第十八話 不穏な秋、手紙と前夜
十二月の半ば、竜介から手紙が届いた。
封筒は普通の白いものだった。
差出人の名前だけ「津島」とあって、住所は書いていない。
横浜の消印が押してある。
美智子はそれを、朝の食卓で受け取った。
母が「誰から?」と聞いた。
「知人から」と答えて、自室に持っていった。
便箋一枚だった。
万年筆で書かれていて、文字は走り書きでも取材ノートの字とも違った。
ゆっくりと、一字一字を置くように書かれていた。
何度か書き直した跡があった。
一行目が途中で消してある。
二行目も、途中で言い直している。
普段の竜介には似合わない、迷いの跡だった。
美智子は自室の机の前に座って、その手紙を読んだ。
・・先日は来てくれた。
礼を言う。
あのとき言えなかったことを、書いておく。
お前が神田で最初に「あなたが書きたいものを読んでみたいから」と言ったとき、俺は少し驚いた。
「書きたいもの」は、俺の中にいつもあって、でもそれを「読みたい」と言ってくれた人間は、これまでほとんどいなかった。
デスクは「書けるじゃないか」と言う。
でも「読みたい」とは言わない。
木下は「面白いじゃないか」と言う。
でも「読みたい」とは言わない。
お前は「読みたい」と言った。
俺にはそれが、一番届いた。
もうひとつ言っておく。タイプライターの活字みたいに・・お前にはお前の重さがある。
それは、誰かに認めてもらう必要も、誰かに守ってもらう必要もない重さだ。
お前がタイプライターの前に座って、一文字ずつ確かめているとき、お前はすでにその重さを持っている。
そのことを、お前はいつかわかると思う。俺はすでにそう思っている・・。
それだけだった。
署名は「津島」とだけあった。
美智子は手紙を読み終えて、しばらくその便箋を見つめていた。
タイプライターの活字みたいに・・お前にはお前の重さがある。
その一行が、頭の中で何度も繰り返された。
言葉の意味は、すぐにわかった。
でも言葉の重さが、じわりとしみこんでくるのに、少し時間がかかった。
美智子は机の引き出しを開けた。「憂」の活字と「己」の活字を取り出して、手のひらに乗せた。
冷たかった。
重かった。
でも、その重さは確かに「ある」。
誰かに与えてもらった重さではない。
竜介はそれを、知っていた。
正人さんは「守る」と言った。
「守られることで、あなたの重さが増す」という意味だったかもしれない。
でも・・重さは、最初からある。
誰かに守られる前から、自分の中にある。
美智子は手紙を丁寧に折って、活字と一緒に引き出しの中にしまった。
その夜、タイプライターの前に座った。
「活字は、頭の中の霧に形を与える。私が打っているのは、言葉じゃなくて・・」という一文の続きが、まだ出てこないままだった。
でも今夜は、その先が少しだけ見えた気がした。
言葉じゃなくて・・自分の重さを確かめる行為、だと思った。
一文字打つたびに、自分が確かにここにいると、わかる行為。
それが何かの答えになるのかどうか、まだわからない。
でも今夜は、その問いを持ち続けることが、少しだけ怖くなくなった。
十二月の中旬から下旬にかけて、竜介の病状は悪化した。
咳は収まらない。
腹の奥の痛みが、毎夜来るようになった。
鬼塚の命令で、一度だけ病院へ行った。
「精密検査が必要です」と医師に言われたが、「仕事が一段落したら」と答えて帰ってきた。
それでも書いた。
川崎の公害記事の最後の稿が、年内に一面に出ることが決まった。
「正月明けに企業の反論が出るかもしれないが、出たら出たで叩く」と鬼塚は言った。
竜介はその言葉に、初めて鬼塚を「信頼できる人間だ」と確信した。
美智子とは、十二月に二度会った。
一度目は神田の定食屋で、公害記事の話をした。
美智子は「活字で組まれた記事を見ると、あなたが取材で見た景色が全部、その活字の後ろにある気がします」と言った。
竜介は何も言わなかった。
でも、その言葉を聞いたとき、腹の奥の痛みが一瞬、遠くなった気がした。
二度目は、竜介が美智子の家の近くまで来て、路地で少し話した。
「手紙、読みました」と美智子は言った。
「読んでくれたか」と竜介は言った。
それだけだった。
でも、それだけで充分だった。
定食屋でも路地でも、二人は「正人さん」のことを話さなかった。
美智子から話さなかった。
竜介も聞かなかった。
それが今の二人の距離感だった。
昭和四十五年十一月二十四日の夜、修平がアパートを訪ねてきた。
この日付を、竜介は一生忘れないと思う。
夜の十時を過ぎていた。
竜介は原稿の最終確認をしていた。
翌日の朝刊に載る予定の記事で、川崎公害の証言が初めて実名で掲載される内容だった。
インクで汚れた手で、ゲラ刷りに赤を入れていた。
ドアを叩く音がした。
開けると、修平が立っていた。
オーバーコートを着ていた。
いつかSLを見に行った日と同じ、くたびれた紺のコートだった。
顔は静かだった。
怒っていない。
怯えていない。
ただ、静かだった。
護国義勇隊の制服ではない。
大学時代のコートだった。
それだけで、今夜の修平が「別の修平」であることが、竜介にはわかった。
「急に来た」と修平は言った。
「いいか」
「いい。入れ」
竜介は修平をアパートに入れた。
六畳一間に、書類と本が積まれている。
台所には米袋が二つ。
椅子は一脚しかないので、修平は床に座った。
竜介もゲラを脇に置いて、床に座った。
二人はしばらく、黙っていた。
隣の部屋の音が聞こえた。
ラジオが鳴っている。
歌謡曲の細い音が、壁越しに届いてくる。
竜介は何を言えばいいか、わからなかった。
修平も何も言わなかった。
それでも、二人がそこにいることは、正しかった。
「明日、どこかに行くのか」と竜介は聞いた。
修平は少し間を置いた。
「ああ」と修平は言った。
「どこに」
「市ヶ谷だ」
竜介は修平の顔を見た。
市ヶ谷。
自衛隊東部方面総監部。
三島由紀夫。
その三つが、竜介の頭の中で一本の線になった瞬間、全身の血が冷えた気がした。
「修平」と竜介は言った。
「明日、何をする気だ」
「先生が、何かをするつもりだということは、もう知っている」と修平は言った。
「俺も、そこにいるつもりだった」
「いるつもりだった」
「ああ。でも・・今日、ここへ来た」と修平は繰り返した。
竜介は修平を見た。
「行かないのか」と竜介は聞いた。
修平は少し間を置いた。
「わからない」と修平は言った。
「今夜、お前の顔を見たかった。それだけだ」
沈黙が落ちた。
竜介は何と言えばいいか、わからなかった。
「行くな」と言えるか。
「行け」とは言えない。
「止めてやる」とも言えない。
修平の「言葉」・・護国義勇隊への信念・・を、竜介には否定する権利がない。
でも。
「修平」と竜介は言った。
「行くな」
「お前が止めるのか」
「止める」
「お前には関係ない話だ」
「修平が関係するなら、俺にも関係する」
修平は竜介を見た。
何かを量るような目だった。
「竜介」と修平は言った。
声が、少し柔らかくなった。
「俺は、先生の思想を信じている。それは今も変わらない。でも・・」
「でも、なんだ」
「俺には、お前がいる」と修平は言った。
「お前みたいな馬鹿がいる。ペンで天下を獲るとか言って、シャツも買えないくせに、毎日取材して、咳しながら原稿書いて・・そういう馬鹿が、俺には一人いる。先生の言葉が俺の背骨なら、お前の存在は俺の、何だろうな」
「何だ」と竜介は言った。
「俺は何だ」
「わからない」と修平は言った。
「でも、いる。それだけだ」
竜介は修平を見た。
何も言えなかった。
「それが、今夜来た理由だ」と修平は言った。
修平は立ち上がった。
コートの衿を立て直した。
「帰るのか」と竜介は聞いた。
「ああ」
「明日、どうするんだ」
修平は少し笑った。
今思い返せば、あの笑顔が・・竜介にとって、最後に見た修平の笑顔だった。
力のない笑いではなかった。
かといって、確信に満ちた笑顔でもなかった。
ただ、二十三歳の男の、人間の顔をした笑顔だった。
「わからない」と修平は言った。
「でも、今夜はよかった」
それだけ言って、修平はドアを開けて出ていった。
竜介はドアの前に立ったまま、廊下の足音が遠くなるのを聞いていた。
足音が消えた。
竜介はゆっくりとドアを閉めて、部屋に戻った。
ゲラ刷りが床に広げてある。
赤を入れかけの原稿が、そのままだった。
ペンを持てなかった。
修平が出ていった後、竜介は窓を少し開けた。
十一月の夜風が入ってきた。
冷たかった。
煙草に火をつけようとして、やめた。
修平からもらったハイライトを一本、指に挟んだまま、火をつけずにいた。
修平も今夜、ハイライトを一本もらって、火をつけずに持っていたことがあった。
あの夜と、同じ持ち方だった。
修平の言葉が、頭の中で繰り返された。
「先生の言葉が俺の背骨なら、お前の存在は俺の、何だろうな」・・竜介には答えられなかった。
でも今、部屋に一人で残されて、竜介は思った。
俺にとって修平は、何だ。
思想の友ではない。
記者仲間でもない。
ただ・・深夜にカレーを作って、辛すぎて二人で水を飲んだ、あの男だ。
SLの煙を一緒に見た、あの男だ。
今夜、アパートに来て、「お前みたいな馬鹿がいる」と言って笑って帰った、あの男だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
でも、それが全部だった。
自分のペンで書けることと、書けないことがある。
そのことを、竜介はこの夜、初めて、骨の奥まで感じた。
咳が出た。
腹の奥の痛みが、また来た。
今夜は、その痛みを遠ざけようとしなかった。
ただ、そこにある痛みとして、受け止めた。
明日の朝刊に、竜介の記事が出る。
活字が組まれて、川崎の子供の顔が、その後ろにある。
それだけが、今夜の竜介に確かなことだった。




