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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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19/30

第十九話 市ヶ谷の激震

 昭和四十五年十一月二十五日、水曜日。

 竜介は朝八時に編集室に着いた。

 いつもと同じ時間だった。

 いつもと同じように、デスクのダイヤル式の電話が鳴っていた。

 いつもと同じように、ハイライトの煙が天井に向かって白く揺れていた。


 今朝の朝刊に、川崎公害の証言記事が一面で出た。

 竜介は自分の署名が活字になったその紙面を、出社する前の駅売りのスタンドで確かめた。

 紙面を開いたとき、手が少し震えた。

 それは昨夜の腹の痛みの残りかもしれなかった。

 でも違う気もした。

 自分の書いたものが、活字になっている。

 それはいつも、震えることだった。


 デスクに着いて、取材ノートを開いた。

 今日の予定は川崎の工場への後追い取材だった。

 記事が出た翌日に必ず来る、企業側の「抗議」か「沈黙」か・・どちらが来るかを確かめに行く予定だった。

 竜介はコーヒーを一口飲んで、咳をした。

 腹の奥に、鈍い痛みが走った。

 無視した。


 九時を過ぎたころ、修平のことを考えた。

 今日、市ヶ谷に行ったのか。

 行かなかったのか。

 昨夜の修平の笑顔が、頭の中にあった。

「わからない」と言って、笑って、帰っていった。

 あの笑顔の意味を、竜介はまだ掴めていなかった。

 電話を取ろうかと思った。

 でも何を聞けばいいのか、わからなかった。

「今日、市ヶ谷に行ったか」・・その問いを、竜介はまだ言葉にしたくなかった。


 十一時を少し過ぎたころ、編集室が動いた。

 最初は、整理部の村田が電話口で声を上げたのが聞こえた。

「え? 市ヶ谷?」・・その一言で、竜介の手が止まった。

 次の瞬間、別の電話が鳴った。

 また別の電話が鳴った。

 デスクの鬼塚が受話器を叩くように取った。

「何? 何が起きてる?」・・声が、いつもと違った。

 鬼塚が怒鳴るときは、怒りがある。

 だが今の声に怒りはなかった。

 底のない驚きだけがあった。

 編集室が、数秒で凍った。

 それから一斉に動き始めた。


「三島由紀夫が自衛隊に乗り込んだ!」

 誰かが叫んだ。

「市ヶ谷の東部方面総監部だ!」

「人質を取っているらしい!」

「バルコニーに出て演説している!」

 竜介は立ち上がった。

 体が動く前に、頭の中で一つのことだけが鳴った。

 ・・修平は、どこにいる。


 編集室は戦場になった。

 鬼塚が電話を三台同時に抱えながら、「全員聞け!」と怒鳴った。

「市ヶ谷に最も近いのは誰だ!」

「木下と松田、今すぐ現場へ!」

「津島、お前は社にいろ! 入ってくる情報を整理して原稿に落とせ!」

「俺も現場に行きます」と竜介は言った。

「その身体で走れるか!」

 竜介は答えなかった。

「いいから座れ」と鬼塚は言った。

「お前の今日の仕事は、入ってくる情報を書くことだ。走ることじゃない」

 それだけ言って、鬼塚は次の電話を取った。


 竜介はデスクに戻った。

 椅子に座って、ノートを開いた。

 ペンを持った。

 それだけのことが、今日は少し難しかった。

 腹の奥に痛みがある。

 指が、わずかに震えている。

 震えているのが、体調のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、自分でもわからなかった。


 電話が鳴り続けている。

 どこかの支局から、どこかの取材先から、情報が入ってくる。

 誰かが「演説が始まった」と言った。

 誰かが「自衛官たちが罵声を上げている」と言った。

 誰かが「三島が中に戻った」と言った。

 竜介はその言葉の一つ一つを、ノートに書き付けた。

 手が動く。

 ペンが走る。

 でも頭の中では、一つのことだけが繰り返されていた。

 ・・修平はどこにいる。


 正午を過ぎたころ、電話口で誰かが絶句した。

 長い沈黙があった。

 それから「・・割腹だ」という声が聞こえた。

 編集室が、また、凍った。

「三島が割腹した」という声が、誰のものかわからないまま、空気の中に広がった。

 タバコの煙が、止まったように見えた。

 輪転機の音だけが、変わらず低く鳴り続けていた。

 竜介はペンを持ったまま、動けなかった。

「号外を出す!」

 鬼塚の声が、編集室全体に響いた。

「全員作業に入れ! 津島、事件の速報を今すぐ三千字!」

「はい」と竜介は答えた。

 声が、自分のものとは思えないくらい、遠かった。


 三時間後、竜介は三千二百字を書き終えた。

 手が動いた。

 ペンが走った。

 でも書きながら、竜介は何度も、自分が書いていることの意味が掴めなくなった。

 これは本当に起きたことなのか。

 三島由紀夫は死んだのか。

 あの文章を書いた男が、あの本を書いた男が・・市ヶ谷の一室で、自ら命を絶ったのか。

 書くことで整理できるはずだった。

 いつもそうだった。

 書くことで、混乱が形を持った。

 でも今日は違った。

 書けば書くほど、何かが掴めなくなった。


 咳が出た。

 ゲラを渡したとき、腹の奥から熱いものが込み上げてきた。

 竜介は口を押さえて、廊下に出た。

 洗面台で、咳をした。

 水を口に含んだ。鏡の中の自分の顔が、青かった。

 鬼塚が廊下に出てきた。

 竜介の顔を見た。

 何も言わなかった。

 ただ、タバコの箱を差し出した。

 竜介は一本受け取った。

 火をつけずに、指に挟んだ。

「書けたか」と鬼塚は聞いた。

「書きました」

「読んだ。いい原稿だ」

 鬼塚は少し間を置いた。

「お前の原稿は、いつも怒りで書かれているのがわかる。今日は・・何で書いた」

 竜介は少し考えた。

「わかりません」と答えた。

「書きながら、何で書いているかわからなかった」

 鬼塚は頷いた。

 それ以上は何も言わなかった。


 夕方、号外が街に出た。

「三島由紀夫割腹自決」という大文字の見出しが、白い紙の上に黒く並んだ。

 活字が組まれて、紙になって、街に出ていく。

 それを手にした人々が、立ち止まって読む。

 電車の中で読む。

 店の前で読む。

 竜介は三階の窓から、桜木町の交差点を見た。

 夕暮れの光の中で、号外を持った人間たちが、みんな足を止めていた。

 立ち止まって、紙面を見ている。

 誰も動かない。

 誰も話していない。

 ただ、活字を読んでいる。

 これが、今日の日だ、と竜介は思った。

 時代が、折れた日だ。

 折れた音を、誰もが今日、聞いた。


 夜になっても、編集室を離れられなかった。

 輪転機が夜通し回り続けていた。

 明日の朝刊のために。

 明後日の特集のために。

 三島の生涯、思想、行動の経緯・・書くべきことが山積みだった。

 電話が鳴り続けた。

 各社の記者が市ヶ谷に押しかけていた。

 木下から「現場はすごい人数だ」という電話が入った。

「三島の演説を直接聞いた自衛官に話を聞いた。まともに答えられる状態じゃなかった」と木下は言った。

 竜介はその言葉を、ノートに書き付けた。

 でも手が、止まった。

 修平に電話をかけていなかった。


 今日一日、取材の情報を整理して、原稿を書いて、号外が出て、また次の原稿に取りかかって・・。

 その間、ずっと頭の中で「修平はどこにいる」と思い続けていたのに、実際に電話をかけていなかった。

 かけることが、怖かったのかもしれない。

 かけて、出なかったら・・それが怖かった。

 竜介はダイヤル式の電話の前に座って、しばらくその受話器を見ていた。

 ジーコジーコと回して、番号を押せば、繋がるかもしれない。

 繋がらないかもしれない。

 どちらかは、かけなければわからない。

 ペンで書くことと、電話をかけることは、違う。

 書くことは、竜介にとって武器だった。

 でも今夜、この電話の前では・・竜介はただの、修平の友人だった。

 それだけだった。


 夜の十一時を過ぎたころ、竜介はダイヤルを回した。

 呼び出し音が、一回。

 二回。

 三回。

 四回。

 五回。

 六回・・出た。

「・・竜介か」

 修平の声だった。

 静かだった。

 低かった。

 でも、生きていた。

「ああ、俺だ」と竜介は言った。

 声が、少し掠れた。

「今日、どこにいた」

 少し間があった。

「・・アパートだ」と修平は言った。

「一日、アパートにいた」

「そうか」

「ラジオで聞いた」と修平は続けた。

 声が、わずかに揺れた。

「先生が・・市ヶ谷で・・」

 竜介は黙って聞いていた。

「俺は」と修平は言った。

「行けなかった」

 その一言が、落ちた。

 行けなかった。

 行かなかったのではなく、行けなかった。

 その違いが、竜介には、電話越しにでも、骨まで伝わってきた。


「わかった」と竜介は言った。

「明日、会えるか」

「・・ああ」

「場所はどこでもいい。連絡をくれ。必ず行く」

 修平は何も言わなかった。

 でも電話は、まだ繋がっていた。

 二人はしばらく、何も言わずに繋がっていた。

 輪転機の音が、廊下から低く響いてくる。

 修平のアパートからは、何の音もしなかった。

 静かすぎるくらい、静かだった。


「修平」と竜介は言った。

「なんだ」

「生きてるか」

 短い沈黙があった。

「・・生きてる」と修平は言った。

「それだけだ。今夜は。」

 電話が切れた。

 竜介は受話器を置いた。

 しばらく動けなかった。


 廊下から、輪転機の音が響いている。

 明日の朝刊のために、機械は夜通し回り続ける。

 活字が組まれ、紙が刷られ、街に出ていく。

 時代が折れた日の記録が、白い紙の上に黒く刻まれていく。

 竜介はペンを持った。

 もう一度、原稿用紙に向かった。

 咳が出た。

 腹の奥に、痛みが来た。

 遠ざけなかった。

 ただ書いた。

 今夜書けることだけを、今夜、書いた。

 明日、修平に会う。

 それだけが、今夜の竜介の、先にあることだった。

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