第十六話 正人の残酷な正論
十一月の末、正人から電話があった。
「少し話したいことがあります。よければ来週、食事をしませんか」
穏やかな、よく通る声だった。
プロポーズの返事をまだ保留している美智子に対して、催促するでも責めるでもない。
ただ「話したいことがある」と言った。
それが、かえって美智子を構えさせた。
正人が「話したいことがある」と言うとき、その言葉はいつも整然としていて、着地点がすでに決まっている。
待ち合わせは霞ヶ関の駅前だった。
十二月に入った東京の夜は、もう冬の本番だった。
駅の出口を出ると、冷たい風がコートの衿をめくった。
遠くに東京タワーが見える。
昭和三十三年に完成したあの塔は、今年で十二年目になる。
万博の熱狂が過ぎて、街の灯りが少し静かになった気がするのに、東京タワーだけはいつも同じ明るさで立っている。
白いハコスカが、静かに停まった。
正人が連れていったのは、前回と同じ霞ヶ関の最上階のフレンチレストランだった。
エレベーターが開くと、東京の夜景が広がる。
窓の向こうに、格子状の道路と、動く小さな車と、灯りの群れが見える。
整然としていた。美しかった。
いつ見ても、美しかった。
席につくと、正人はいつものようにウエイターと話してワインを選んだ。
「今日はボルドーにします。美智子さんはお好きでしたよね」と言いながら、美智子に確認した。
美智子は「はい」と答えた。
好きだったかどうか、正確には覚えていない。
でも正人はいつも、そういうことを覚えている。
コンソメが運ばれてきた。
透き通っていた。
一滴の濁りもなく、器の底が見えるほど、透明だった。
口に含むと、熱くて、深くて、完璧な味がした。
美智子は一口飲んで、スプーンをそっと置いた。
「美智子さん」と正人は言った。
コンソメが半分になったころ、いつものように静かに口を開いた。
「一つ、正直に話してもいいですか」
「どうぞ」
「先日のプロポーズ以来、美智子さんが以前より少し・・遠くなった気がしています。そのことについて、僕が感じていることを、お伝えしてもいいですか」
美智子は頷いた。
「僕は、美智子さんを急かすつもりはありません。それは本当です。でも、美智子さんが今、何か別のことに気持ちを向けていることも、感じています」
正人は言葉を一つ一つ、丁寧に置いていくように話した。
「感じています」と言ったとき、声に、わずかな温度があった。
傷ついている人間の温度だ、と美智子は思った。
「別のこと、というのは」と美智子は聞いた。
「名前は聞きません」と正人は言った。
「ただ・・美智子さんには、今、誰か別の人への気持ちがあるんじゃないかと思っています」
美智子は少し間を置いた。
「・・そういうわけでは、ないと思います」
「そうですか」
正人は頷いた。
「では、別の聞き方をします。美智子さんは今、何かに迷っていますか」
「迷っています」
「その迷いは、僕への気持ちとは別のところにありますか」
美智子はコンソメを見た。
透き通っている。一点の濁りもない。
「別のところに、あります」と美智子は答えた。
正人は少し黙った。
それから「教えてもらえますか」と言った。
責めていない。
詰問していない。
ただ、知りたいと言っている。
「自分の人生を、自分で選んでいるのかどうか」と美智子は言った。
「正人さんと結婚すれば、間違いなく幸せになれると思います。それはわかっています。でも・・その幸せが、本当に私の幸せなのか、それとも誰かに与えてもらった幸せなのか、まだわからない」
正人はしばらく黙って聞いていた。
ワインを一口飲んで、グラスをテーブルに戻した。
「美智子さん」と正人は言った。
「一つ、聞いていいですか。これは責めているわけではなく、純粋に知りたいのですが」
「どうぞ」
「美智子さんは今、竜介さんという人とよく会っていますね」
空気が、少し変わった気がした。
「新聞記者の、津島さんです」と美智子は言った。
「なぜ知っているんですか」
「以前、美智子さんが神奈川政経新聞の名前を出したことがあって。それ以降、少し気になっていました。先月、神田で一緒にいるのを、知人が見かけたとも聞きました」
正人は淡々と話した。
怒っていない。
嫉妬しているようにも見えない。
ただ、事実を確認している。
「竜介さんとは・・友人です」と美智子は言った。
「友人」と正人は繰り返した。
「その人に対して、何か特別な気持ちがありますか」
「・・あります」
言ってから、自分でも驚いた。
否定するつもりだった。
でも、出てきた言葉は「あります」だった。
「そうですか」と正人は言った。
声に、何も変わらなかった。
穏やかなままだった。
「美智子さんはいつも正直ですね。それは、本当に好ましいと思っています」
美智子は正人を見た。
傷ついているはずなのに、その表情に乱れがない。
完璧な落ち着き。
完璧な誠実さ。
メインの仔牛のソテーが運ばれてきたころ、正人は再び話し始めた。
美智子は切り込みを入れた仔牛の断面を見た。
きれいなピンク色だった。
完璧な火の通り方だった。
この店の料理は、いつも完璧だ。
正人が選ぶものは、いつも完璧だ。
その完璧さの中に、自分がいる。
自分が何を選んだか、考えずにいられる。
それが「守られること」の意味なのかもしれないと、美智子は思った。
そして同時に・・それが怖い、とも思った。
「少し、僕の考えを話してもいいですか」
「どうぞ」
「美智子さんが今、迷っていることは、よくわかります。自分の人生を自分で選ぶという感覚・・それは大切なことだと思います。僕もそれを否定したくない」
正人はナイフとフォークを使いながら、静かに言った。
「ただ、一つだけ言わせてください。感情は変わります。今、誰かに対して特別な気持ちがあっても、それが一生続くとは限らない。人間の感情は、本来、不安定なものです。だからこそ、人は制度を作り、約束を作り、社会の枠の中で生きていく。感情だけに従って選択をすることが、最も合理的な生き方だとは、僕には思えない」
美智子はそれを聞きながら、フォークを持つ手が止まっていた。
「竜介さんとおっしゃいましたか」と正人は続けた。
「その方が、どんな方なのかは知りません。でも、感情で動く人間は・・どれだけ誠実であっても・・最終的に誰かを傷つけます。感情は、判断の基準にはなりえない。それが、僕の正直な考えです」
感情で動く人間は、最終的に誰かを傷つける。
その言葉が、美智子の胸の中で、ゆっくりと形を作った。
正人は間違っていない。
その言葉に、論理的な誤りはない。
感情は確かに不安定で、感情だけに従って生きることには危うさがある。
それは、理屈として正しい。
なのに。
なのに、美智子の胸の中で、何かが静かに、しかし確かに、ひびが入った。
「正人さん」と美智子は言った。
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「竜介さんは、川崎の工場地帯で、喘息の子供がマスクをして砂場で遊んでいるのを見て、公害取材を続けています。それは・・感情で動いている、ということになりますか」
正人は少し間を置いた。
「感情が起点にある行動だとは思います」と正人は言った。
「ただ、感情が起点であることと、その行動が社会的に有意義であることは、別の話です。そのこと自体を否定しているわけではありません」
「でも、感情で動く人間は最終的に誰かを傷つける、とおっしゃいましたね」
「論理的な意味では、そうです」
「竜介さんは・・感情で動いているから、傷つける人間ですか」
正人は、初めて少し口ごもった。
「・・そこまでは言っていません」
「でも、論理的にはそうなりませんか」
正人は黙った。長い沈黙があった。
窓の外に東京の夜景が広がっている。
完璧な夜景だった。
整然として、美しかった。
「美智子さん」と正人はゆっくりと言った。
「僕は、あなたのことが好きです。本当に好きです。だから、正直に言います。あなたが今、感情だけで判断しようとしているように見えて・・それが心配です」
心配。
その言葉が、美智子の中で何かを確定させた。
心配している。
本当に心配している。
正人に嘘はない。
善意で言っている。
だから・・だからこそ、美智子はその言葉を受け取れなかった。
心配されることと、信頼されることは、違う。
大切にされることと、対等でいることは、違う。
まだうまく言葉にならないその感覚が、今夜、初めて輪郭を持った気がした。
帰り道、ハコスカの助手席で、美智子は窓の外を見ていた。
正人の運転は、今夜も静かで滑らかだった。
急ブレーキを踏まない。
車線変更も、合図を必ず出してから、ゆっくりと。
何一つ変わっていない。
「美智子さん」と正人は言った。
信号で止まったとき、前を向いたまま。
「僕は待ちます。どんなに時間がかかっても」
「ありがとうございます」
「ただ、お願いがあります」
「なんですか」
「感情だけで判断しないでください。今の気持ちがどれだけ強くても・・少し時間を置いて、冷静に考えてみてください。それだけです」
信号が青になった。
ハコスカが、静かに動き出した。
美智子は窓ガラスに、そっと額を近づけた。
冷たかった。
感情だけで判断するな、と正人は言った。
その言葉は正しい。
でも・・「感情だけではない判断」の結果として、美智子の中に生まれつつある何かを、正人は「感情」と呼んでいる。
それが、ずれていた。
美智子が今感じているのは、衝動じゃない。
恋の熱病じゃない。
「今日の洗濯と明日のお金」という、もっと地味で、もっと具体的な問いだ。
誰かに守られた人生ではなく、自分の手で回す生活への問いだ。
その問いを、正人は「感情」と呼んだ。
そこが、どうしても、越えられなかった。
ハコスカが有馬家の前で停まった。
正人がドアを開けてくれた。
いつも通り、完璧なタイミングで。
「また連絡します」と美智子は言った。
「待っています」と正人は言った。
門を入って振り返ると、ハコスカはまだそこにあった。
正人が、美智子が家に入るのを見届けてから帰ろうとしているのだ、とわかった。
玄関の扉を閉めて、美智子は廊下に立った。
寒かった。
外の冷気がまだ、コートに残っていた。
完璧な善意の残り香が、寒かった。




