表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/30

第十四話 アイロン掛けと糊の匂い

 十一月の終わり、竜介が美智子の部屋を訪ねてきたのは、初めてのことだった。


 正確には、美智子のアパートではない。

 有馬家の客間の隅に、美智子が自由に使える小さな部屋がある。

 そこに竜介を招いたのは美智子自身だった。

 父も母も、親族の法事で出かけていて、家には誰もいなかった。


「珍しいこともあるもんだ」と竜介は言った。

 玄関に立ったまま、家の中を見回している。

「お前の家、こんなに広いのか」

「広いだけです。中身は古い家ですよ」

 竜介は靴を脱いだ。

 靴下に、小さな穴が開いているのが見えた。

 美智子は気づかない顔をした。


 竜介は美智子の部屋を見回した。

 本棚には文学全集が並び、机の上にはタイプライターが据えられている。

「三島か」と竜介が呟いた。

 本棚の一角を見て、すぐにわかったらしい。

「お前の部屋、本だらけだな」

「あなたの取材ノートだらけの部屋とは、違いますか」

「俺の部屋には本棚なんかない。本は床に積んである」


 竜介を呼んだ理由は、シャツだった。

 先週、神田川沿いを歩いたとき、竜介のシャツの襟が、ひどく汚れていることに気づいた。

 袖口は何度もほつれを縫い直した跡があって、全体に、くたびれた灰色をしていた。

「そのシャツ、いつから洗ってないんですか」と美智子は聞いた。

「先週洗った」

「アイロンは?」

「アイロンなんかかけない」

「ヨレヨレですよ」

「仕事に支障はない」


 その会話の後、美智子は気づいたら言っていた。

「アイロンをかけてあげます。今度持ってきてください」。

 竜介は少し驚いた顔をして、それから「勝手にしろ」と言った。

 それが、今日に至る経緯だった。


 竜介は紙袋から、シャツを三枚出した。

 どれも同じくらい、くたびれていた。

「これで全部ですか」

「これで全部だ」

 美智子はアイロン台を出して、炭火を熾した。

 アイロンは家にある古い型のもので、母が嫁入り道具として持ってきたものだった。

 重さがあって、扱いには少し力が要る。


 最初の一枚にアイロンをかけ始めると、竜介は隅の椅子に座って、それを眺めていた。

「珍しいものでも見るような顔ですね」

「珍しいんだ。アイロンをかける女を見るのは」

「他にも見てる女がいるんですか」

「いない。だから珍しい」

 美智子は少し笑った。

 霧吹きで水をかけて、シワを伸ばしながら、丁寧にアイロンを滑らせていく。

 襟の部分は特に念入りに。

 糊をきかせると、シャツの輪郭がしっかりと立ち上がってくる。


 部屋に、糊の匂いが広がっていった。

 甘く、少し焦げたような、独特の匂いだった。

 美智子にとって、この匂いは記憶の中にある。

 子供の頃、母が父のシャツにアイロンをかけているのを、よく傍で見ていた。

 母の手つきと、自分の手つきが、今、重なっている気がした。


「いい匂いだな」と竜介がぽつりと言った。

「糊の匂いですか」

「そうだ。何の匂いか、ずっとわからなかった。お前の家に来て、初めてわかった」

「変わった匂いの好みですね」

「変わってるかどうかは知らん。ただ、嫌いじゃない」

 美智子はアイロンを動かす手を止めずに、竜介を見た。

 竜介は椅子に座って、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 十一月の午後の光が、その横顔に当たっている。

 いつもの取材ノートも、ハイライトも、今日は持っていない。

 ただの、何も持たない男の顔だった。


 二枚目のシャツにアイロンをかけながら、美智子は聞いた。

「お母様の手紙、まだ届きますか」

「届く。先月も米と一緒に来た」

「何て書いてあるんですか」

「いつも同じだ。体に気をつけろ、早く帰れ、嫁の話はないか」

「お米、ちゃんと炊いてますか」

 竜介は少し黙った。

「炊いてない」

「やっぱり」

「炊く時間がない」

「時間がないんじゃなくて、優先順位が低いんでしょう」

 竜介は何も言わなかった。

 それが答えだった。


「今度、私が炊いてあげましょうか」と美智子は言った。

「お前が?」

「アイロンと同じです。できることをするだけ」

 竜介は美智子を見た。

 少し長い間、何も言わなかった。

「お前、なんでこんなことをするんだ」と竜介はようやく言った。

「俺のシャツにアイロンをかけて、米の心配をして・・お前には関係ないことだろう」

 美智子はアイロンを置いて、竜介を見た。

「関係ないかもしれません。でも・・」

 美智子は少し考えた。

 正人さんの「守る」という言葉とは、違う動機を探していた。


「あなたが書く記事を読みたいから、図書館に行きました。あなたの資料を清書したのも、あなたが書きたいものをもっと知りたかったからです。今日アイロンをかけているのも、同じです。理由はいつも同じ。あなたが、ちゃんと生きていてほしいから」

「ちゃんと生きてる」

「シャツがヨレヨレで、米も炊かずに、食事も適当な人が、ちゃんと生きているとは言えません」

 竜介は黙った。

 それから、ふっと笑った。


「お前、結構厳しいことを言うな」

「厳しいことを言われたくないなら、シャツくらい自分でアイロンをかけてください」

「無理だ。やったことがない」

「だから今、見ていてください。今度から自分でできるように」

 竜介は少し驚いた顔をした。

 それから、椅子から立ち上がって、美智子の隣に立った。

「やってみます?」と美智子は言った。


 竜介はアイロンを受け取って、ぎこちない手つきでシャツの上に滑らせた。

 シワが、思うようには伸びない。

「下手ですね」

「初めてだ」

「もう少し力を込めて、ゆっくり」

 美智子が手を添えて、動きを示す。

 竜介の手は、ペンを握るのに慣れた手で、アイロンの重さに少し戸惑っているようだった。

 それでも、繰り返すうちに、少しずつシワが伸びていった。


 二人の間に、糊の匂いが、また広がっていった。

 美智子は霧吹きで水を含ませながら、もう一枚のシャツを広げた。

 襟の内側に、薄く汗染みが残っている。

 何度も着て、何度も働いてきた跡だった。

「このシャツ、いつ買ったんですか」

「覚えてない。学生のころからある」

「随分、長く使ってるんですね」

「捨てる理由がない。破れてないなら着る」

 その言葉に、竜介らしい合理性があった。

 美しいかどうかより、機能するかどうか・・その判断基準は、正人の「完璧さ」とはまったく違う場所にあった。


 米のことを話したあと、竜介はふと「お前の家、米はどうしてるんだ」と聞いた。

「お手伝いさんが炊いてくれます」

「炊いてもらえるのか、いいな」

「いいことなんでしょうか」

「悪いことじゃない。ただ・・俺の実家の米と、お前の家の米は、同じ米でも、たどってきた道が違う気がする」

 竜介はそう言って、それ以上は何も続けなかった。

 美智子もそれ以上は聞かなかった。

 聞かなくても、その言葉の重さは、十分に伝わってきた。


 夕方になって、竜介は帰った。

 三枚のシャツを、丁寧に折って紙袋に入れて。

 玄関で靴を履きながら、竜介は「今日は世話になった」と言った。

「また持ってきてください」

「次は自分でやる」

「下手でもいいから、やってみてください」

 竜介は頷いた。

 それから、何も言わずに帰っていった。

 美智子は玄関を閉めて、しばらくその場に立っていた。

 糊の匂いが、まだ部屋に残っている。


 部屋の真ん中に立ったまま、動けなかった。

 誰かのシャツにアイロンをかけて、誰かの米の心配をする・・それは、母がしてきたことと、同じように見えるかもしれない。

 良妻賢母の真似事のように、見えるかもしれない。

 でも、違う気がした。

 母は「それが私の人生」と言った。

 美智子は今日、それを「私の人生」とは思わなかった。

 ただ、今日この瞬間、竜介のシャツにアイロンをかけたかった。

 それだけだった。

 誰かに言われたからでも、それが女の役割だからでもなく、今日、自分がそうしたかったから。


 その違いが、まだうまく言葉にならない。

 でも、確かにある違いだった。

 美智子はタイプライターの前に座った。

 活字盤を引き出す。

 誰かに見せるためじゃない。

 誰かのために打つわけでもない。

 指の腹で、一文字一文字を確かめる。

 カチ、カチ、カチ。

「活字は、頭の中の霧に形を与える。私が打っているのは、言葉じゃなくて・・」

 そこで止まった。

 続きは、まだわからなかった。

 けれど、打ち始めた手は止めなかった。


 窓の外、十一月の夕暮れが、静かに部屋を染めていった。

 糊の匂いと、活字の音だけが、その部屋に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ