第十二話 泥だらけの共犯関係
深夜十二時を過ぎて、有馬家は静かだった。
父も母も、もう寝ている。
美智子は自室の扉を閉めて、机の上にタイプライターを据えた。
鬼塚から預かった資料の束を、傍らに置く。
十一月の夜気が、窓の外で冷えている。
資料は手書きだった。
竜介の文字だ、と一目でわかった。
乱暴で、急いでいて、それでも妙に読みやすい。
走りながら考えている人間の字だった。
工場名、日付、煙の色、証言者の言葉が、メモ用紙の余白いっぱいに詰め込まれている。
ところどころ、字が乱れて読み取りにくい箇所もあった。
よほど慌てて書いたのだろう、と美智子は思った。
あるいは、よほど怒っていたのかもしれない。
美智子はその紙を、ランプの灯りの下で一枚ずつ広げた。
活字盤を引き出す。
指先が、自然と動き始める。
カチ、カチ、カチ。
最初の数行は、ただの書き写しだった。
日付。
工場名。
担当者の氏名。
それだけなら、機械的な作業のはずだった。
でも三十分もすると、美智子は気づいた・・この作業は、書き写しではなかった。
竜介が見たものを、もう一度自分の目で確かめる作業だった。
「マスクをした五歳の男の子」という一文を打つとき、美智子の指が一瞬止まった。
竜介が定食屋で言った言葉が、頭の中で重なる。
数字の後ろに顔がある。
確かにそうだ、と打ちながら思った。
この一文を打っている自分の指先にも、今、その顔が見えている気がした。
別の紙には、証言者の言葉がそのまま書き写されていた。
「書いたらクビになるぞ」
「匿名にします。でも書きます」・・竜介と工場労働者の会話だ。
これも竜介が一人で聞いて、一人でノートに書きつけたものだ。
美智子は今、その場にいなかった会話の中に、活字を打つことで、わずかに足を踏み入れている気がした。
夜中の一時を過ぎたころ、美智子は一度、手を止めた。
窓の外を見る。
十一月の夜空は澄んでいて、星がいくつか見えた。
万博の喧騒も、光化学スモッグの黄ばみも、もうこの空にはない。
代わりにあるのは、冷たく静かな、何も飾らない夜だった。
時計が二時を打った。
家の中はもう完全に静まり、廊下の柱時計の音だけが、一定の間隔で響いていた。
美智子は手を止めて、その音に耳を澄ませた。
チク、タク、チク、タク・・タイプライターの打刻音とは違う、もっと穏やかなリズムだった。
けれど、どちらも「時間が進んでいる」ということを、確かに伝えてくる音だった。
美智子は自分の手を見た。
指先に、わずかにインクの色がついている。
正人さんなら、こんな時間にタイプライターを打っている美智子を見て、何と言うだろう。
「無理しないでください」と言うだろう。
心配して、優しく止めようとするだろう。
それは本物の優しさだ。
でも今夜の美智子は、誰にも止められたくなかった。
誰かに見せるためじゃない。
誰かに褒められるためでもない。
ただ、この紙の束を、もう一度、自分の指で確かめたかった。
それだけだった。
活字盤に向き直って、また打ち始めた。
カチ、カチ、カチ。
二時間ほどかけて、資料は清書し終わった。
タイプライターで打たれた文字は、竜介の手書きより、確かに読みやすかった。
整然と並んだ活字を見て、美智子は少しだけ満足した。
これで竜介さんは、清書の手間を省ける。
原稿に、もっと早く取りかかれる。
でも、それだけが理由ではなかった。
この夜の二時間、美智子は竜介の見た景色の中に、確かにいた気がした。
茶色い空、工場の煙突、マスクをした子供の顔・・竜介が一人で抱えてきたものを、ほんの少しだけ、一緒に抱えた気がした。
それは恋愛と呼ぶには、まだ早い感情だった。
憧れと呼ぶにも、少し違う。
ただ、共犯、という言葉が一番近かった。
誰かの正しさのために、自分の時間を差し出す。
見返りを求めずに。
それが共犯と呼べるなら、今夜の美智子は、竜介の共犯者だった。
清書し終えた資料を、美智子は丁寧に紙袋にまとめた。
翌日、神保町の文具店で待ち合わせると、竜介に伝えた。
理由は言わなかった。
ただ「渡したいものがある」とだけ。
約束の日、竜介は遅れて来た。
例によって靴は泥だらけで、髪は無頓着に額にかかっていた。
「何だ、渡したいものって」
美智子は紙袋を差し出した。
竜介は中を見て、しばらく黙った。
タイプライターで清書された資料の束。
竜介自身の手書きの字が、活字に変わっている。
「これは・・」
「鬼塚さんから預かりました。あなたの取材資料」
竜介の表情が、止まった。
「鬼塚が、お前に?」
「資料整理の手伝いをしたいと言いました。鬼塚さんが渡してくれました」
「なんでこんなことをしてくれるんだ」
美智子は少し考えた。
正直に言うべきか、迷った。
でも今は、迷う必要がないと思った。
「あなたが書きたいものを、もっと読んでみたいから」
それだけだった。
竜介は美智子を見た。
長い沈黙があった。
神保町の石畳を、人が通り過ぎていく音だけが、二人の間にあった。
「・・鬼塚には言うなと言われたんじゃないのか」と竜介は言った。
「言われました。でも、あなたには言いたかった」
竜介は紙袋の中身を、もう一度見た。
それから、ゆっくりと紙袋を閉じた。
竜介は紙袋を抱え直して、少しの間、何も言わなかった。
神保町の通りを、夕方の買い物客がゆっくりと歩いていく。
古書店の軒先で、誰かが値切り交渉をしている声が、遠くに聞こえた。
「ありがとう」と竜介は言った。
その言葉は、いつもの「勝手にしろ」でも「まあいい」でもなかった。
シンプルで、まっすぐな言葉だった。
美智子は少し驚いた。
竜介がそういう言い方をするのを、初めて聞いた気がした。
「お礼を言われると思ってなかった」
「俺だって、ちゃんと礼を言うことはある」
美智子は笑った。
「そっちの方が、らしくないですね」
「うるさい」
でも、その声には、いつものぶっきらぼうさの中に、何か別のものが混じっていた。
その日の夕方、二人は神田川沿いを少しだけ歩いた。
冬の入り口の空は、もう完全に澄んでいた。
万博の熱狂も、黄ばんだ空も、すべてが過去になっていく中で、神田川の水だけが、いつも変わらず静かに流れていた。
「鬼塚は何か言ってたか」と竜介は聞いた。
「あなたが、いい記事を書くと言っていました。それと・・あなたが潰れたら、新聞がひとつ嘘をつくことになる、とも」
竜介は少し黙った。
それから「鬼塚らしいことを言うな」と呟いた。
「あなたは、そのことを知っていましたか」
「鬼塚が俺を心配してるってことか。知らなかった。あいつはそういうことを言わない男だ」
「言わない男が、言ったんです」
竜介は何も言わなかった。
ただ、神田川の水面を見ていた。
冬の光が、水の上で静かに揺れていた。
「清書してて、気づいたことがあります」と美智子は言った。
「何だ」
「あなたの手書きの字、後半になるほど乱れていくんです。怒っているときの字なのか、急いでいるときの字なのか・・わからないけど、字を見ているだけで、その時の感情が伝わってくる気がしました」
竜介はしばらく黙っていた。
それから「証言を取った夜は、いつも字が乱れる」と言った。
「頭の中が、まだ怒りでいっぱいの時に書くからだ」
「それも、活字にしたら、見えなくなりますね」
「そうだな」
「でも私は、その字の乱れを見ました。だから・・あなたの怒りも、少しだけ、一緒に見た気がします」
竜介は美智子を見た。
何も言わなかった。
ただ、その目が、いつもより少しだけ長く美智子を見ていた。
美智子も同じ水面を見た。
活字を一文字ずつ打つこと。
誰かの見た景色を、もう一度自分の指で確かめること。
それが何かの答えになるのかどうか、美智子にはまだわからなかった。
でも、今夜だけは、それで充分だった。




