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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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第十三話 良妻賢母という呪縛

 十一月の半ば、有馬家に親族が集まった。


 母の還暦の祝いだった。

 叔母、伯父、いとこたち・・美智子にとっては数年に一度しか会わない人々が、座敷いっぱいに集まっていた。

 床の間には立派な掛け軸が掛けられ、座卓には祝いの料理が並んでいる。

 鯛の姿焼き、赤飯、紅白の蒲鉾。

 母は朝から着物を選び直し、髪を結い直し、何度も鏡の前に立っていた。


 美智子は着物の帯を締めながら、その母の背中を見ていた。

 母・佐知子は、誰もが認める「良妻賢母」だった。

 父を立て、家を守り、子を育て、親族の冠婚葬祭を一手に引き受ける。

 誰に対しても穏やかで、誰の前でも崩れない。

 美智子が子供の頃から、母が声を荒げる場面を見たことがなかった。


 今日もそうだった。

 来客に挨拶をして、料理を出して、誰かが粗相をしても笑顔で取り繕って、座敷の隅々まで気を配って・・その動きには、一つも迷いがなかった。

「佐知子さんは本当にできた人だ」と伯父が言った。

「惣一郎くんは、いい嫁をもらった」

「いいえ、私なんて」

 母は微笑んで首を振った。

「主人があってこそ、私は私でいられますから」

 その答え方が、完璧だった。

 謙遜していて、でも卑屈ではない。

 自分を消しているようで、でも芯はぶれない。

 美智子は、その完璧さに、いつも少し圧倒される。


 座敷の隅で、いとこの子供たちが走り回っている。

 誰かが盃を倒した。

 母はすぐに気づいて、騒ぎにならないよう、すっと布巾を持って近づいた。

 何も言わず、何も指摘せず、ただ静かに処理して、もとの席に戻った。


 座が進むにつれて、話題は美智子のことに移った。

「美智子さんは、もうご縁談がまとまったそうじゃないか」と叔母が言った。

「まだ、まとまってはおりません」と母が答えた。

「あら、榊さんのところでしょう? 大蔵省のお家柄で、本人も将来は裁判官だとか。そんな優良物件、二度と来ませんよ」

「美智子はまだ考えているところで」

「考えるって、何を考えるの」

 叔母は笑いながら美智子を見た。

「そんな良いお話、考えるまでもないでしょう。あなた幸せね」

 美智子は笑顔を作った。

 何度も練習してきた笑顔だった。


「美智子さんも、佐知子さんを見て育ったんだもの。きっと良い奥様になるわよ」と別の親族が言った。「佐知子さんみたいに、夫を立てて、家を守って・・女の幸せって、結局そこに尽きるんだから」

 座敷中が、頷いた。

 美智子も、頷いた。

 頷く以外の選択肢が、その場にはなかった。

 伯父が日本酒を注ぎながら、「俺たちの世代は、女房に従ってもらって当然だと思って育ってきた。でも美智子さんの世代は、ちょっと違うのかな」と笑った。

「いや、違ってもらっても困るけどな」

 冗談めいた言い方だった。

 でも、その言葉の奥には、本気で「困る」という気持ちが見えた気がした。


 宴が落ち着いたころ、美智子は厨房に手伝いに入った。

 母が一人で、煮物の鍋を見ていた。

 湯気が立ち、味噌の匂いが厨房いっぱいに広がっている。

「お母様、お手伝いします」

「ありがとう。でも、着物が汚れるから無理しなくていいのよ」

 母はそう言って、自分で鍋をかき混ぜた。

 手際が良かった。

 何十年も繰り返してきた動きだ、と一目でわかる。

 火加減、味見、盛り付け・・すべてが、すでに身体に刻まれている。

 美智子は鍋の隅から漂う湯気を見ながら、その手つきを見ていた。

 母の手は、自分の手より一回り大きくて、節が太かった。

 家事と育児と親族付き合いを、何十年もこなしてきた手だった。


「お母様」と美智子は言った。

「お母様は・・幸せですか」

 母は鍋を見たまま、少し間を置いた。

「幸せって、どういう意味で聞いているの」

「自分の人生を、自分で選んだ、という感覚があるかどうか」

 母は手を止めた。

 それから、ゆっくりと美智子を見た。

「美智子、変なことを聞くのね」

「ごめんなさい」

「いいのよ」

 母は微笑んだ。

 穏やかな、いつもの微笑みだった。

「私は、お父様と結婚して、お前を育てて、この家を守ってきた。それが私の人生。それで充分よ」

「それで・・充分」

「ええ。充分」


 母はもう一度、鍋をかき混ぜた。

 湯気の向こうで、その顔は穏やかなままだった。

「美智子も、いずれわかるわ」と母は言った。

「自分で選んだかどうかなんて、結婚して何年も経てば、考えなくなる。それが当たり前に、生活そのものになるの。それを不幸だなんて、誰も思わない」

 美智子は何も言えなかった。

 母の言葉には、嘘がなかった。

 本心から、そう思っている。

 本心から、それで充分だと信じている。

 だからこそ、美智子は反論する言葉を持てなかった。

 反論する言葉を持てない、ということ自体が、美智子をひどく不安にさせた。


「私の若い頃は」と母は続けた。

「もっと不自由だったわ。あなたのように、自分の気持ちで何かを迷うことすら、許されなかった。だから・・あなたが迷えることが、すでに恵まれていることなのよ」

 その言葉は、美智子の中に深く刺さった。

 否定できなかった。

 母の時代と、自分の時代は違う。

 母が手に入れられなかった自由を、自分は手にしている。

 それなのに、その自由をどう使えばいいのか、美智子にはまだわからなかった。


 美智子は黙って煮物の鍋を見た。

 湯気が立ち上って、母の顔をぼんやりと霞ませている。

「お母様は、結婚する前、何になりたかったんですか」と聞いてみたかった。

 でも聞けなかった。

 聞いたところで、母はきっと「そんなこと、考えたこともなかったわ」と笑って答えるだけだろう、という気がした。

 そしてその答えにも、嘘はないのだろう、と思った。


 厨房を出るとき、母が背中から「美智子」と呼んだ。

 振り返ると、母はいつもの微笑みのまま、こう言った。

「正人さんのこと、早く決めてあげなさい。あの方は、誠実に待っていてくださる方よ。そういう方を、長く待たせるのは・・優しさとは言えないわ」


 その夜、客が帰った後、美智子は自室で着物を解いた。

 帯を畳みながら、母の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。

 自分で選んだかどうかなんて、考えなくなる。

 それが当たり前に、生活そのものになる。

 あなたが迷えることが、すでに恵まれていることなのよ。

 それは、嘘ではない。

 母の人生は、確かに不幸ではない。

 父は母を大切にしているし、母も父を立てて生きてきた。

 傍から見れば、誰もが羨む夫婦だ。

 そして母の言う通り、美智子は確かに、母より自由な時代に生きている。


 でも・・

 美智子はタイプライターの前に座った。

 活字盤を引き出す。

 何か打ちたかった。

 今日感じたことを、言葉にしたかった。

 でも、指が動かなかった。

 頭の中には、たくさんの言葉が浮かんでいる。

 母のこと、自分のこと、正人さんのこと、竜介さんのこと・・でも、それらが一つの文章になってくれない。

 バラバラのまま、頭の中で渦巻いているだけだった。


 カチ、と一文字打った。

 その先が、続かなかった。

 窓の外を見る。

 十一月の夜は、もう冬の匂いがする。

 澄んだ空に、星がいくつか見える。

 母のようになりたいのか、と美智子は自分に問いかけた。

 答えが出なかった。

 母を否定したいわけではない。

 母の人生を、間違っていると言いたいわけでもない。

 ただ・・母と同じ道を、自分が選べるかどうか、わからなかった。


 わからないことが、怖かった。

 わからないまま、タイプライターの前で、美智子は長い間、動けなかった。

 活字盤の「己」の字を、指先でそっと触れる。

 冷たかった。

 いつもの重さがあった。

 でも今夜は、その重さが、いつもより少しだけ、重く感じられた。


 己。

 自分自身。

 その言葉の意味を、今夜の美智子はまだ、うまく掴めなかった。

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