第二十一話 冷たい方程式と、二つの廃墟
十一月二十六日から、街の空気が変わった。
東京の十二月の入口は、いつもなら澄んでいる。
万博が終わり、光化学スモッグが消え、空が青く高くなって、神田川の水が冷たく透き通っている・・例年なら、そういう季節だった。
でも今年は違った。
空は相変わらず澄んでいたのに、その下を歩く人間たちの空気が、どこか凍りついたような、あるいは煮詰まったような、おかしな重さを帯びていた。
新聞が、毎朝、三島のことを書いていた。
有馬美智子は朝食の食卓で、父の読み終えた紙面を手に取ることが続いた。
一面から社会面まで、見出しが三島で埋まっている日もあった。
「三島由紀夫氏割腹自決」
「市ヶ谷の衝撃・・その思想と行動」
「民主主義への暴挙か、武人の信念か」・・見出しの言葉が、日によって変わった。
最初の二日は「衝撃」だった。
三日目からは「断罪」になった。
五日目には「追悼」が混じり始めた。
書かれていることは、それぞれ正しかった。
でも、どれを読んでも、美智子の手の中の感触が定まらなかった。
活字が組まれて、紙面になって、言葉が届く・・それは竜介が信じているものだ。
でも今週の新聞は、読んでも読んでも、何かがすり抜けていく気がした。
言葉の量が多すぎて、言葉の重さが消えている気がした。
あれだけの言葉を持っていた男が、あれだけの言葉で語られて、その男が語りかけていたものが・・活字の向こうに埋まっていく気がした。
大学の構内も、落ち着かなかった。
美智子が所属している文学ゼミの教授・・穏やかな五十代の男性で、戦後文学を専門とする・・は、十一月二十七日の講義で、冒頭にこう言った。
「三島氏の行動については、文学的な功績と切り離して考えなければなりません。文学者として偉大であったことと、政治的行動として正当性を持つかは、別の話です」
それから、淡々と授業を進めた。
廊下で友人の恵子が「先生、冷静だよね」と言った。
「あんな事件があって、自分の専門分野の大作家が死んだのに、あれだけ落ち着いて話せるのはすごいな」
「冷静すぎない?」と別の学生が言った。
「じゃあ、どうすればよかったの」と恵子は言った。
「泣けばよかったの? 叫べばよかったの? そんなの授業にならないじゃない」
美智子はその会話を聞きながら、うまく言葉が出なかった。
恵子の言うことは正しい。
先生の言うことも正しい。
冷静に分析することが、学問の役割だ。
でも・・「文学的な功績と政治的行動を切り離す」という言い方が、美智子にはどこか、事実を二枚に割いているような気がした。
切り離せるものだろうか。
あの人は、文学と政治と自分の死を、切り離さずに一本にして走っていった人だ。
それを「文学と政治は別物だ」と言って分けたとき・・何かが零れ落ちる気がした。
零れ落ちるものの名前が、美智子にはまだわからなかった。
「美智子はどう思う」と恵子が聞いた。
「・・まだ、うまく言えない」と美智子は答えた。
「まあ、そうだよね」と恵子は言った。
「私も正直よくわからないんだよね。すごい人が死んだのはわかるけど、何のために死んだのかがよくわからない」
美智子は頷いた。
でも、その「よくわからない」という感覚の中身が、恵子のそれと自分のそれでは少し違う気がした・・そのことは、言わなかった。
十一月二十九日の夜、有馬家のリビングでテレビをつけると、報道特番が放映されていた。
「三島事件を問う・・知識人たちの証言」というテロップが画面の下に流れて、スタジオのパネラーたちが順番に意見を述べている。
弁護士、大学教授、ジャーナリスト、作家・・四人が並んでいた。
父の惣一郎が、腕を組んで見ていた。
煙草に火をつけながら、ふと「狂気だな」と言った。
「え?」と美智子は聞いた。
「三島のことだ。どれだけ才能があっても、あれは狂気だ。あんなことをしても、自衛隊は動かない。世の中は変わらない。わかっているはずなのに、あれをやった。それを狂気と言わずに何と言う」
父の言い方に、悪意はなかった。
本心からそう思っている声だった。
テレビの中で、弁護士の男が話し始めた。
若い、三十代か四十代の、整った顔立ちの男だった。
「三島氏の行動は、いかなる信念に基づくものであれ、法治国家における暴挙と言わざるを得ません。自衛隊という国家機関に私的に乗り込み、指揮官を拘束して演説を行う・・これは憲法と法秩序に対する明白な侵犯です。文学者として尊敬されていた方が、なぜこのような行動を選んだのか。それは、文学の世界での評価とは全く別の問題として考えなければならない」
流暢で、整然としていて、一点の感情的な揺れもない言葉だった。
美智子はその声を聞きながら、どこかで聞いたことがある、と思った。
正人さんの声に似ている。
正人の言い方ではなかった。
でも・・言葉の組み立て方が、似ていた。
一文ずつ論理的に積み上げていく、澱みのない、完璧に整えられた言葉。
感情論ではなく、制度の力で。
法治国家への暴挙。
文学と政治は別物。
テレビの向こうで、男は続けた。
「感情に従った行動が、社会の秩序を乱す。どれだけ高貴な動機であっても、法の枠を外れた行動は認められない。三島氏の場合も、例外ではありません」
父が「そうだそうだ」と言った。
美智子は黙っていた。
その「そうだそうだ」の声の中に、父がいた。
テレビの弁護士がいた。
正人がいた。
みんなが正しかった。
みんなが法治国家の論理で、三島を断罪していた。
それは間違っていない。
間違っていないのに・・美智子の胸の中で、何かが静かに、しかし確かに、抵抗していた。
抵抗しているものの名前が、まだわからなかった。
翌日の朝、正人から電話があった。
「先日の事件について、少し話したいことがあります。よければ今日の午後、お時間をいただけますか」
穏やかな、よく通る声だった。
美智子は「はい」と答えた。
待ち合わせは神田の喫茶「かぐら」だった・・いつも竜介と会う場所だ、と美智子は思った。
正人がその店を選んだことに、特別な意図はないだろう。
ただの偶然だ。
でも、その偶然が、今日は少しだけ、引っかかった。
午後三時、正人は定刻に現れた。
紺のコートを着ていた。
時計はオメガ。
いつもと変わらない、完璧な正人だった。
席に着いて、コーヒーを注文して、正人はすぐに話し始めた。
「三島事件について、美智子さんはどうお考えですか」
美智子は少し間を置いた。
「・・まだ、うまく言えないんです」
「そうですか」正人は頷いた。
「無理もないと思います。衝撃的な出来事でした」
「正人さんは」と美智子は聞いた。
「僕は、法治国家の観点から・・」と正人は言いかけた。
「昨日のテレビの特番で、法治国家への暴挙だと言っていた方と、同じ考えですか」
正人は少し止まった。
「・・そうですね、基本的には同意します。美智子さんもご覧になっていたんですか」
「少し見ました」
「あの番組に出ていた方は、父の知人でもあります」
美智子はコーヒーを一口飲んだ。熱かった。
「正人さん」と美智子は言った。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「三島さんが言いたかったことを・・法治国家への暴挙だ、という言葉で全て説明できると思いますか」
正人は少し考えた。
「全て説明できるとは言いません。ただ、どんな動機や信念があっても、手段が法を超えたとき、それを容認することはできない。それが僕の考えです」
「動機は関係ない、と」
「動機は理解できます。でも、動機が正しければ手段も許容されるという論理は、法治主義と相容れない。そこは譲れないところです」
正人の言葉は、正確だった。
美智子は反論できなかった。
反論するための言葉が、自分の中になかった。ただ・・
「正人さん」と美智子は言った。
「三島さんは、死ぬ前にこんなことを書いていたと聞きました。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、富裕な、何かが残るだけだ、と。その言葉について、どう思いますか」
正人はしばらく黙った。
「・・三島氏の危機感は理解できます」と正人は言った。
「高度経済成長の中で、精神的なものが失われていくという感覚は、多くの人が持っている。ただ、それへの解決策として武装蜂起を選ぶことは、間違いだと思います」
「解決策として、ではなく・・その言葉自体について、どう思いますか。日本がそうなっている、という見立てについて」
正人はまた少し間を置いた。
「・・一定の正確さはあると思います」と正人は言った。
「経済成長の中で、国家としてのアイデンティティが希薄になっているという指摘は、傾聴に値します。ただ、それを嘆くだけでは前進しない。制度の中で、少しずつ改善していくことが・・」
「制度の中で」と美智子は繰り返した。
「そうです」
美智子はコーヒーを見た。
透き通ったコーヒーの表面に、喫茶店の天井の電灯が映っていた。
正人は間違っていない。
制度の中で、少しずつ。
それは正しい。
正しい方法だ。
正しい方向だ。
でも・・三島は「それでもいいのか」と問いたかったのだ。
制度の中で少しずつ変えていく人たちに向かって、「そちらの方が正しいとわかった上で」、それでもいいのか、と叫びたかったのだ。
その叫びに、正人は答えていない。
答えられない、のではないかもしれない。
ただ・・その問いが届いていないのかもしれない。
届いていない人間に、その叫びはどう響くのか。
美智子には、わからなかった。
「美智子さん」と正人は言った。
声のトーンが、少し変わった。
「最近、顔色が優れないように見えます。無理をしていませんか」
「大丈夫です」
「心配しています」
その言葉が、今日は静かに刺さった。
心配している。
本物の心配だ。
正人の心配に嘘はない。
でも・・三島への問いに答えないまま「心配しています」と言う、その移行の速さが、美智子には少し、怖かった。
問いが届いていない人間は、問いに向き合わずに、心配することへ移れる。
「ありがとうございます」と美智子は言った。
「また連絡します」
正人と別れた後、美智子は神田の書店街を歩いた。
十二月の入口の神田は、いつもの匂いがした。
古紙とインクと、少しの排気ガスと・・でも今日は、そこに何か別のものが混じっている気がした。
重さ、とでも言うべきか。
書店の棚に、三島の本が積んである。
「金閣寺」「潮騒」「豊饒の海」・・どれも、増刷されて平台に並んでいた。
文具店の横の雑誌スタンドで、美智子は足を止めた。
追悼号を出している雑誌が、何冊か並んでいた。
文芸誌、総合誌、週刊誌。
それぞれが特集を組んでいた。
一冊の総合誌が、目に入った。
「三島由紀夫・・遺された言葉」という特集タイトルが表紙にあった。
美智子はその雑誌を手に取って、店内のスタンドへ入った。
ページを開いた。
数ページの追悼文と、いくつかの写真の後に、三島本人の文章が再録されていた。
見出しは「私の中の二十五年」とあった。
美智子はその文章を、立ったまま読み始めた。
最初は流し読みだった。
でも数行進んだところで、手が止まった。
・・日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
それでいいのか、それでいいのか、と僕は繰り返して諸君に問いたいのである。
美智子は読み返した。
もう一度、読み返した。
・・それでもいいと思っている人たちとは口をきく気にもなれないのである。
文章が、目から頭へ入ってきた。
でも、頭に届く前に、どこか別のところに引っかかった気がした。
胸の、少し下あたりに。そこで何かが止まって、じわりと広がっていった。
無機的な。
からっぽな。
ニュートラルな。
中間色の。
富裕な。
抜け目がない。
昨夜のテレビの中の弁護士の顔が、浮かんだ。
正人の顔が、浮かんだ。
霞ヶ関の最上階のフレンチレストランが、浮かんだ。
完璧なコンソメ。
完璧なカトラリー。
完璧なワイン。
完璧な説明。
完璧な「心配しています」。
そちらの人たちとは、三島は・・口をきく気にもなれない、と書いた。
美智子は、雑誌を持つ手が震えているのに気づいた。
三島の言う「日本がなくなる」という言い方には、賛同できない部分もある。
民族とか国家とか、そういう大きな言葉で美智子は燃えない。
でも・・「無機的な、からっぽな、ニュートラルな」という形容詞の一列が、胸の中に刺さって取れなかった。
その形容詞は、美智子が以前に感じた、正人への感覚と・・どこかで交差していた。
完璧すぎて、私が入る隙間がない。
正人の世界は、完璧だった。
でも・・完璧な世界は、「ニュートラルな、中間色の」世界に似ていないか。
誰も傷つかないように設計された世界は、誰の怒りも、誰の悲しみも、最終的に「制度の中で整理される」世界に似ていないか。
それが・・怖かった。
美智子は雑誌を閉じて、棚に戻した。
それから、もう一度取り出して、レジへ持っていった。
買った。
自分のお金で、三島の文章を買った。
喫茶「かぐら」には戻らなかった。
神田川沿いを少し歩いて、橋の上で足を止めた。
十二月の風が、川上から来る。
冷たかった。
川の水が、低い光を受けて光っている。
美智子は買ったばかりの雑誌を鞄の中に入れて、川を見た。
三島は死んだ。
思想のために死んだ・・あるいは、思想では届かないと絶望して死んだ・・男が、いる。
修平さんは、行けなかった。
竜介から断片的に聞いた情報だけで、美智子にはその詳細がわからない。
でも「護国義勇隊」という組織が三島と深く関わっていることは、新聞の記事からも読み取れた。
修平さんは、その近くにいた。
そして今、修平さんがどこにいるかを、美智子は知らない。
正人は、法治国家への暴挙と言った。
三島は、ニュートラルな経済大国になっていく日本に、口をきく気にもなれないと書いた。
修平は・・行けなかった、という何かを抱えている。
三者の言葉が、美智子の頭の中で、並んだ。
どれも正しい、とは言えない。
でも・・どれかが間違っているとも、言えない。
美智子には、どれも「血の温度が通っていない」ように見えた。
正人の言葉には、正義の温度がある。
でも人間の温度がない。
三島の言葉には、怒りの温度がある。
でも生きることの温度がない。
修平の沈黙には・・どんな温度があるのか、美智子にはまだわからなかった。
私が求めているのは、どちらでもない何かだ。
その感覚が、今日初めて、輪郭を持った。
それが何なのかは、まだわからない。
でも・・輪郭だけは、今夜、確かに見えた気がした。
正人の言葉の美しさでもなく、三島の言葉の激しさでもなく・・もっと具体的な、もっと地味な、今日の洗濯と明日のお金に近い、何かだ。
風が吹いた。神田川の水面が、揺れた。
美智子は橋を渡って、歩き出した。
夜、自室に戻った。
タイプライターの前に座った。
引き出しを開けた。
「憂」の活字と「己」の活字が、並んでいる。
手のひらに乗せると、冷たかった。
重かった。
でも、重さは確かにあった。
机の上に、今日買った雑誌を開いた。
「私の中の二十五年」をもう一度、読んだ。
今度は、立ち読みの時より、ゆっくりと。
それでもいいと思っている人たちとは口をきく気にもなれないのである・・という一行のところで、また、手が止まった。
美智子は窓の外を見た。十二月の夜の空は、澄んでいた。
星がいくつか見える。
万博の熱狂が去り、光化学スモッグが消え、街の明かりが少し静かになった空だ。
三島は、この空を見て、何を思っていたのだろう。
日本がなくなっても、空はある。
川はある。
米はある。
今日の洗濯があって、明日のお金がある・・そういう具体的な暮らしは、「無機的な経済大国」になっても残る。
三島は、その具体的な暮らしのことを、どう思っていたのだろう。
わからない。
読んでもわからなかった。
三島は大きな言葉の人で、美智子が信じているものとは、触れ合う部分が少ない。
でも・・「それでいいのか」という問いかけだけは、届いた。
正論で断罪して、制度の中で整理して、それでいいのか。
大きな言葉に殉じることが出来なかった者が、それでもこの地上に残って、何かを続けていくとき・・「それでいいのか」という問いを、自分の中に持ち続けることだけが、生き残った者の誠実さかもしれない、と美智子は思った。
活字盤を引き出した。
一文字、触れた。
カチ、と音がした。
それから、また一文字。
今日書けることは、まだ形にならない。
でも・・打ち始めた手は止めなかった。
打ちながら考える。
考えながら打つ。
竜介はいつもそうしていた、と美智子は思った。
書けないことが形になるまで、書き続ける。
それが竜介の流儀だった。
今夜の美智子は、竜介の流儀を、自分の指先で試していた。
カチ、カチ、カチ。
窓の外、神田の夜が静かに続いていた。
三島は死んだ。
正人は正論を語り続ける。
修平はどこかに、沈黙している。
竜介は今夜も、咳をしながら書いているだろう。
そして美智子は、ここにいる。
それぞれの場所で、それぞれの言葉を持って・・あるいは持てないまま・・今夜を生きている。
それだけが、今夜の事実だった。
それだけのことが、今夜の美智子には、一番重く、一番正直な手触りだった。
活字の音が、静かな部屋に響いて、消えていった。




