第二十五話 結納の日の決断
朝、鏡の前に立った。
十二月の終わり、有馬美智子は二十四歳だった。
母が選んだ訪問着は、薄い鶸色だった。
繊細な梅の刺繍が裾に入っている。
成人式のときより大人しい色で、でも結納の席には相応しい。
昨日から着付けの手配をして、朝の七時から着付師が来て、一時間かけて仕上げた。
帯は淡い金色で、着物の色に揃えてある。
鏡の中の自分を見た。
よく出来ている、と思った。
よく出来た着物。
よく出来た帯。
よく出来た髪。
よく出来た顔・・いつもより少し多めに化粧をした。
母が「今日だから」と言った。
美智子は「はい」と言って、いつもより濃い色の口紅を引いた。
よく出来た娘が、よく出来た鏡の中にいた。
でも・・その娘の目が、今朝は少し違う気がした。
怒っているわけではない。
泣きそうでもない。
ただ・・何か、決まっている目をしていた。
自分でもわかった。
今日の自分の目は、何かを決めた目をしている。
着付師が「お綺麗です」と言った。
母が「本当にそうね」と言った。
美智子は「ありがとうございます」と答えた。
三つ全部、本当のことだった。
そして・・三つ全部、今日の美智子には関係のないことだった。
会場は、神奈川の料亭だった。
正人の父が選んだ店で、大きな庭のある、格式のある料亭だった。
石畳の玄関を入ると、仲居が出迎えた。
奥の座敷へ案内された。
広い、よく手入れされた座敷だった。
床の間に一輪の花がある。
掛け軸がある。
角には結納品の台が用意されていた。
正人の家族はすでに来ていた。
正人の父・・弁護士だという、六十代の男。
背が高く、白髪が整えられていた。
正人の母・・穏やかな顔の、小柄な女性。
そして正人が、紺のスーツを着て立っていた。
美智子の父、有馬惣一郎が頭を下げた。
「本日はよろしくお願いいたします」。
正人の父が頭を下げた。
「こちらこそ」。
仲人の山田夫妻・・有馬家と旧知の、初老の夫婦・・が座敷の中央に座った。
着席。
仲居がお茶を運んできた。
座敷が、静かだった。
美智子はその静けさの中で、自分の膝の上に置いた両手を見ていた。
着物の上から、手のひらがある。
手袋は外してある。
指が、揃えて置いてある。
竜介のインクで汚れた手を、思い出した。
父の土で黒い手を、思い出した。
そして・・タイプライターを打つ自分の手を、思い出した。
一文字、確かめながら打つ。
その感触。
活字が紙に当たる、あの確かな感触。
「活字は頭の中の霧に形を与える」と、いつか書きかけてやめた文章の続きが、今日は少し見えた気がした。
活字が霧に形を与えるのは・・霧の中に「自分」がいるから。
形が与えられるのは、自分の言葉が、自分のものだから。
お茶の湯気が、座敷に上がっていた。
美智子は、自分の膝を見ながら、その湯気を感じていた。
正人が、美智子の方を見た。
目が合った。
正人の目は、穏やかだった。
今日の正人は、いつも以上に整えられていた。
紺のスーツが完璧だった。
髪も、時計も、すべてが整っていた。
その目が、静かに美智子を見ていた。
美智子は正人の目を、一秒、見た。
悪い人ではない、と思った。
今日も、そう思った。
誠実で、正直で、有能で、美智子のことを本当に心配している。
「守る」という言葉を、嘘なく使える男だ。
正人が「守る」と言うとき、それは本当に守るつもりでいる言葉だ。
でも・・この目の中に、美智子の入る場所が、ない。
完璧に整えられた場所に、美智子の「重さ」が入る隙間がない。
それは正人のせいではない。
美智子のせいでもない。
ただ・・入れない。
前のプロポーズのとき「少し、考えさせてください」と言った日から、ずっとその感覚が続いていた。
考え続けた。
何ヶ月も、考え続けた。
答えは変わらなかった。
美智子はそっと目をそらした。
仲人の山田氏が、場を取りまとめ始めた。
最初の挨拶。
両家の簡単な紹介。
今日の進行の説明。
なめらかな、慣れた声だった。
何十回も、こういう席を取り仕切ってきた声。
座敷が、その声に従って動き始めた。
美智子の父が、隣で頷いた。
美智子の母が、少し後ろで、両手を揃えて座っていた。
今日の母は、美しかった。
いつもより丁寧に化粧をして、薄紫の訪問着を着て、しっかりと背を伸ばして座っていた。
良妻賢母の、完成形だった。
美智子はその母の横顔を、横目で見た。
「私は母のようになりたいのか」と、前に親族の集まりの夜に自問したことを思った。
今日、その答えが・・形になる日だった。
なれない、と思う。
なりたくない、ではない。
なれない。
母の生き方は本物。
母の愛は本物。
母の選んだ道も、本物だった。
でも・・それは母の道であって、美智子の道ではない。
母の道を歩もうとすると、自分の「重さ」が行き場を失う。
竜介の手紙の一行が、頭の中にあった。
・・タイプライターの活字みたいに・・お前にはお前の重さがある。
その重さを、美智子はここ数ヶ月で、少しずつ確かめてきた。
活字を一つ一つ選んで、タイプライターを打ちながら、確かめてきた。
正人との食事の後で確かめた。
三島の文章を読んで確かめた。
竜介の病室で確かめた。
父の黒い手を見て確かめた。
味噌汁を作りながら確かめた。
確かめるたびに・・同じ答えが出た。
私には、私の重さがある。
それを持ったまま、この座敷に座り続けることは・・できない。
山田氏が声のトーンを少し上げた。
「それでは、皆様、準備が整いました」
その一言が、座敷の空気を変えた。
仲人が、今日の本題に入る合図の言葉だった。
正人の父が、少し姿勢を直した。
美智子の父が、頷いた。
仲居が、結納品の台に向かって一歩進んだ。
「準備が整いました」・・その言葉が、美智子の耳の中で、少しの間、鳴り続けた。
座敷の空気が、次の瞬間に向かって、静まり返った。
美智子は、自分の膝の上の手を見た。
着物の上に、揃えた手がある。
よく出来た、きれいな手。
タイプライターの打鍵で、少しずつ変わり始めている手。
インクで汚れたことはない。
でも・・今日は、この手を使う。
美智子は、立ち上がった。
正確には、立ち上がりながら、「立ち上がっている」と気づいた。
身体が動いた、という感覚だった。
考えてから動いたのではない。
膝の力が抜けて、腰が浮いて・・立っていた。
座敷の全員が、美智子を見た。
父が「美智子」と言いかけた。
母が息をのんだ。
正人が静かに目を上げた。
仲人の山田氏が止まった。
美智子は、その全員に向かって、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
声は、震えなかった。
自分でも驚いた。
震えると思っていた。
でも、出てきた声は・・静かだった。
「私には、できません」
それだけ言った。
座敷が、完全に静まった。
床の間の一輪の花が、そこにあった。
掛け軸が、そこにあった。
結納品の台が、そこにあった。
全部が、そのままそこにあって、美智子だけが・・立っていた。
「美智子」と父が言った。
今度は叱るような声だった。
「何を・・」
「惣一郎さん」と山田氏が父を制した。
「少し・・」
正人は、何も言わなかった。
美智子は、まっすぐ前を見て、立っていた。
逃げていない目で。
正人の方を見た。
正人の目が・・何かを測るように、静かに美智子を見ていた。
「正人さん」と美智子は言った。
「はい」と正人は言った。
声が、思いのほか落ち着いていた。
「本当に、申し訳ありません。正人さんは誠実な方です。それは今日も、変わりません。ただ・・私には、できないんです。正人さんの世界に、私が入る場所が・・見つけられないんです」
正人は少し間を置いた。
「・・そうですか」と正人は言った。
ただそれだけだった。
怒らなかった。
責めなかった。
正人らしかった、と美智子は思った。
最後まで、正人は正人だった。
美智子はもう一度、座敷の全員に向かって深く頭を下げた。
「この場を乱してしまい、誠に申し訳ありません。皆様に、多大なご迷惑をおかけしました」
それだけ言って、美智子は座敷の戸口に向かって歩いた。
仲居が、驚いた顔で道を開けた。
廊下に出た。
石畳の廊下が、ひやりとしていた。
着物の草履の底から、冷たさが伝わってくる。
座敷の中から、声が聞こえた。
父の声。
山田氏の声。
正人の父の、低い声。
でも・・美智子の足は止まらなかった。
玄関に向かって、歩いた。
一歩。
また一歩。
草履の底が、石畳を踏む音が、廊下に響いた。
「お客様」と後ろから仲居の声がした。
「外套は・・」
「後で取りに来ます」と美智子は言った。
振り返らなかった。
玄関を出た。
十二月の冷気が、着物の上から体を包んだ。
息が、白くなった。
料亭の石畳の前に立って、美智子はそのまま、しばらく動かなかった。
怖かった。
今になって、手が震えていた。
立っている間は震えなかった。
一言を言い切るまでは震えなかった。
でも今・・後戻りできなくなった今・・足の下が揺れているような気がした。
父に怒鳴られる。
母が泣く。
家に帰れなくなるかもしれない。
正人には、この先もう一生、顔を合わせられないだろう。
でも・・
白い息を、一つ吐いた。
「私には、できません」という言葉が、頭の中で鳴り続けていた。
あの声は、自分の声だった。
震えていなかった。
静かだった。
言葉は正しい場所から出てきた・・頭からではなく、もっと深いところから。
タイプライターの打鍵みたいに・・一文字、確かめながら。
「己」という活字の重さを、かつて神田で手のひらに乗せた。
き、と読む。
自分自身という意味の古い言い方。
今日の一言は・・「己」の言葉だった。
美智子は料亭の前の通りに出た。
十二月の横浜の空が、青かった。
澄んでいた。
真冬の、一点の曇りもない青だった。
どこへ行くか、まだわからなかった。
家には帰れない、少なくとも今すぐは。
竜介の病室へ行こう、と思った。
彼に話したいことがある。
今日のことを、話したい。
「行ってきました」という一言だけでいい。
それだけで竜介には伝わる、という気がした。
美智子は着物のまま、駅に向かって歩き始めた。
草履の底が、舗装路を踏む音がする。
一歩。
また一歩。
後戻りのできない一歩が、続いていた。




