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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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24/30

第二十四話 味噌汁の温もり

 十二月の病室は、朝が遅い。

 窓の向こうが明るくなるのが、八時を過ぎてからだ。

 横浜の冬の朝は、低い雲に光が遮られて、なかなか明けない。


 竜介は暗い天井を見ながら、夜明け前から目を覚ましていることが続いていた。

 痛みで目が覚めるのではない。

 ただ、眠れない。

 頭の中が、止まらない。

 抗がん剤の点滴が始まって、一週間が経った。

 副作用が、昨日から出てきた。

 吐き気が続く。

 食欲がない。

 病院の食事を半分以上残している。

 身体が、重かった。

 鉛のような重さではなく、綿のような・・力を入れる場所が、どこにもない、という重さだった。


 竜介はその朝、枕元に積んでいた自分の記事を読んでいた。

 鬼塚が「お前の仕事を見ておけ」と持ってきた、切り抜きの束だ。

 川崎公害の一連の記事。

 三島事件の速報と連載。

 その他、ここ半年で竜介が書いてきたもの。

 活字になって、切り抜かれて、束になっていた。


 川崎の記事を読んだ。

 あの取材をしたとき、竜介は肋骨が折れそうなくらい身体を酷使した。

 雨の中、工場裏で待ち伏せて、証言を取って、裏を取って、書いた。

 デスクの鬼塚と何度もやり取りして、一字一字を確かめながら書いた。

 記事は出た。

 反響もあった。

 社会が動いた、という手応えも、少しはあった。

 でも・・工場は、今も動いている。

 子供たちは、今年の夏も、マスクをしていた。


 美智子が「竜介の記事を読んで手が震えた」と言ったとき、竜介はその言葉を胸の奥にしまった。

 あれが全部だったのかもしれない。

 読んだ一人の、震えた一瞬。

 それが、自分の書いたものの全てかもしれない。

 でも・・それで、何が変わったか。

「俺の人生は」と竜介は言った。

 誰もいない、朝の病室の中で、声に出した。

「無駄だった」

 その言葉が、白い天井に向かって上がって、消えた。


 幻だったのか、と昨日も思った。

 今日は違う言葉が来た。

 幻ではなく・・無駄だった。

 夢でもなく・・無駄だった。

 現実としてあったことが、全部、何の役にも立たなかったのではないか、という感覚が、朝の病室に満ちた。

「ペンで天下を獲る」と言い続けてきた。

 でも天下は取れなかった。

 川崎の子供たちの未来は、まだ工場の煙の下にある。

 修平の「大きな言葉」は崩れ落ちた。

 三島は死んだ。

 竜介の「ペン」は、今、手の届かない枕元にある。


 書けなかった。

 書けなくなった。

 書きたかったことを、全部書けないまま・・余命は数ヶ月。

 数ヶ月で、終わる。

 無駄だった、という言葉が、涙になって出てきた。

 泣きながら、竜介は天井を見ていた。

 泣いているのかどうか、自分ではわからなかった。

 ただ、目の端から何かが流れていた。

 止めようとしなかった。

 止める気力が、今朝はなかった。


 ドアが静かに開いた。

 美智子だった。

 毎朝、こうして来てくれる。

 竜介が「来なくていい」と言っても、来た。

「鬼塚さんから、毎日来い、と言われています」と言って、来た。

 嘘だったかもしれない。

 でも竜介は追及しなかった。

 来てほしかった、ということに気づいていたから。


「おはようございます」と美智子は言った。

 竜介は天井を見たまま、「ああ」とだけ答えた。

 美智子はドアを閉めて、部屋に入ってきた。

 椅子をベッドの脇に引いて、座った。

 竜介の顔を見た。

「泣いていましたか」と美智子は聞いた。

「・・泣いてない」と竜介は言った。

 美智子は何も言わなかった。

「泣いてる」と竜介は言い直した。

「無駄だったと思ったら・・止まらなくなった」

「無駄だった」

「俺の人生が。書いてきたものが。川崎の記事が出て、三島の記事が出て、それで何が変わったか。工場は動いてる。子供たちはマスクをしてる。三島は死んだ。修平は廃人みたいになってる。俺は・・もう書けない」

 美智子は黙っていた。


「俺は幻を書いてきたんじゃないか」と竜介は続けた。

「活字になれば世界が変わると思ってた。ペンで天下を獲れると思ってた。でも・・全部、幻だった。無駄だった。俺の人生は・・」

「竜介さん」と美智子は言った。

 止めるために言ったのではなかった。

 ただ、名前を呼んだ。

「・・なんだ」

「少し待っていてください」


 美智子は立ち上がった。

 枕元の窓台を見た。

 父が置いていった風呂敷包みが、そこにある。

 中をそっと確かめた。

 竜介には見えない角度から、包みを開いた。

 干し柿。

 麦茶。

 そして・・缶の蓋に触れた。

 味噌だった。

 母から送られてきた、北陸の味噌だった。

 美智子は缶を手に取って、病室の隅にある流し台へ向かった。

 小さな、患者用の流し台だった。

 ガスコンロが一口ついている。

 それだけの設備だった。

 でも・・それで充分だった。

 美智子は鍋を出した。

 水を入れた。

 火にかけた。


 沸騰するのを、待った。

 その間、美智子はほとんど何も考えていなかった。

 竜介の「無駄だった」という言葉が、頭の中にあった。

 反論しようとは思わなかった。

「無駄じゃない」とも言えなかった。

 竜介が無駄だったと感じているとき、それを言葉で否定することは、竜介には届かない・・そういうことが、美智子にはわかっていた。

 届くものが、他にある。


 母の味噌缶を開けた。

 深い色だった。

 少し甘い匂いがした。

 北陸の冬の、発酵の匂いだった。

 竜介の母が漬けたものか、土地の店で買ったものかはわからない。

 でも・・確かな匂いがした。

 長い時間をかけて、誰かの手で作られた匂いだった。


 お湯が、沸いた。

 小さな鍋の中で、湯気が上がっている。

 美智子は味噌を溶いた。

 箸でゆっくりとかき混ぜた。

 味噌が、お湯の中に広がっていく。

 色が、変わった。

 白かったお湯が、少し茶色になった。

 甘い、発酵の匂いが・・広がった。

 病院の消毒薬の匂いを、上から覆った。

 竜介のいる場所まで、届いた。


 竜介は、鼻の奥に何かを感じた。

 最初は、夢の続きかと思った。

 半分眠っているような、意識の端で、何かが変わった。

 消毒薬の匂いが、少し遠くなった。

 その代わりに・・別の匂いが、近づいてきた。

 甘い。

 発酵の。

 米と、麹と、塩が長い時間をかけて変わっていく、あの匂い。

 実家の台所の匂いだった。

 北陸の、冬の台所。

 母がガスコンロの前に立って、毎朝、味噌汁を作っていた。

 その匂い。

 竜介が高校を出て上京した日から、ずっと嗅いでいなかった匂い。

 東京でも横浜でも、竜介の台所から出たことのなかった匂い。

 でも今、ここにある。

 病室に、ある。


 竜介は目を閉じた。

 涙が、また出てきた。

 さっきとは、違う泣き方だった。

 さっきは「無駄だった」という言葉から来ていた。

 でも今は・・言葉がなかった。

 ただ、匂いから来ていた。

 北陸の実家の、台所の、母の、味噌汁の、匂いから来ていた。

 美智子が、お椀を持って戻ってきた。

 湯気が出ていた。


「できました」と美智子は言った。

「具は入れられませんでした。味噌を溶いただけです。すみません」

「いい」と竜介は言った。

 美智子はお椀を竜介の両手に渡した。

 温かかった。

 お椀の熱さが、手のひらから伝わってきた。

 点滴の針が入っている左手にも、温かさが届いた。

 一口、飲んだ。

 何も、なかった。

 出汁もない。

 具もない。

 味噌を溶いた、ただのお湯だった。

 でも・・うまかった。


「・・うまい」と竜介は言った。

 声が、割れた。

 もう一口飲んで、竜介はまた泣いた。

 さっきとは全然違う泣き方で、泣いた。

「無駄だった」から来た涙ではなかった。

 何から来た涙なのか、竜介にはわからなかった。

 ただ、止まらなかった。

 お椀を持ったまま、泣いた。

 美智子はそれを見て、何も言わなかった。

 ただ、椅子を引き寄せて、竜介のベッドの脇に座った。


 しばらくして、竜介が少し落ち着いた。

 お椀の中の味噌汁は、まだ温かかった。

 もう一口飲んだ。

 また、うまかった。

「なぜうまいのか」と竜介は言った。

 誰に問いかけているわけでもなかった。

「出汁もない。具もない。ただの味噌のお湯なのに・・なぜ、こんなにうまいんだ」

 美智子は少し間を置いた。

「お母さんの味噌だからじゃないですか」と言った。

「お父さんが持ってきた味噌です」


 竜介はお椀を見た。

 父の手の黒さを思い出した。

 土が染み込んだ、太い指の。

「何も言わなくていい。俺はここにいる」と言った父。

 その父が持ってきた荷物の中に、この味噌があった。

 母が詰めた味噌が。

「俺の人生は無駄だったのか」と竜介は言った。

 もう一度。

 今度は問いかけとして言った。

「本当に、無駄だったのか」

 美智子はしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと言った。


「竜介さん」

「なんだ」

「大きな言葉なんていらないんだと思います」

 竜介は美智子を見た。

「世界を変えたかどうか。天下を獲れたかどうか。あなたの記事が、川崎を変えたかどうか・・そういうことを、今測ろうとしているんでしょう。でも・・」

 美智子はお椀を見た。

 湯気が、まだ細く上がっている。

「今日、この味噌汁がうまかったでしょう」

「・・うまかった」

「それだけが、今日の真実じゃないですか」

 竜介は黙った。


「私は・・ずっと、大きな言葉がわかりませんでした。国家も、思想も、ペンで天下を獲るという言葉も。でも、今日のこの味噌汁の温かさは・・わかります。あなたの手に伝わった温かさは、本物です。お父さんが持ってきた荷物の中に入っていた味噌が、今日あなたに届いた・・それは本物です」

 竜介はお椀を見た。

「大きな言葉なんていらない」と美智子は続けた。

「今日を生きる手触りだけが・・真実よ」

 その言葉が、静かに、落ちた。

 大きな音はしなかった。

 論争の決着のような、勝利の響きもなかった。

 ただ、静かに・・落ちた。


 竜介は目を閉じた。

 お椀の温かさが、手のひらにある。

 味噌の甘い匂いが、まだ病室に満ちている。

 消毒薬の匂いを、まだ覆っている。

「大きな言葉なんていらない」・・美智子の言葉が、頭の中で繰り返された。

 三島は大きな言葉のために死んだ。

 修平は大きな言葉のために「行けなかった」。

 正人は大きな言葉(法治国家)で世界を整理し続ける。

 そして竜介は「ペンで天下を獲る」という大きな言葉のために、身体を削って書いてきた。

 でも・・今日のうまさは、どの大きな言葉とも関係がなかった。

 お椀の温かさは、ただ、温かかった。

 それだけが、今日、竜介の手のひらにある事実だった。


「美智子」と竜介は言った。

「はい」

「お前は、ずっとそれを知っていたのか」

「知っていた、というより・・」美智子は少し考えた。

「竜介さんが書いてきたものを読みながら、私が感じていたことです。竜介さんの記事を読んで手が震えたとき・・天下が取れたかどうか、じゃなかった。今日、この一行がある、ということが・・よかったと思いました」

「それが、真実か」

「そうだと思います。少なくとも・・私にとっては」

 竜介は、もう一口、味噌汁を飲んだ。

 最後の一口だった。お椀が、空になった。

「うまかった」と竜介はまた言った。

 今度は涙ではなかった。ただ、静かに言った。

 美智子は頷いた。

 それだけだった。


 お椀を返しに、美智子が流し台へ歩いていった。

 竜介は窓を見た。

 十二月の横浜の空は、今日も青かった。

 雲がない。

 澄んだ、真冬の青だった。

 三島が問い続けた空でもあった。

 修平が病室の窓から見上げた空でもあった。

 父が北陸から列車に乗って来た、同じ空の下にある空でもあった。

 でも今日の竜介には・・その空の意味が、少し、前と違った。

「ペンで天下を獲る」という言葉の形が変わったことを、あの夜に気づいた。

 でも・・それがどんな形に変わったのかは、まだわかっていなかった。

 今日、少しだけ・・わかった気がした。

 天下を獲るために書くのではない。

 今日の手触りを、言葉にするために書く。

 お父さんが持ってきた荷物の中に入っていた味噌が、今日、確かに届いた。

 それを、言葉にするために書く。

 それが書けるなら・・書けることが、まだある。


 竜介は枕元を見た。

 取材ノートが置いてある。

 鉛筆が、ノートに挟んである。

 ペンではなく、鉛筆。

 でも・・文字は書ける。

 手を伸ばした。

 鉛筆を取った。

 ノートを開いた。

「美智子」と竜介は呼んだ。

 流し台から「はい」という声が返ってきた。

「来い。少し、話したいことがある」

「今行きます」と美智子は言った。

 水の音が止んで、足音が近づいてきた。


 竜介は空白のページを見た。

 今日の手触りを・・書く。

 それだけが、今日の竜介の、先にあることだった。

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