社の経営が厳しい。万博が終わって、広告が一気に減った。上は『今は穏便に』と言ってくる。津島の記事は企業を刺激する。刺激すれば広告が引く。引けば社が傾く・・その理屈は、間違ってはいない」


 美智子は手を膝の上で握った。

「でも、記事は正しいんですよね」

「正しいかどうかは、新聞社の都合の外にある話だ」

 鬼塚は煙草を灰皿に押しつけた。

「正しいことを書いて、会社が潰れたら、誰のための正義だ。津島はそれをわかっていながら、書こうとする。書けと言われたら書く。書けと言われなくても、結局書こうとする」

「止められないんですか」

「俺が止めても聞かん」

 鬼塚は少し笑った。

「あいつは石頭だ。米も炊かない、女もいない、財布も空っぽで、ただペンだけ持って突っ走ってる。馬鹿だ。本物の馬鹿だ」

 その「馬鹿」という言葉の中に、隠せない響きがあった。

 憎まれ口の奥に、別の何かが混ざっていた。


「鬼塚さんは」と美智子は言った。

「竜介さんのことを、心配しているんですね」

 鬼塚は美智子を見た。

 少し驚いたような顔をした。

 それから、煙草をもう一本取り出して、火をつけずに指に挟んだ。

「俺はデスクだ」と鬼塚は言った。

「記者の心配なんかしてたら、仕事にならん」

「でも」

「でもな」

 鬼塚は窓の外を見た。

 輪転機の音が、低く響いていた。

「あの馬鹿が潰れたら、新聞がひとつ嘘をつくことになる。それだけは、俺は嫌いだ」


 美智子は鬼塚の言葉を、しばらく胸の中で繰り返した。

 新聞が嘘をつく、という言い方が、美智子の中に深く残った。

 記事が出ないことは、嘘になる・・そういう倫理の中で、この男たちは生きている。

 正人さんの「制度の力で守る」という言葉とも、また違う種類の誠実さだった。


 ロビーの長椅子に座ったまま、美智子はふと尋ねた。

「私に、何かできることはありますか」

 鬼塚は美智子を見た。

 値踏みするような目が、また少し変わった。

「お前さんは何者だ」と鬼塚は聞いた。

「津島の女か。記者になりたいのか。それとも単に、暇人か」

「わかりません」と美智子は正直に答えた。

「ただ、竜介さんの書いたものを読んで、何かが変わった気がするんです。それだけです」


 鬼塚は煙草を、ようやく口にくわえた。

 火はつけなかった。

 長い沈黙があった。

 輪転機の音だけが、低く規則的に響いていた。

「具体的なことなら、ある」と鬼塚は言った。

「津島は今、資料の整理に時間を食ってる。取材は終わってるのに、報告書の数字を清書する手間で、原稿に取りかかれない。誰かが代わりにそれをやれば、あいつは原稿に集中できる」

「私にできますか」

「字は綺麗か」

「タイプライターを使います」


 鬼塚は美智子を見て、ふっと笑った。

「タイプライターか。いいかもしれん。津島の手書きより読みやすくなる」

 その日、美智子は鬼塚から、整理されていない取材資料の一部を預かった。

 手渡されたとき、紙の束が、思っていたよりずっと重かった。

 鋳鉄の活字一文字と同じくらい、確かな重さだった。


「ひとつ、言っておく」と鬼塚は言った。

 荷物を渡しながら、初めて少し声を落とした。

「あいつには言うなよ。誰かに手伝ってもらったなんて知ったら、あいつは余計なことを気にする。お前さんが資料を清書したことは、俺と、お前さんだけの秘密にしておけ」

 美智子は頷いた。「わかりました」

「いい子だ」

 鬼塚はそう言って、煙草に火をつけた。


 社屋を出ると、夕暮れの横浜の空に、煤の混じった雲が広がっていた。

 十一月の冷たい風が、コートの裾を揺らす。

 桜木町の駅まで歩きながら、美智子は鞄の中の資料の重さを、ずっと感じていた。

 これは竜介さんのためにやることなのか、それとも・・


 答えはまだ出なかった。

 でも、足は止まらなかった。

 今日初めて、自分の意志で、何かのために動いた。

 そのことだけが、確かな手触りとして残っていた。

 駅の改札を抜けるとき、ふと、神奈川政経新聞の輪転機の音が、まだ耳の奥に残っている気がした。

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