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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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20/30

第二十話 行けなかった男

 十一月二十六日の深夜、ドアを叩く音がした。

 竜介はまだ起きていた。


 机の上に、書きかけの原稿がある。

 昨日の三島事件の速報に続く、今日一日で書いた二本目の原稿だった。

 現場取材を終えた木下から電話で聞いた証言を元に、「市ヶ谷・現場の声」という記事に仕上げた。

 三千字。

 鬼塚に渡したのが午後十時過ぎだった。

「よし」と鬼塚は言った。

 それだけだった。


 アパートに帰ったのが十一時を回ったころだった。

 外套を脱がないまま、竜介は机の前に座った。

 ペンを持った。

 書けることは、あった。

 ある男の名前が、頭の中にあった。

 その男の所属する組織が、今日の事件と深く関わっていた。

 裏が取れる。

 証言が取れる。

 記事の骨格は、すでに竜介の頭の中で出来ている。

 書こうと思えば、今夜から書ける。

 でも、ペンが動かなかった。

 動かない理由が、竜介にはわかっていた。

 その男の名前は、修平だ。


 ドアを叩く音は、三回だった。

 竜介は椅子を引いて立ち上がった。

 腹の奥に、鈍い痛みがあった。

 昨日から痛み止めを飲んでいる。

 効いているのかいないのか、よくわからない。

 ただ、体が動く。

 動く間は書ける。


 ドアを開けると、修平が立っていた。

 オーバーコートではなかった。

 シャツ一枚だった。

 十一月の夜の冷気の中で、シャツのボタンが一つ外れたままだった。

 顔色が悪かった。

 目の下が落ちていた。

 でも、目そのものは・・何かを見ていた。

 竜介の顔を見ている目ではなく、もっと遠い、あるいはもっと内側の何かを見ている目だった。


「入れ」と竜介は言った。

 修平は黙って入ってきた。

 靴を脱いだ。

 それだけの動作を、何秒もかけてやった。

 靴の紐が結んだままだったから、なのかもしれない。

 それとも、足が重かったのかもしれない。

 竜介は黙って見ていた。


 六畳一間。

 床に積んだ本と書類。

 台所に米袋。

 椅子が一脚。

 修平は昨夜と同じように床に座った。

 竜介も床に座った。

 しばらく、何も言わなかった。

 十一月の夜の冷気が、薄い壁越しに伝わってくる。

 隣の部屋のラジオは、今夜は聞こえなかった。

 静かだった。


「竜介」と修平は言った。

「なんだ」

「俺は・・行けなかった」

 その言葉を、修平はゆっくりと言った。

 急いでいない。

 絞り出してもいない。

 ただ、一言ずつ、確かめるように言った。

「ああ」と竜介は言った。

「なぜか、わからない」と修平は続けた。

「前の日まで、行くつもりだった。先生の計画は知っていた。俺も、そこにいるつもりだった。なのに・・当日の朝、俺は布団から出られなかった。ただ出られなかった。理由がない。意志が折れたわけじゃない。怖かったわけでもない。ただ・・出られなかった」


 竜介は修平の横顔を見た。

 二十三歳の男の横顔だった。

「命を捨てる覚悟だ」と言い続けてきた男が、今夜はただの二十三歳の男の顔をしていた。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

「そのまま一日、ラジオを聞いていた」と修平は言った。

「先生が演説をしていること。自衛官が罵声を上げていること。先生が中に戻ったこと。森田が・・先生の介錯が、うまくいかなかったこと」

 修平の声が、一瞬だけ止まった。


「うまくいかなかった」と修平はもう一度言った。

 声に、何かが滲んだ。

「介錯が、うまくいかなかった。俺がいたら、うまくできたかもしれない。俺は剣道をやっていた。先生の道場で、特訓を受けていた。俺がいたら・・」

「修平」と竜介は言った。

 修平が止まった。

「・・お前のせいじゃない」

「わかってる」と修平は即座に言った。

「わかってる。でも、それを言えるのは、行った人間だけだ。俺は行かなかった。行けなかった。だから・・俺には、何も言えない」

 沈黙が落ちた。

 長い沈黙だった。


 竜介は何も言えなかった。

「行かなかったのは正しい」とも言えない。

「行っても何も変わらなかった」とも言えない。

 修平の言う通りだった。

 行かなかった人間には、何も言えない。

 でも・・竜介は今、ここにいる。

 修平の横に、ただいる。

 それだけが、今夜の竜介にできることだった。


「先生の言葉は、正しかったと思う」と修平は言った。

 しばらく沈黙が続いた後で。

「今も思う。日本はなくなる。大きな言葉もなくなる。このまま豊かになって、空っぽになって・・先生はそれを、命をかけて言いたかった。それは正しい。正しかった」

 竜介は黙っていた。

「でも」と修平は言った。

「俺は行けなかった。先生の正しさに、俺の身体はついていかなかった。理屈と身体の間に、溝がある・・あの居酒屋でお前に言ったことを、覚えてるか」

「覚えてる」

「あれは本当のことだった。溝は、最後まで埋まらなかった」

 修平は膝を抱えて、その膝に視線を落とした。

「先生の言葉が俺の背骨だった。その背骨が、今日・・なくなった。俺はこれから、何の言葉で立てばいいのか、わからない」


 竜介はその横顔を見た。

 あのジャズ喫茶の薄煙の中で、修平が一瞬だけ見せた「泣きそうな顔」を思い出した。

 あの夜から、ずっとそこにあったものが、今夜、表に出てきた気がした。

 言葉が出てこなかった。

 ペンがあれば書ける。

 でも今夜、ここには言葉が要る。

 書くための言葉ではなく、人間に届く言葉が要る。

 竜介には、それがなかった。


「修平」とだけ言った。

「なんだ」

「・・今夜は、ここにいろ」

 修平は少し間を置いた。

 それから、低く「ああ」と言った。


 二人は並んで、床に座ったまま、夜を過ごした。

 竜介は台所に立って、米を研いだ。

 火にかけて、蓋をした。

 北陸の米が、ゆっくりと炊けていく。

 あの糊の匂いに少し似た、甘い湯気が上がってきた。

 鍋の隅に残っていた昆布を出して、お椀に少しの塩だけで汁を作った。

 出汁は取れない。

 味噌もない。

 それでも、熱い汁だった。


「食え」と竜介は言った。

 お椀を修平の前に置いて。

 修平は黙って受け取った。

 一口飲んで、何も言わなかった。

 ただ、もう一口飲んだ。

 米を茶碗に盛った。

 修平は受け取って、ゆっくりと食べた。

 竜介も食べた。

 二人とも、何も言わなかった。

 台所の小さな電球の下で、十一月の深夜に、二人の男が米を食っていた。

 それだけのことだった。

 それだけのことが、今夜は正しかった。


 修平が帰ったのは、夜中の二時を過ぎたころだった。

 靴を履いて、ドアを開けて、振り返った。

「竜介」と修平は言った。

「なんだ」

「お前に話したのは・・お前だけだ。今夜のことは、お前だけが知っている」

 竜介は頷いた。

「書くなよ」と修平は言った。

 怒っているわけではなかった。

 命令しているわけでもなかった。

 ただ、確かめるように言った。


 竜介は少し間を置いた。

「書かない」と言った。

 修平は頷いた。

 それだけだった。

 ドアが閉まった。

 廊下の足音が遠くなって、消えた。

 竜介は部屋に戻った。

 机の上に、書きかけの原稿がある。

 その横に、白紙がある。

 インクで汚れたペンが、置いてある。


 竜介はペンを手に取った。

 書ける。

 今夜の修平の話は、スクープになる。

 護国義勇隊の内部の人間が、前日の夜に「行くつもりだった」という証言・・これは一面になる。

 鬼塚が「お前の今日の仕事は書くことだ」と言った意味が、今夜は別の文脈で頭に響いた。

 でも。

 でも・・ペンが、動かなかった。

 書こうとするたびに、修平の声が戻ってくる。

「お前だけが知っている」。

「書くなよ」。

 そして・・竜介自身の声が、その下から来る。

 俺はこれを書けるか。

 書くとは何だ。

 見てきたものを言葉にすることだ。

 では今夜見たものは何だ。

「行けなかった男」の話だ。

「言葉を失った男」の話だ。

 それを書いて、誰の顔が救われる。

 マスクをした五歳の男の子の顔は、この話の後ろにいるか。

 いない。

 いない・・と、竜介は思った。


 ペンを置いた。

「ペンで天下を獲る」・・そう言い続けてきた。

 言葉は武器だと思ってきた。

 書くことで時代を変えられると思ってきた。

 でも今夜、修平の横に座っていた二時間、竜介は一度もペンを持たなかった。

 持てなかったのではない。

 持たなかった。

 米を炊いて、汁を作って、ただそこにいた。

 それは、書くことではなかった。

 でも・・それは、捨てられなかった。


 深夜の三時、竜介は窓を少し開けた。

 十一月の夜風が入ってくる。

 冷たかった。

 横浜の夜の空気は、インクと潮の匂いがした。

 ハイライトに火をつけた。

 煙が、夜の空気に向かって細く上がっていく。

 竜介は煙を見ながら、思った。

 俺がこの話を書かないということは・・俺にも、書けないことがある、ということだ。

 書けないことがある記者が、ペンで天下を獲れるか。

 獲れない。

 でも。

 書けないことを知っている記者は・・書けないことを知らない記者より、少しだけ、人間に近いかもしれない。

 その考えが正しいのかどうか、竜介にはわからなかった。


 腹の奥の痛みが、また来た。

 今夜は特に深かった。

 煙草を一本吸い終えて、竜介は窓を閉めた。

 机の上の白紙を、引き出しの中にしまった。

 原稿用紙を一枚出して、ペンを持った。

 今夜書けることを書く。

 修平の話ではない。

 三島事件の「その後」・・社会が動く方向を、記者の目で書く。

 それが今夜の竜介にできることだった。

 咳が出た。

 腹の奥に、痛みが走った。

 それでも書いた。

 今夜も、書いた。


「ペンで天下を獲る」という言葉は、今夜、少し形が変わった。

 天下を獲るためではなく・・書けないことを知った上で、それでも書くために、ペンを持っている。

 そういうことかもしれない、と竜介は思った。

 窓の外、十一月の夜が、静かに深くなっていった。

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