第二十六話 勘当と、インクに染まる手
結納の日の夜、有馬家の玄関に、父が立っていた。
コートも脱がずに、立っていた。
美智子が着物のまま玄関を開けると、父の顔があった。
怒っているかと思った。
でも・・違った。
父の顔には、怒りより深い何かがあった。
傷ついた顔だった。
恥をかかされた顔だった。
息子ではなく娘に、予想もしない場所で、足元をすくわれた男の顔だった。
「美智子」と父は言った。
低かった。
「ただいまです」と美智子は言った。
父は何も言わなかった。
しばらく、美智子の顔を見ていた。
それから「上がれ」と言って、廊下の奥へ歩いていった。
美智子は草履を脱いで、上がった。
廊下から、居間の方へ父を追った。
母がいた。
台所の入口で、エプロンをつけたまま立っていた。
美智子と目が合った。
母は何も言わなかった。
ただ、目が・・泣いていた。
声は出ていない。
でも、目が濡れていた。
美智子は「お母さん」と言いかけて、止めた。
今は、言葉より、父と向き合う方が先だと思った。
居間に入った。
父がソファに座っていた。
美智子は正面に立った。
「座れ」と父は言った。
「立ったままで申し上げます」
父は少し間を置いた。
「・・そうか」
しばらく、沈黙があった。
時計の音がした。
居間の壁の時計が、一秒ずつ動く音だった。
「俺は」と父は言った。
「ずっと、お前のためを思ってきた」
「はい」
「正人さんは、いい人だ。お前を守ってくれる。苦労させない。俺には、あれ以上の相手は見つけられない」
「はい。正人さんはいい方です」
「それがわかっているなら・・なぜ」
父の声が、少し震えた。
怒りではなく・・悲しみで、震えた。
美智子は父の顔を見た。
五十代の、商売で鍛えた顔だ。
皺が増えた。
白髪も増えた。
この顔が、今日の式の場で、どんな顔をしていたか・・美智子には想像できた。
想像したくなかったが、できた。
「お父さん」と美智子は言った。
「なんだ」
「私は・・私の重さで、生きていきたいんです」
父は眉をしかめた。
「何が言いたい」
「うまく説明できません。でも・・正人さんの隣では、その重さが、行き場を失う気がするんです。正人さんは完璧すぎて、私の入る隙間がない。そういうことです」
「そんな気分の問題で・・」
「気分ではありません」と美智子は言った。
声を上げなかった。
ただ、はっきりと言った。
「今日のことは、何ヶ月も考えた末の、決断です」
父はしばらく黙った。
「俺には」と父はやがて言った。
「お前の言っていることが、わからない」
「わかっています」
「正人さんに何の不足がある。何が足りない。法曹の世界で将来が約束されていて、誠実で、お前を大切にする気持ちも本物だ。それのどこが不満なんだ」
「不満ではないんです」と美智子は言った。
「ただ・・それは正人さんの正しさであって、私の正しさではない。同じではないんです」
「甘えだ」と父は言った。
今度は低く、平坦な声で言った。
「それは甘えだ。この時代に、女が自分の正しさで生きるなど・・」
「生きてみます」と美智子は言った。
父が止まった。
「生きてみます」ともう一度言った。
「うまくいくかどうかは、わかりません。でも・・やってみずに諦めることは、私には、できない」
長い沈黙があった。
父は、両手を膝に置いて、美智子を見ていた。
その手が・・美智子には、別の手と重なった。
竜介の父の、土で黒い手。
土を耕し続けた、あの手。
有馬惣一郎の手は、商売で鍛えた手で、黒くはない。
でも・・疲れた手だ、と今日初めて気づいた。
ずっと、この家のために動いてきた手だ。
「お前を」と父は言った。
「勘当する」
予想していた言葉だった。
でも、言葉として聞くと・・やはり、胸に刺さった。
「わかりました」と美智子は言った。
声が、かすかに揺れた。
揺れることを、止めなかった。
「二度と、この家に帰ってくるな」
「・・はい」
父はそれだけ言って、立ち上がって、居間から出ていった。
廊下で、母の小さな声がした。
「惣一郎さん・・」という声が。
それから、父が「いいんだ」と言う声が。
その後、足音が消えた。
居間に一人になった。
時計が、また一秒動いた。
美智子は自室に戻った。
部屋の中は、出かける前と変わっていなかった。
机の上にタイプライターがある。
棚に本が並んでいる。
机の引き出しに、「憂」と「己」の活字がある。
何を持っていくか、考えるまでもなかった。
最初に、引き出しを開けた。
竜介の手紙を取り出した。
白い封筒。
万年筆の文字。
「お前にはお前の重さがある」という一行が入っている。
大切に折って、鞄に入れた。
次に、棚から三島由紀夫の本を一冊取った。
神田の文具店で手に取った、あの限定版ではない・・「私の中の二十五年」が収録された、薄い一冊だった。
鞄に入れた。
最後に、タイプライターを見た。
持っていく、とずっと思っていた。
これだけは手放せない、と思っていた。
でも・・持ち出せるか。
重い。
鞄には入らない。
美智子はタイプライターのケースを出してきて、本体を収めた。
留め金を締めた。
持ち上げてみた。
重かった。
でも・・持てた。
着物のまま、鞄とタイプライターのケースを持って、部屋を出た。
廊下に、母がいた。
立っていた。
エプロンをまだつけていた。
手に何かを持っていた。
近づくと・・封筒だった。
「これ」と母は言った。
「お金。持っていきなさい」
「お母さん・・」
「いいから」と母は言った。
「受け取りなさい。あなたに何かあったとき、何もないより・・」
美智子は封筒を受け取った。
「お母さん」と美智子は言った。
「私は・・」
「何も言わなくていい」と母は言った。
「私には、あなたの言っていることが全部わかるわけじゃない。でも・・あなたは、ちゃんと考えて、出した答えなんでしょう」
「はい」
「それなら」と母は言った。目が、また濡れていた。
でも声は、今度は落ち着いていた。
「気をつけて」
「今まで、ありがとうございました」と美智子は言った。
頭を下げた。
深く、ゆっくりと。
母が育ててくれたことへの、本物の感謝だった。
この家が与えてくれたもの全部への。
嘘ではなかった。
この家の中にいたから、タイプライターに出会えた。
この家の中にいたから、神田に行けた。
活字の重さを知ることができた。
竜介に出会えた。
それは全部、本当のことだった。
顔を上げたとき、母の手が・・美智子の頬に触れた。
一秒。
それだけだった。
それだけで、充分だった。
美智子は玄関に向かった。
草履を履いた。
ドアを開けた。
十二月の夜気が、着物の上から来た。
タイプライターのケースを持って、美智子は外に出た。
横浜の、夜の病院まで、電車で来た。
受付で「津島竜介さんのお見舞いです」と言った。
面会時間が過ぎていたが、担当の看護婦が「毎日来てくれる方ですね」と言って、通してくれた。
廊下を歩いた。
タイプライターのケースが重かった。
着物のまま、ケースを提げて歩いている自分の姿が、廊下の窓ガラスに映った。
奇妙な格好だ、と美智子は思った。
でも・・笑える気がした。
竜介の病室のドアを叩いた。
「はい」という声がした。
開けると、竜介がベッドに半身を起こして、枕元の鉛筆で何かを書いていた。
ノートに、短い言葉が連なっていた。
口述の準備かもしれなかった。
「美智子」と竜介は言った。
着物に気づいて「今日・・」と言いかけた。
「結納の席を出てきました」と美智子は言った。
竜介は少し間を置いた。
「・・そうか」
「家を出てきました」
竜介はもう少し間を置いた。
「勘当されたか」
「はい」
「それで・・タイプライターを持ってきたのか」
「はい」と美智子は言った。
ケースを床に置いた。
「竜介さん。最後の原稿・・私が打ちます」
竜介は美智子を見た。
「最後の、というのは」
「三島事件のあとを生きる若者へ、という原稿。先日、鉛筆で書き始めていると言っていたでしょう。あれを・・竜介さんが話して、私が打ちます。竜介さんの言葉を、活字にします」
竜介はしばらく、美智子を見ていた。
「いいのか」と竜介は言った。
「お前の人生なのに、俺の原稿に・・」
「私の人生のために、やります」と美智子は言った。
「あなたの言葉を活字にすることが・・今、私のやるべきことです」
竜介は何も言わなかった。
でも、目が・・少し変わった。
出会いのときから知っている目だ。
インクとタバコの匂いをまとった、泥臭い記者の目。
でも今夜の竜介の目には、インクの代わりに・・何か別のものが宿っていた。
「椅子を引いてくれ」と竜介は言った。
「始めよう」
病室の隅の小さな机にタイプライターを置いた。
ケースを開けて、本体を出した。
紙を一枚、セットした。
正面に座った。
竜介がノートを開いた。
鉛筆で書いた字が、蛍光灯の光の下に白く見えた。
「最初は」と竜介は言った。
「こう書いた」
低い声で、竜介が読み上げた。
美智子は指を、タイプの上に置いた。
キーに触れた。
冷たかった。
カチ、と音がした。
一文字。
また一文字。
また一文字。
竜介の言葉が、美智子の指の先から、紙の上に移っていく。
活字が紙に当たる。
その音が、静かな病室に響いた。
カチ。カチ。カチ。
しばらくして、美智子は紙を送った。
紙送りのレバーを引いた。
タイプライターのインクリボンが動いた。
その拍子に・・右手の人差し指に、黒いものが付いた。
見た。
インクだった。
タイプライターのインクリボンから、少し滲んで出たものが、指先に移っていた。
美智子は、その指先を見た。
白い手のひらに、黒い点がある。
小さい。でも、確かにある。
「どうした」と竜介は言った。
「インクが・・」と美智子は言った。
「ついたか」
「はい」
「取るか」と竜介は聞いた。
美智子は少し間を置いた。
「取りません」と答えた。
竜介は何も言わなかった。
美智子はもう一度、指先を見た。
ずっと、この手は白かった。
タイプを打つときも、清書をするときも、資料を整理するときも・・インクがつかないように、気をつけてきた。清潔な手だった。守られた手だった。
でも今日、家を出た。
今夜、ここに来た。
タイプライターのケースを自分で提げて、着物のまま、夜の病院の廊下を歩いた。
そして今、竜介の言葉を打っている。
この指先の黒さは・・その続きだ。
美智子はまた、キーに手を置いた。
「続けてください」と竜介に言った。
竜介は少し間を置いてから、ノートを見た。
読み上げ始めた。
カチ。
また一文字。
また一文字。
竜介の言葉が、美智子の指の先から、紙の上に移っていく。
一行が終わる。
紙を送る。
次の行に入る。
インクリボンが動くたびに、少しずつ、少しずつ・・指先に黒いものが積み重なっていく。
人差し指。
中指。
親指。
気づいたときには、右手の三本の指の先が、うっすらと黒くなっていた。
万年筆のインクとは少し違う色だった。タイプライターのインクリボンの黒さで、少しべたつく。
でも・・確かに、手のひらにある黒さだった。
美智子は、その手を少し見た。
竜介の手を、最初に見たとき・・インクで汚れた手だと思った。
神田の文具店で、三島の本の在庫を確認していた、
あの手。
汚れた、ぶしつけな手だと思った。
でも今、自分の手の中に、同じ黒さがある。
これは・・汚れ、ではなかった。
言葉の仕事をした手の色だった。
ここへ来た証だった。
自分の重さで動いた証だった。
「美智子」と竜介は言った。
「はい」と美智子は答えた。
「・・うまい」と竜介は言った。
打っている言葉のことを、竜介は言っていた。
美智子のタイプの精度のことを言っていた。
でも・・美智子には、それだけには聞こえなかった。
「ありがとうございます」と美智子は言った。
カチ。
また一文字。
病室の蛍光灯の下で、タイプライターの音が続いていた。
竜介の言葉が、美智子の指の先から、紙の上に移り続けていた。
時間が、ゆっくりと、しかし確かに動いていた。
夜が深くなった。
打ち終えて、美智子は紙をタイプライターから外した。
竜介が受け取った。
紙面を見た。
しばらく黙って読んでいた。
「誤字が、二ヶ所」と竜介は言った。
「すみません」
「いや・・少ない方だ。明日もここに来られるか」
「来ます」と美智子は言った。
「毎日来ます」
竜介は紙をノートの挟んだ。
「どこに泊まる」
「今夜は・・まだ考えていません。近くの宿か」
「鬼塚に言え。社の近くに安い宿がいくつかある。鬼塚は口は悪いが、こういうときは動く」
「わかりました」
「明日もここへ来い」と竜介は言った。
「続きがある」
「はい」
美智子はタイプライターをケースに収めた。
机の上を片付けた。
立ち上がって、上着を着た。
「行くか」と竜介は言った。
「また明日来ます」
「・・ああ」
美智子はドアに手をかけた。
「美智子」と竜介は言った。
「はい」
「・・今日、来てくれてよかった」
その言葉が、今夜で一番、胸に届いた。
「私もです」と美智子は言った。
ドアを閉めた。
廊下に出た。
自分の手を見た。
右手の指先が、黒かった。
インクの、黒さだった。
美智子は少しの間、その手のひらを見ていた。
それから・・鞄を持って、タイプライターのケースを提げて、病院の廊下を歩き始めた。
一歩。
また一歩。
インクの染みた手のまま、廊下を歩いていった。




