第十七話 軋む歯車
十二月に入って、竜介はひどく咳をするようになった。
最初は風邪だと思っていた。
十一月から取材が立て込んで、睡眠が四時間を下回る日が続いていた。
川崎の取材が大詰めで、証言者の一人が証言を撤回しかけていて、毎朝工場の裏口で待ち伏せる日々だった。
カップラーメンとハイライトと缶コーヒーで動いている身体に、冬の風が入り込んだのだろう、と思っていた。
でも、一週間経っても咳は収まらなかった。
むしろ、深くなった。
編集室で原稿を打っていると、腹の奥から引っかくような咳が出てくる。
一度咳が出ると、止まらない。
涙が出るほど咳込んで、それが収まると、じわりとした痛みが腹の奥に残る。
初めは気のせいだと思った。
でも二週間経って、その痛みが毎日来るようになって、気のせいではないとわかってきた。
鬼塚デスクが「お前、病院に行け。顔色が青い」と言ったが、「締め切りが終わったら行きます」と答えた。
それは嘘だった。
締め切りが終わったら次の締め切りがある。
病院に行く時間は、たぶんずっと生まれない。
ペンで天下を獲ると言い続けてきた男が、自分の身体の声を後回しにしていた。
その日の午後、鬼塚が編集室の竜介のデスクに来た。
珍しいことだった。
鬼塚がデスクから離れて記者の席まで来るのは、よほどのことだ。
「津島」と鬼塚は低い声で言った。
「本当に病院に行け。今すぐじゃなくていい。でも今週中に行け。命令だ」
竜介は「はい」と答えた。
鬼塚はそれ以上何も言わずに戻った。
その背中を見ながら、竜介は「デスクも、心配しているんだな」と思った。
でもペンは止めなかった。
十二月の第二週、証言者の再取材が終わって、竜介は新しい原稿に取りかかった。
書きながら、咳が出る。
咳が出るたびに、腹の奥に鈍い痛みがある。
でも書く。
書かなかったら、あの子供の顔を引きずることになる・・その感覚だけで、ペンを動かし続けた。
実家から米が届いた。
いつものように、母の手紙と一緒に。
「体に気をつけろよ」「早く帰れ」「嫁の話はないか」・・いつもの三行だった。
米袋は台所に置いたまま、今日も封を開けていない。
修平から電話があったのは、その週の木曜日の夜だった。
竜介が編集室で原稿を打っていると、デスクの電話が鳴った。
取り次いだ事務員が「城島という方から」と言った。
「修平か」と竜介は受話器を取った。
「ああ、俺だ」と修平の声がした。
何かが、違った。
いつもの修平の声より、少し低くて、少し速かった。
「どうした」と竜介は聞いた。
「・・竜介、今夜、会えるか」
「今夜は無理だ。原稿が詰まってる」
短い沈黙があった。
「そうか」と修平は言った。
「明日は」
「明日も難しい。あさって川崎の取材がある。その後なら・・」
「わかった」と修平は言った。
「またかける」
それだけ言って、電話が切れた。
竜介は受話器を置いて、少し考えた。
修平の声が、引っかかっていた。
「また今度」でも「いつでもいい」でもなく、「わかった」だった。
何かを決めた人間の声だった。
でも原稿がある。締め切りがある。
竜介はペンを持ち直して、書き続けた。
咳が出た。腹の奥に、鈍い痛みが走った。
その翌日の夕方、美智子は横浜にいた。
神奈川政経新聞社を訪ねるのは、二度目だった。
鬼塚デスクに用があったわけではない。
昨日の正人との食事の後から、何かを確かめたい気持ちが収まらなかった。
「感情で動く人間は最終的に誰かを傷つける」・・その言葉が一日中、頭の中で鳴っていた。
正論だ。
正しい。
でも・・自分が今日ここへ来ることは、感情だろうか。
衝動だろうか。
美智子にはわからなかった。
ただ足が向いた。
竜介の顔を見たかった。
それだけだった。
受付で竜介を呼んでもらった。出てきたのは鬼塚だった。
「津島なら今日は取材に出てる。夕方には戻る予定だが」と鬼塚は言った。
タバコを指に挟んで、美智子を見た。
「お前さん、また来たか」
「はい。竜介さんに渡したいものがあって」
「また資料の清書か」
「違います。今日は・・ただ会いたかっただけです」
鬼塚は少し美智子を見てから、「座って待ってろ」と言った。
ロビーの長椅子に座って、美智子は待った。
輪転機の音が、低く規則的に響いている。
ダイヤル式の電話が何度か鳴った。
誰かが怒鳴る声が、三階の編集室から降りてきた。
ここは、いつもこの音に満ちている。
この音の中で、竜介は毎日を過ごしている。
三十分ほどして、竜介が戻ってきた。
顔色が、悪かった。
「来たのか」と竜介は言った。
少し驚いた顔をした。
「連絡もなしに」
「急に来たくなったので」
「何かあったか」
「別に。ただ・・あなたの顔を見たかっただけです」
竜介は少し黙った。
それから「変なやつだな」と言った。
でも嫌そうな顔ではなかった。
「顔色が悪いですね」と美智子は言った。
「風邪だ」
「咳をしていますね」
「風邪だから咳が出る」
「病院には行きましたか」
「行ってない」
「なぜですか」
「時間がない」
美智子は少し間を置いた。
「竜介さん。締め切りより、あなたの身体の方が大切です」
「俺には締め切りの方が大切だ」
「でも身体が壊れたら、締め切りも守れません」
竜介は何も言わなかった。
反論しなかったということは、心当たりがあるのだ、と美智子にはわかった。
鬼塚が煙草を持ってロビーに顔を出して、「津島、今夜の原稿、七時までに出せ」と言って、消えた。
「行かなくていいんですか」と美智子は聞いた。
「五分くらいいい」と竜介は言った。
長椅子に座って、少し疲れた顔をした。
美智子はその隣に座った。
輪転機の音が響いている。
「修平さんから連絡がありましたか」と美智子は聞いた。
竜介の表情が、少し変わった。
「昨日、電話があった。会えなかった」
「会えなかった、というのは」
「俺が原稿で手が離せなくて、断った」
竜介は少し間を置いた。
「修平の声が、いつもと違った気がした。何か言いたいことがあったんだと思う。でも原稿を優先した」
「後悔していますか」
「・・少し」
竜介はそれだけ言って、手の中のハイライトを見た。
火をつけていない。
ロビーは禁煙だ。
「竜介さん」と美智子は言った。
「今夜、修平さんに電話できますか」
「原稿が終わったら、かけてみる」
「修平さんの声が心配なら、原稿より先にかけた方がいいんじゃないですか」
竜介は美智子を見た。
「お前、俺に説教するのが好きだな」
「説教じゃありません。心配しているんです。修平さんのことも、あなたのことも」
竜介は少しだけ、口の端が動いた。
「わかった。今夜かける」と竜介は言った。
「お前は帰れ。暗くなる前に」
「竜介さんも、原稿が終わったら早く帰ってください。咳が続くなら、明日病院へ」
「うるさい」
「うるさくて結構です」
美智子が社屋を出ると、十二月の夜風が吹いた。
横浜の桜木町の空は、澄んでいた。
冬の星がいくつか、低い位置に見えた。
正人の「感情で動く人間は最終的に誰かを傷つける」という言葉が、また頭の中で鳴った。
でも今夜の美智子には、その言葉が以前より遠く聞こえた。
自分の意志で、この社屋に来た。
竜介に「帰れ」と言われる前に、自分が来たかったから来た。
修平のことが心配だと言った。
竜介の顔色が悪いと言った。
どれも、誰かに言われたわけじゃない。
駅のホームで電車を待ちながら、美智子は今日のことを考えた。
竜介の顔色が悪かった。
それを見て、怖かった。
何が怖いのか、自分でもうまく言えない。
ただ、あの人がいなくなることを、想像したくなかった。
想像したくない、という感覚が、今日の足を動かした。
それは感情だ。
でも・・感情が動く前に、もう身体が動いていた。
それを、美智子は「自分の意志」と呼んでいいと思った。
輪転機の音が、遠くなっていった。
でも、まだ耳の奥に、規則的に響いていた。
竜介はその夜、原稿を七時に出してから、修平に電話をかけた。
呼び出し音が、六回鳴った。
出なかった。
もう一度かけた。
今度は五回で、修平が出た。
「遅くなった」と竜介は言った。
「昨日も今日も、原稿が詰まってた」
「ああ」と修平は言った。
声は、落ち着いていた。
昨夜より、ずっと落ち着いていた。
「何かあったか」と竜介は聞いた。
少し間があった。
「何でもない。少し話したかっただけだ」と修平は言った。
「もう大丈夫だ」
「本当に大丈夫か」
「ああ。お前の声が聞けたから」
それだけだった。
竜介は受話器を置いて、しばらく動けなかった。
「もう大丈夫だ」。その言葉の、何かが引っかかった。
「大丈夫になった」ではなく「大丈夫だ」。
最初から何でもなかった、という言い方だった。
でも昨夜の「会えるか」という声は、何かを求めていた。
その何かを、竜介は昨夜、断った。
今夜、修平が落ち着いているのは・・何かを決めたからかもしれない、と竜介は思った。
その予感が、腹の奥の痛みより、ずっと深いところに刺さった。
咳が出た。
長い、腹の底からの咳だった。
アパートに帰ると、台所に米袋が積んであった。
先月のと今月のが、封も開けないまま、重なっている。
母の手紙は、「体に気をつけてよ」と書いていた。
竜介は米袋を見た。
しばらく、そのまま立っていた。
今夜だけは、炊いてみようと思った。
釜を出して、米を研いで、水を計った。
火にかけて、蓋をした。
沸騰するまで、竜介はコートも脱がずに、台所に立っていた。
咳が出るたびに、腹の奥が痛んだ。
でも米が炊ける匂いが、台所に満ちていた。
北陸の実家の匂いだった。




