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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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第二十二話 暗転、崩れ落ちた記者

 十二月の最初の週、竜介は三島事件の連載を書き続けた。


 三島由紀夫割腹自決から十二日間。

 神奈川政経新聞の三島関連記事は、今日で八本目になる。

 一面の速報から始まり、現場証言の整理、識者インタビューの起こし、「三島思想と戦後日本」という特集の第一稿・・どれも竜介が書いた。

 書いた、と言えば聞こえはいいが、正確には「書き続けた」だった。

 昼も夜も、原稿用紙に向かって、ペンを走らせ続けた。


 腹の奥の痛みは、十一月の終わりから変わっていた。

 以前は鈍かった。

 重くて、じわりとした痛みが、奥の方から来ていた。

 今は違う。

 熱い。

 焼けるような、あるいは引き裂かれるような、前とは質の違う痛みが、日に数回来るようになっていた。

 痛み止めを飲む。

 飲めば少し遠ざかる。

 また書く。

 また痛みが来る。

 その繰り返しだった。


 鬼塚デスクは十一月末に「来週、必ず病院に行け。今度は命令じゃない、お願いだ」と言った。

 珍しいことだった。

 鬼塚がお願いをする男ではない。

 竜介はわかりました、と答えた。

 でも、三島事件の連載が続く限り、病院に行く隙は生まれなかった。

 いや・・正確には、行かなかった。

 行けば何かがわかる。

 わかれば、ペンを止めなければならない理由が生まれる。

 そのことを、竜介は半分、意識していた。

 だから行かなかった。

 書けるうちは書く。

 倒れるまで書く。

 それが「ペンで天下を獲る」の意味だと、竜介はずっと信じてきた。


 でも今の竜介には・・「ペンで天下を獲る」という言葉が、あの夜から、少し形を変えていた。

 書けることと、書けないことがある。

 書けないことを知った上で、それでも書ける場所に向かってペンを持つ。

 それが今の竜介の「書く」ということだった。

 修平の話は書かなかった。

 でも、三島の話は書いた。

 書くべきことを、書き続けた。

 十二月七日の午後、竜介は八本目の原稿を書き終えた。


 その原稿は、今までで一番難しかった。

 三島が死ぬ前年に書いた「私の中の二十五年」という文章の引用を軸に、「三島の予言と、現代日本の行方」というテーマで書いた。

 三千五百字。

 書きながら、何度も手が止まった。


 三島の言葉は、正確だった。

「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」・・この一文を引用するたびに、竜介は胸の奥で何かが焼けるような感覚を覚えた。

 それは腹の痛みとは違う場所だった。

 痛みと呼ぶには、あまりにも言葉的な感覚だった。

 三島が「見えていた」と言い残したものが、竜介にも見え始めていた。

 ペンを持って取材を続けてきた記者の目には、確かに見え始めていた。

 でも竜介には、三島のように死ぬことはできない。

 竜介には、生きてペンを持ち続けることしかできない。

 書くことで抵抗する。

 それが竜介の戦い方だった。


 三千五百字を書き終えて、竜介は原稿用紙を揃えた。

 ペンを置いた。

 椅子から立ち上がった。

 少し、めまいがした。

 でも、いつものことだった。

 立ち上がるたびに、ここ数日はめまいがある。

 一呼吸置けば収まる。

 竜介は一呼吸置いた。


 原稿を手に持って、デスクの鬼塚のところへ向かった。

 編集室は夕方の忙しさで騒がしかった。

 明日の朝刊の締め切りが近い。

 電話が鳴っている。

 誰かが怒鳴っている。

 輪転機の音が、三階の床を通して伝わってくる。

 いつもの、この音だ。

 この音の中で竜介はずっと書いてきた。

 この音が止まることはない。

 今夜も明日も、明後日も・・この音は回り続ける。


「鬼塚さん」と竜介は言って、原稿を差し出した。

 鬼塚が受け取った。

「三島の最後の稿か」

「はい。三千五百字、多少削っていただいて構いません」

 鬼塚はページをめくりながら、少し黙った。

 それから「お前、顔色が・・」と言いかけた。

 その瞬間。


 竜介は、自分の身体の中で何かが断ち切れる感覚を覚えた。

 断ち切れる、というより・・糸が、ぷつ、と切れた、という感じ。

 腹の奥の、いつも痛みがあった場所から、急に熱いものが込み上げてきた。

 胸のあたりまで上がってきた。

 止められなかった。

 口を押さえようとした手が、間に合わなかった。

 血が出た。


 量が、おかしかった。

 こんなに、と思う間もなく、次の波が来た。

 膝が折れた。

 床が近づいてくるのが見えた。

 手が床についた。

 冷たかった。

「津島!」

 鬼塚の声が、遠かった。

 編集室の音が、急に遠ざかった。

 輪転機の音だけが・・低く、規則的に、遠くで回り続けていた。

 それだけが、一定だった。

 竜介の耳の中で、その音だけが止まらなかった。


 だれかが竜介の名前を呼んでいる。

「津島! 誰か! 救急車! 電話!」

 鬼塚の声が、もっと遠くなった。

 床が、冷たかった。

 手のひらに、床の継ぎ目の感触がある。

 タイルの、つるりとした冷たさ。

 それだけが、今の竜介に確かな感触だった。

 原稿は・・、と思った。

 鬼塚に渡した。

 渡したはずだ。

 書き終えた。

 それだけが、確かだった。

 書き終えた。

 それだけを確かめるように、竜介は静かに目を閉じた。


 白い天井を見た。

 自分が病院にいることが、匂いでわかった。

 消毒薬と、洗い立ての白い布の匂いが、鼻の奥に届いた。

 左腕に、何かが刺さっている。

 点滴の針だ、とわかった。

 喉が渇いていた。

 動こうとして、動けないことに気づいた。

 身体が、重かった。

 これまでの疲れが一気に来たような、鉛を詰められたような重さだった。

 でも痛みは・・今は、遠い。

 薬で抑えられているのかもしれない。


「津島」

 鬼塚の声がした。

 横を向くと、鬼塚がベッドの脇の椅子に座っていた。

 コートを着たままで、タバコを持っていた。

 病院の中だから火はつけていない。

 ただ、指に挟んで、持っている。

「・・鬼塚さん」と竜介は言った。

 声が、掠れていた。

「馬鹿め」と鬼塚は言った。

 声に怒りがあった。

 でも怒りの下に、何か別のものがあった。


「病院に行けと何度言ったと思ってるんだ」

「すみません」

「謝るな」

 鬼塚はタバコを指で回した。

「謝ってる場合じゃない。医者に聞いたら、今夜は検査できないから明日やると言っていた。何の検査かは教えてくれなかった。ただ・・」

 鬼塚は少し言いかけて、止まった。

「ただ、何ですか」

「顔色が」と鬼塚は言った。

「医者の顔色が、あまりよくなかった。それだけだ」


 竜介は天井を見た。

 白かった。

「原稿は」と竜介は聞いた。

「読んだ」

 鬼塚の声が、少し変わった。

「いい原稿だ。明後日の朝刊に出す。三島の最後の一文・・お前が引用したあの文章は、一番いい場所に置いた」

「それだけで充分です」

「充分じゃない。お前が書き続けることの方が充分だ」


 竜介は何も言わなかった。

 鬼塚も何も言わなかった。

 二人は、しばらくそのままでいた。

 病院の廊下から、低い足音が遠く聞こえた。

「今夜、ここにいてください」と竜介は言った。

「一人は・・少し、怖い」

 鬼塚は何も言わなかった。

 ただ、椅子を少し引き寄せて、そのまま座り続けた。

 それで充分だった。


 鬼塚が帰ったのは、夜の九時を過ぎたころだった。

「明日の朝刊が出てから来る」と言った。

「出るまでは俺の仕事が終わらない。お前の原稿が一面に出るまでは、お前の代わりに俺が起きてる」

 竜介は頷いた。

「悪かった」と鬼塚は言った。

 珍しいことだった。

「何を」

「お前の身体のことを、もっと早く・・」

「鬼塚さんのせいじゃありません」と竜介は言った。

「俺が書きたくて書いていたんです。俺が行かなかったんです」

 鬼塚は少し間を置いた。

 それからコートの衿を立て直して「馬鹿め」と小さく言って、出ていった。

 ドアが閉まった。


 一人になった。

 天井が、白かった。

 竜介は目を閉じた。

 眠れなかった。

 腹の奥の痛みが、薬で抑えられていても、気配として残っている。

 熱いものが身体の中にあって、それが自分の体内にある異物のように感じられる。


 ペンが、ない。

 それが、今夜の竜介には一番、よくわからないことだった。

 ペンがない状態で、ここにいる。

 書けない状態で、ここにいる。

 何かを書かなければ、今夜の意味が定まらない気がした。

 でも腕が動かない。

 指が動かない。

 ただ、天井を見ている。


 書けることと書けないことがある・・あの夜に思ったことが、今夜は別の意味になった。

 書けないことがある、ではなく、書けない状態がある。

 書くための身体が、今夜はここにない。

 それが、怖かった。

 ペンを持てない夜が・・これからも続くのだろうか、と竜介は思った。


 深夜、ドアを叩く音がした。

 力のない、小さな音だった。

 看護師ではない。

 看護師はもっとはっきり叩く。

「・・どうぞ」と竜介は言った。

 ドアが開いた。

 修平が立っていた。


 くたびれた紺のコートだった。

 いつかSLを見に行った日と同じ、あの大学時代のコート。

 顔が青かった。

 目の下が落ちていた。

 手に、紙袋を持っていた。

「来たのか」と竜介は言った。

「・・ああ」と修平は言った。

「鬼塚という人から電話があった。お前が倒れたと」

「鬼塚さんが」

「もっと心配することがあるだろう、って感じの言い方だったけどな」

 それが鬼塚らしかった、と竜介は思った。


 修平は部屋に入ってきた。

 ドアを閉めた。

 ベッドの脇の椅子に、ゆっくりと座った。

 紙袋を床に置いた。

 中から、みかんを一つ出した。

「病院に来るとき、何を持っていけばいいかわからなかった。みかんにした」

 竜介は少し笑いそうになった。

「病院の見舞いはみかんだ」

「それだけじゃなくて・・お前が甘いものを嫌いじゃないと思ったから」

「嫌いじゃない」

「よかった」

 修平はみかんを竜介の枕元に置いた。

 二人は少し黙った。


 病室の窓から、十二月の夜の空が見えた。

 星は出ていなかった。

 低い雲が、横浜の夜の光を受けて、薄橙色に光っていた。

 澄んだ空ではなかった。

 でも、暗くもなかった。

 ただ、低く、重たげに、空がそこにあった。


「痛むか」と修平は聞いた。

「今は、ない。薬が効いてる」

「そうか」

「お前は」と竜介は言った。

「どうしてる」

 修平は少し間を置いた。

「・・毎日、アパートにいる。ラジオを聞いて、飯を食って、寝てる。それだけだ」

「三島の追悼記事は読んだか」

「読んだ。お前のやつ、昨日の朝刊に出てた」

「明後日の朝刊にも、出る」

「そうか」

 修平は窓を見た。

「お前が書いたのはわかる。字を見なくてもわかる。あの文体は、お前だ」

「わかるか」

「わかる。数字の後ろに、顔がある」

 修平は低く言った。

「先生の顔も、ちゃんと後ろにある」


 竜介は天井を見た。

 三島の「私の中の二十五年」の引用を書いたとき、竜介は三島を思った。

 あの本を書いた男の顔。

 怒りを文学にした男の顔。

 死を以て問いを残した男の顔。

 その顔を、活字の後ろに置いた。

 修平には、それが見えていた。


「修平」と竜介は言った。

「なんだ」

「先生の死を・・お前は、今、どう思ってる」

 長い沈黙があった。

 窓の外の雲が、少し動いた。

 橙色の光が、揺れるように変わった。

「・・正しかったと思う」と修平は言った。

 ゆっくりと、一言ずつ確かめるように。

「先生は、自分の言葉に殉じた。それは・・正しい生き方だったと思う。俺には、できなかったけど」

「できなかったことと、正しくないことは、違う」

「わかってる」修平は言った。

「でも・・俺の中では、まだ繋がってる。できなかった俺は、正しくなかったんじゃないか、という考えが、まだそこにある。理屈ではわかってる。でも、胸の中では・・まだ繋がってる」


 竜介は何も言えなかった。

「お前が倒れたって聞いたとき」と修平は続けた。

 声が、少し変わった。

「最初に思ったのは・・なんで、という気持ちだった。なんで、お前なんだ、という」

「そうか」

「お前は、ペンで生きてきた。ペンで戦ってきた。それを続ける身体が、なぜ先に・・という気持ちが、まず来た。それから・・」


 修平は少し止まった。

「それから・・お前が倒れるのと、俺が・・どっちが先なんだろうな、と思った」

 竜介は修平を見た。

「俺が行けなかったこと」と修平は続けた。

「俺が今日も生きていること。先生は死んで、俺は生きていること。その意味が、まだわからないでいる。答えが出ないまま、毎日アパートにいる。そこへ・・お前が倒れたという電話が来た。お前も、身体が先に・・そういう可能性が出てきた」

「可能性だ。まだ何もわかっていない」

「そうだな」

 修平は頷いた。

「でも・・お前が倒れるのと、俺が・・どっちが先なんだろうな、と思ったとき、俺は初めて泣きそうになった。先生が死んだ日も、泣かなかった。あの日、アパートでラジオを聞いていて、泣かなかった。でも今日、お前の話を聞いて・・」

 修平の声が、止まった。

 竜介は何も言わなかった。

 窓の外、低い雲が流れていた。

 橙色の光が、ゆっくりと変わっていった。


「手を」と竜介は言った。

「え」

「俺の手を、持ってくれ」

 修平は少し黙った。

 それから、ベッドの脇に膝をついて、竜介の左手を両手で包んだ。

 点滴の針が入っている、左の手。

 手が、温かかった。

 修平の手は、竜介より大きかった。

 大学のころからそうだった。

 剣道で鍛えた、固い手だった。

 その手が、今夜は「命を捨てる覚悟だ」と言い続けてきた男の手ではなく、ただの二十三歳の男の、温かい手だった。


「お前は」と竜介は言った。

「これからどうするんだ」

「わからない」

「先生の言葉が背骨だったなら・・その背骨が折れた今、お前は何で立つ」

「まだわからない」修平は頷いた。

「でも・・お前がいる限り、答えを探すことができる気がする。お前に言える言葉がある限り、俺にはまだ言葉がある。そういうことだと思ってる」

 竜介は目を閉じた。

「俺は書く」と竜介は言った。

「身体が動く限り、書く。書けない日が来ても・・書ける日を探して、書く」

「ああ」

「お前は生きろ」と竜介は言った。

「先生の言葉の代わりになるものを、探しながら、生きろ。それしか言えない」

「それだけで充分だ」と修平は言った。


 二人はしばらく、その姿勢のままでいた。

 竜介の手を、修平が持っている。

 病室の窓の外に、低い雲がある。

 橙色の光が、横浜の夜を薄く照らしている。

 輪転機の音は、もうここからは聞こえない。

 でも・・どこかの印刷工場で、誰かの活字が今夜も組まれているはずだ、と竜介は思った。

 活字は、続く。

 紙は、続く。

 言葉は・・言葉を持つ人間が生きている限り、続く。


「修平」と竜介は言った。

「なんだ」

「みかん、食えるか。一人で食べるのは・・今夜は、無理そうだから」

 修平は少し笑った。

 力のない笑いではなかった。

 本物の笑いだった。

「剥いてやる」と修平は言って、みかんを取った。


 みかんを剥く音が、静かな病室に落ちた。

 甘い香りが、消毒薬の匂いの中に、広がった。

 竜介はその香りを吸い込んだ。

 目を閉じたまま、吸い込んだ。

 北陸の実家には、秋になるとみかんが届いた。

 母が毎年、送ってくれた。

「体に気をつけて」という手紙と一緒に。

 竜介はいつも受け取って、台所の隅に置いて、忘れて、気づいたら萎んでいた。

 今夜の修平のみかんは・・萎ませない、と竜介は思った。

 甘い香りが、病室に満ちた。

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