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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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23/30

第二十三話 ステルス性胃がんの宣告

 検査が終わったのは、十二月十一日の午前中だった。


 入院から四日目。

 バリウムの検査と、腹腔の触診と、何本かの採血と、何枚かのレントゲン・・竜介は白い病院着を着て、医師と技師に言われるままに移動し、横になり、息を止め、また息をした。

 検査の間中、竜介はペンのことを考えていた。

 鬼塚への電話で「今日の朝刊に出た三島の記事、評判はどうですか」と聞いた。

 鬼塚は「いい反響だ。続報を待っている読者が多い」と答えた。

「続報は・・」と竜介は言いかけて、鬼塚に「お前は今は検査に集中しろ」と遮られた。

 続報は誰が書くのか、という問いは、鬼塚の声の向こうに消えた。


 検査を終えて病室に戻り、一時間ほど待った後、看護婦が「先生がお話があるとおっしゃっています」と言いに来た。

 竜介は起き上がった。

 点滴がまだついていた。

 看護婦が「車椅子で」と言った。

「歩けます」と竜介は答えた。

 看護婦は竜介の顔を一秒見て、「では、ゆっくりどうぞ」と言って点滴のポールを持って歩いた。


 廊下を歩いた。

 白かった。

 消毒薬の匂いがした。

 どこかから、嗚咽に似た声が聞こえた。

 誰かの病室から、どこかの誰かの声が、白い廊下に漏れていた。

 竜介はそれを聞きながら歩いた。

 医師の部屋のドアを、看護婦が叩いた。

「どうぞ」という声がした。


 医師は五十代の男だった。

 白衣の胸ポケットに万年筆が挿してある。

 メモを挟んだクリップボードを持っていた。

 眼鏡の奥の目が、静かだった。

 怒っていない。

 苛立ってもいない。

 ただ、静かだった。


 竜介は椅子に座った。

 点滴のポールを脇に立てた。

 医師は少し間を置いてから、話し始めた。

「検査の結果についてお話しします」と医師は言った。

「率直に申し上げます」

 竜介は頷いた。

「胃がんです」


 ことん、という音がした気がした。

 頭の中で、小さな音がした。

「ステルス性の、進行したものです。いわゆる、症状が出にくい種類でして・・早期発見が非常に難しい。腹膜への転移が認められています」

 腹膜への転移。

「手術については・・残念ながら、適応が難しい状況です。転移の範囲からして、切除しても根本的な解決にはなりません。抗がん剤を用いた治療で、進行を遅らせることは可能ですが・・」

 医師は少し間を置いた。


「完治は、難しい」

 完治は、難しい。

 竜介は医師の顔を見ていた。

 医師は竜介から目をそらさなかった。

 逃げていない目だった。

 この人はこういう話を、何度もしてきたのだろう、と竜介は思った。

「完治は難しい」と言い続けてきた目だ。

 その静かさが、今の竜介には・・奇妙に、正直だった。


「余命については」と医師は続けた。

「現時点での見通しとして、数ヶ月から、うまくいけば一年弱です。治療の経過によって変わります。ただ・・」

「わかりました」と竜介は言った。

 医師が止まった。

「続きは、後で聞きます」と竜介は言った。

「今は・・少し、頭の中を整理したいので」

 医師は頷いた。

「わかりました。いつでも聞いてください。担当の看護婦から声をかけてもらえれば、時間を作ります」

 竜介は立ち上がった。

 点滴のポールを持った。

 ドアを開けた。

 廊下へ出た。

 白かった。

 長かった。

 竜介はしばらく、廊下の真ん中に立っていた。

 どこかの病室から、また声が聞こえた。

 今度は笑い声だった。

 誰かが面会に来ていて、明るい声で話している。

 その声が、白い廊下に溶けていく。


 竜介は病室へ向かって歩き始めた。

 腹の奥に、熱い痛みがある。

 これが、がんだ、と竜介は思った。

 これが、腹の中にある敵だ。

 何ヶ月もの間、ここにあって、ここから攻めてきていた。

 川崎の子供たちの身体を壊していた工場の排水みたいに・・見えないところから、見えないものが、確実に浸食してきていた。

 でも今日、それに名前がついた。

 がん。


 名前がついた、ということは・・それについて、書ける、とも言える。

 竜介はそんなことを考えながら、病室へのドアを開けた。

 自分の病気について書く記者を、どこかで読んだことがある。

 俺にもできるかもしれない、と思った。

 でも・・

 ベッドに腰を下ろした瞬間、その考えが遠ざかった。

 代わりに、何かが・・来た。


 泣いていた。

 気づいたときには、もう泣いていた。

 号泣ではなかった。

 声も出なかった。

 ただ、目から液体が出ていた。

 止められなかった。

 止めようとしたら、余計に出てきた。

 竜介は病室の白い天井を見て、泣いていた。

「ペンで天下を獲る」と言い続けてきた。

 言葉で時代と戦うと、信じてきた。

 川崎の子供の顔を、活字の後ろに置いてきた。

 三島の言葉を引用して、時代の終わりを書いてきた。

 書けないことを知りながら、書ける場所へ向かってペンを持ってきた。

 でも・・全部、終わるのか。

 数ヶ月で、全部、終わるのか。


 書き続けていたのに。まだ書けることが、山ほどあるのに。

 川崎の続報がある。

 三島事件の後続がある。

 修平のことを書かない代わりに、別の言葉で書けることがある。

 書けることが、まだここにある・・のに。

「俺の人生は」と竜介は言った。

 誰もいない病室で、声に出した。

「幻だったのか」

 声が、白い天井に届いて、消えた。


 幻、という言葉が、自分の口から出たことに、竜介は少し驚いた。

「幻」は・・三島の言葉に似ていた。

 三島は「ニュートラルな、からっぽな日本」を嘆いた。

 竜介の人生は、そのからっぽな日本で、インクで汚れた手でペンを走らせてきた。

 それが・・からっぽだったのか。

 違う、と思う自分がいた。

 でも、肯定できる言葉が、今夜はなかった。

 天井の白さが、しばらく続いた。

 泣きながら、竜介は窓の外を見た。

 十二月の横浜の空は、青かった。

 雲一つない、澄んだ青だった。

 その青の中に・・何もなかった。

 それが今日は、余計に、遠かった。


 鬼塚が夕方に来た。

 顔を見て、すべてを察した、というような顔をした。

 何も言わずに椅子を引いて、竜介のベッドの脇に座った。

「どうだった」と鬼塚は聞いた。

「がんです」と竜介は言った。

「腹膜転移があって、手術はできない。余命は数ヶ月から、うまくいけば一年弱」

 鬼塚は黙っていた。

 長い沈黙だった。

 病院の廊下の足音が聞こえた。

 点滴の機械が、低く音を立てた。

 鬼塚はコートの衿を握って、それだけをしていた。


「馬鹿め」と鬼塚は最終的に言った。

「はい」

「本当に馬鹿め」もう一度言った。

 声が、いつもより低かった。

「もっと早く病院に行っていたら・・」

「それは」と竜介は言った。

「後悔しないことにしました。もう遅い。後悔する時間があったら、書く時間に使いたい」

「書く気か。まだ」

「書ける限り、書きます。鬼塚さんさえよければ」

 鬼塚は少し間を置いた。


「・・馬鹿なやつだ、お前は」

「ええ」

「それでいい」と鬼塚は言った。

「書け。書けるうちは書け。書けなくなったときは・・俺に言え。お前の代わりに、俺が怒鳴ってやる」

 竜介は少し笑った。

 今日、病院の中で初めて笑った気がした。

「鬼塚さんは、いつも怒鳴っているじゃないですか」

「今まで以上に怒鳴ってやると言ってるんだ」

「ありがとうございます」

 鬼塚は立ち上がった。

 帰り際に「親には言うのか」と聞いた。

「・・まだ、考えています」

「親には言え。早い方がいい。あとで後悔する」

 竜介は頷いた。


 鬼塚が出ていった後、竜介はまた窓の外を見た。

 夕暮れが始まっていた。

 青だった空が、橙色に変わっていく。

 横浜の、十二月の夕空だ。

 親には言え。

 北陸の実家に、電話しなければならない。

「体に気をつけて」と書き続けてくれた、母の手紙のことを竜介は思った。

 今夜はまだ、電話できない。

 一日だけ、待ってください、と竜介は・・誰に言うわけでもなく、思った。


 翌朝、病室のドアを、遠慮がちに叩く音がした。

 竜介は「はい」と言った。

 ドアが開いた。

 立っていたのは、見覚えのある顔だった・・でも、こんなところに来るはずのない顔だった。

 泥のついた防寒着を着ていた。

 長靴を履いたまま、廊下の前で立っていた。

 手に、風呂敷包みを持っていた。

 父だった。


 津島隆一、五十七歳。

 北陸の漁村の出身で、現在は金沢の郊外で野菜を作っている。

 背が竜介より少し低い。

 日焼けした顔で、目が細い。

 眉が太い。

 竜介が小学生のころから、ずっと同じ顔をしている。


「父さん」と竜介は言った。

「来た」と父は言った。

 それだけだった。

「どうして」

「知らせが来た」

「知らせ?」

「鬼塚とかいう人から。仕事が終わったら来いと言われた」

 鬼塚が電話をしていた、と竜介は思った。

「汚い格好で来てしまった。着替える時間がなかった」と父は言った。

 長靴の泥を見て、少し困ったような顔をした。

「廊下が汚れた。すまなかった」

「いいです、そんなこと」

「でも汚れた」と父は言った。

「看護婦さんに拭いてもらった。申し訳なかった」

 それだけ言って、父は部屋に入ってきた。


 椅子に座った。

 風呂敷包みを床に置いた。

 それから、竜介の右手を、両手で包んだ。

 何も言わなかった。

 竜介は父の手を見た。

 黒かった。

 指の関節のひだに、土が入り込んでいた。

 手洗いで落とし切れない、土の黒さだった。

 年中、土を触っていた手の黒さ。

 農作業で鍛えた、太い指の黒さ。

 ひどくひび割れていた。

 この季節の北陸の風に、何十年もさらされてきた手だ。

 でも・・温かかった。


 竜介が覚えている限り、父の手はいつも温かかった。

 小学生のころ、熱を出したときに額に当ててくれた手も、こんなに黒くて、こんなに温かかった。

 何も言わない。

 竜介が「父さん」と言っても、父は何も言わなかった。

 ただ、手を握ったままでいた。

「検査の結果が・・」と竜介は言いかけた。

「わかってる」と父は言った。

「鬼塚さんから聞いた。手術ができないと」

「そうです」

「そうか」

「怒りましたか」

「なんで俺が怒るんだ」

「もっと早く病院に行くべきでした」

「そうだな」と父は言った。

「でも・・お前は、そういう男だった。小さいころから、転んでも泣かないで、立って歩いていくような男だった。病院に行かなかったのも、そういうことだったんだろう」


 竜介は何も言えなかった。

「怒らない」と父は言った。

「怒ったって、何も変わらない」

 また、沈黙があった。

 父の手が、温かかった。

「父さん」と竜介は言った。声が、少し割れた。

「俺は・・」

「いい」と父は言った。

 静かに、でも確かに。

「何も言わなくていい。俺はここにいる」

 竜介は目を閉じた。

 父の手の温かさだけが、今の竜介に、確かなものだった。

 インクで汚れた手でも、病院着の白い布でも、点滴の針でも、三千字の原稿でもない。

 土で黒くなった、この温かい手が・・今日の竜介に、一番届いた。


 美智子が病院を訪ねたのは、翌日の午後だった。

 鬼塚に電話をかけた。

「津島さんのことを聞きました。会いに行ってもいいですか」と言ったら、鬼塚は「お前さんなら、来てもいいと思う」と言った。

 病室のドアを叩いた。

「どうぞ」という竜介の声がした。

 ドアを開けた。

 部屋に、三人いた。

 竜介がベッドにいた。

 父らしい人が椅子に座っていた。

 そして・・廊下側の窓のところに、修平が立っていた。

 美智子は一瞬、戸惑って立ち止まった。


「美智子か」と竜介は言った。

「来てくれたのか」

「連絡をいただいて・・失礼します」

 美智子は部屋に入った。

 竜介の父が立ち上がろうとした。

 美智子は「どうぞ、そのままで」と言った。

 父は頷いて、また椅子に座った。


 その、椅子に座った父の手が・・目に入った。

 両手を膝に置いていた。

 日焼けした、土の色が染み込んだ、黒い手だった。

 太い指が、膝の上で静かに揃っていた。

 特別なことは何もしていない。

 ただ、そこにある手だった。

 でも・・その手が、美智子にはひどく正直なものに見えた。

 この手で、土を耕してきた。

 この手で、野菜を育ててきた。

 この手で、息子の額の熱を測ってきた。

 何十年も、ただそれだけを続けてきた手の黒さと温かさが・・そのまま、そこにあった。


 美智子は窓の方を見た。

 修平が、窓の外の空を見ていた。

 外は、十二月の青い空だった。

 修平の横顔は、静かだった。

 怒っていない。

 悲しんでいるとも言い切れない。

 ただ・・空を見ている。

 三島由紀夫の死を知って、「行けなかった」と語った男が、「死ぬしかない男」の窓の外から、同じ空を見ている。


 父の黒い手。

 修平の横顔。

 竜介のベッド。

 三つが、同じ部屋に、今日の午後の光の中に、あった。

 美智子はその三つを見て・・何かが、胸の中で定まった気がした。

 定まった、というより・・見えた、という感じだった。

 ずっと霧の中にあったものが、今日、この部屋の中で、初めて輪郭を持った。


 大きな言葉のために死ねなかった男と、大きな言葉のために書いてきた男が、同じ死の気配の近くにいる。

 その二人の間に・・土で黒くなった父の手がある。

 どんな言葉も持っていない。

 国家も思想も持っていない。

 ただ、息子の近くに来て、手を握っているだけの、その手がある。

 どれが正しいか、ではない。

 でも・・今、美智子の目に、一番重く映っているものが、どれか、はわかった。


 夕方、父が帰ることになった。

「明日、また来る」と父は言った。

「今日は宿を取っていないから」

「父さん、無理しないでください」と竜介は言った。

「お前が言うな」と父はきっぱり言った。

「お前こそ、無理するな」

 父は風呂敷包みを竜介の枕元に置いた。

「母からだ。何が入っているかは知らない」


 包みの中から、後で確かめると、麦茶のパックと、小さな味噌の缶と、干し柿が三つ入っていた。

 父は帰り際に、また竜介の手を握った。

 一度、ぎゅっと、強く握った。

 それだけだった。

 何も言わなかった。

 ドアが閉まった。

 修平も「俺も帰る」と言った。

「また来てくれるか」と竜介は聞いた。

「来る」と修平は即座に言った。

「毎日でも来る。来ていいなら」

「来い」


 修平が出ていく前に、窓の外を一度見た。

「竜介」と修平は言った。

「なんだ」

「さっき、外を見てた。空が・・青かった。こんな青い空、久しく見ていなかった気がした」

「そうか」

「三島先生が訴えていたものが、俺にはまだ全部わかっていない」と修平は言った。

「でも・・今日、お前の親父さんの手を見たとき、何かわかった気がした。うまく言えないけど」

 竜介は黙っていた。

「また来る」と修平は言って、出ていった。


 美智子は、一人残って、竜介の枕元の椅子に座っていた。

 竜介は天井を見ていた。

 今日は、朝ほど泣きそうではなかった。

 父が来て、修平が来て、美智子が来て・・一人ではなかった、ということが、何かを変えていた。

「美智子」と竜介は言った。

「はい」

「父さんの手、見たか」

「見ました」

「黒いだろう」

「ええ」

「俺の手は」と竜介は自分の手を見た。

 点滴の針が刺さっている、白い手だった。

「インクで汚れた手だ。父さんの手ほど、黒くない」

「あなたの手は、あなたの手です」と美智子は言った。

「お父さんの手は、お父さんの手です。同じ黒さじゃなくていい」

 竜介は少し間を置いた。

「そうか」

「インクの黒さには・・インクの黒さの重さがあります」


 竜介は窓を見た。

 修平が見ていた空は、今は夕暮れに変わっていた。

 橙色と、暗い青が混ざった、十二月の横浜の空だ。

「美智子」と竜介は言った。

「俺の人生は幻じゃないか、と今日の朝、思った」

「思いましたか」

「思った。書いてきたことが、全部、幻のような気がした」

 美智子は少し間を置いた。

「今も、そう思いますか」

 竜介はしばらく黙った。


「・・今は、少し、違う」と竜介は言った。

「父さんが来て・・手を握ってくれて。それだけで、少し違った。幻じゃないかもしれない、という気がしてきた。なぜかはわからないが」

「お父さんの手が、何かを伝えてくれたんだと思います」と美智子は言った。

 静かに、でも確かに。

「そうかもしれない」と竜介は言った。

「言葉じゃない何かを」


 二人はしばらく、黙っていた。

 病室の窓の外、十二月の夕空が、ゆっくりと暗くなっていった。

 枕元の風呂敷包みの中に、北陸の味噌の缶が入っていた。

 竜介はそのことを、まだ知らなかった。

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