第十五話 消えゆくSLと、修平の弱音
十一月の第二週、竜介は珍しく早く仕事を切り上げた。
修平から電話があったのは、前日の夜だった。
「SLを見に行かないか」と修平は言った。
唐突だった。
竜介が「なんでいきなり」と聞くと、「品川の臨海から最後のSLが引退する前に、一度見ておきたい」とだけ言った。
SLブームのことは竜介も知っていた。
国鉄が蒸気機関車を順次廃止する方針で、カメラを抱えた若者たちが全国に散って最後の雄姿を追いかけている。
雑誌に特集が組まれ、国鉄のディスカバー・ジャパンのポスターが各駅に貼り出されていた。「古き良きもの」への、時代の惜別だった。
都市が大きくなればなるほど、消えゆくものへの郷愁も大きくなる。
万博で「人類の進歩と調和」を高らかに掲げた年に、消えゆくSLを追いかける若者たちがいる・・そのことが、竜介にはいつも少し奇妙に感じられた。
竜介には正直、SLに格別の思い入れはなかった。
北陸の実家にSLが走っていた記憶はあるが、遠い話だ。
でも修平の声が、いつもと少し違った。
張り詰めているようで、どこかほぐれかけているような、不思議な声だった。
「行く」と竜介は答えた。
待ち合わせは品川の貨物線沿いの小道だった。
修平はすでに来ていた。
オーバーコートの衿を立てて、線路の方を向いて立っている。
護国義勇隊の制服ではない。
大学時代に着ていた、くたびれた紺のコートだった。
それだけで、今日の修平が「別の修平」であることが、竜介にはわかった。
「久しぶりに私服だな」と竜介は言った。
「たまにはな」と修平は答えた。
二人は線路沿いに並んで立った。
十一月の午後の光が、低い角度で差し込んでいる。
工場地帯の煙突が、西の空を背景にシルエットを作っていた。
遠くから、低い汽笛の音が近づいてくる。
やがて、黒い煙が見えた。
蒸気機関車が、ゆっくりと煙を上げながら来た。
車体は黒く大きく、それ自体が一つの生き物のように、規則的に息をしている。
煙が、十一月の空に向かって真っ直ぐに上がっていく。
黒い煙が、冬の澄んだ空気の中で、白く広がって、溶けていく。
竜介はその煙を、しばらく見ていた。
修平も、黙って見ていた。
SLが通り過ぎた後、しばらく、二人は動かなかった。
煙の残り香だけが、まだ漂っていた。
「いい煙だったな」と修平がぽつりと言った。
「ああ」
「あれは一体、どこへ行くんだろうな」
竜介は少し考えた。
「空だろ。空に溶けて、なくなる」
「なくなるか」と修平は繰り返した。
何かを確かめるように、その言葉をもう一度口の中で転がした。
「そうだな。なくなるんだな」
工場の煙突が、白い煙を細く上げていた。
SLの煙とは違う、軽くて薄い煙だった。
でも、どちらも空に向かって消えていった。
同じように。
そのまま歩いて、貨物線沿いの古い居酒屋に入った。
カウンターだけの狭い店で、客は他に二人しかいない。
カウンターの隅にテレビが置いてあって、ニュース番組の音が小さく流れていた。
アナウンサーが何かを読み上げている。
修平はそちらを一度見て、すぐに目を逸らした。
ダルマ(サントリーオールド)をボトルで頼んで、焼き鳥を適当に頼んだ。
水割りを作りながら、竜介は修平の横顔を見た。
修平は疲れていた。
いつもの張り詰めた空気が、今日は少し薄かった。
目の下に隈があって、頬が少し落ちている。
護国義勇隊の活動は、秋に入ってから密度が上がっていると、前回の電話で聞いていた。
「最近、どうだ」と竜介は聞いた。
「まあまあだ」
「嘘をつくな。顔に出てる」
修平は少し笑った。
力のない笑いだった。
「竜介にだから言う」と修平は言った。
グラスを両手で包むように持って、カウンターを見ながら。
「俺、本当は・・先生についていけてるか、自分でも分からなくなってきた」
竜介は黙って聞いた。
「先生の言葉は正しい。思想の骨格は、今も信じてる。でも・・訓練に行くたびに、理屈と身体の間に、何か溝ができる気がする。隣に立ってる奴らが本気で先生の思想を理解してるのか、それとも単に興奮してるだけなのか、分からなくなる。俺自身が・・本当に信じてるのか、分からなくなってきた」
修平の声は、静かだった。
叫ばない。
怒らない。
ただ、静かに、確かめるように言った。
「でも今さら後には引けん」と修平は続けた。
「ここまで来たら、後ろは見られない。引いたら、俺には何も残らない。先生の言葉だけが、ずっと俺の背骨だった。それを手放したら、俺は何だ」
竜介はグラスを持ったまま、修平を見た。
修平の横顔は、二十三歳の男の顔だった。
「命を捨てる覚悟だ」と言い続けてきた男が、今夜だけは、ただの二十三歳の、怖い男の顔をしていた。
鎧が一枚、薄くなっていた。
竜介は何も言えなかった。
ペンなら持てる。
原稿用紙の前なら言葉が出る。
でも今夜、修平の前では、言葉が出なかった。
正しいことを言おうとすると、どれも空っぽに聞こえた。
「やめろ」とも言えない。
「続けろ」とも言えない。
「逃げろ」という言葉が頭に浮かんで、でもそれを言える立場じゃないと思った。
修平の「言葉」を奪ったら、本当に何も残らない。
「大学のころ、カレー作ったな」と竜介は言った。
唐突に、それだけが出てきた。
「・・なんでいきなり」
「深夜に一緒に作ったやつ。お前が辛くしすぎて、二人で水ばっかり飲んだ」
修平は少し間を置いて、それから笑った。
今度は本物の笑いだった。
力が戻ってきた笑いだった。
「辛かったな。お前が買ってきた唐辛子が多すぎたんだ」
「俺のせいにするな。お前が全部入れたじゃないか」
「お前が『もっと入れろ』と言った」
「言ってない」
二人は少しの間、その話だけをした。
カレーの話を。
四年前の、深夜の、安い鍋の話を。
焼き鳥の串が、皿に積み上がっていった。
ダルマの水割りが減っていった。
竜介は「正しいことを言ってやれなかった」という気持ちを、ずっと引きずっていた。
でも、カレーの話で笑った修平の顔が、今夜の唯一の確かなものに見えた。
帰り際、修平は表に出てハイライトを一本もらった。
普段は煙草を吸わないが、今夜は受け取った。
「竜介」と修平は言った。
煙草の先を見ながら。
「なんだ」
「お前に話せたのは・・お前が俺の弱音を聞いても、すぐに賛成しないからだ。否定もしない。ただ、聞く。それだけのことが、今の俺には、一番必要なんだ」
「それだけのことだ」と竜介は言った。
「俺には、それしかできない」
「それで充分だ」と修平は言った。
修平は煙草を吸い終わって、コートの衿を立て直した。
「今年、何かあるか」と竜介は聞いた。
「あるかもしれない」と修平は答えた。
「でも、今夜は考えたくない」
そう言って、歩き始めた。
竜介はその背中を見ていた。
くたびれた紺のコートの背中。
「命を捨てる覚悟だ」と言い続けてきた男の背中が、今夜は細く見えた。
昼間のSLの煙を思った。
真っ直ぐ空に上がって、広がって、溶けていく・・あの煙と、修平の背中が、竜介の目の中で重なった。
止められなかった。
止める言葉を、竜介は持っていなかった。
ハイライトに火をつけて、竜介は十一月の夜の中を一人で歩いた。
品川の工場地帯の空に、いくつかの煙突の煙が上がっていた。
どれも、空に向かって真っ直ぐに上がって、冬の夜気に溶けていった。




