第二十七話 テープが止まる時
昭和四十六年の一月が来た。
十二月の末から、竜介は口述を続けていた。
声が出る間は話す。
美智子が打つ。
声が弱るとテープレコーダーに頼る・・ソニーの小さなカセットレコーダーが、ベッドの脇の台に置いてあった。
鬼塚が持ってきた。
「取材に使っているやつだ、使え」と言った。
それだけだった。
竜介の声は、十二月から一月にかけて、少しずつ変わった。
言葉の力は落ちていない。
選ぶ言葉は、今も確かだ。
でも・・声の質が変わった。
胸の底から来ていた声が、今は肺の浅いところから来ていた。
少し話すと、咳が出る。
咳が出ると、少し体力が削られる。
削られた体力の中から、言葉を選ぶ。
それでも、口述は続いた。
美智子は毎日、病院に来た。
鞄とタイプライターのケースを持って、電車に乗って、廊下を歩いて、病室の小さな机にタイプライターを置いた。
紙をセットした。
竜介が話し始めるのを待った。
テープレコーダーを、毎日セットした。
カセットテープをデッキに入れて、録音ボタンを押す。
小さな赤いランプが灯る。
テープが動き始める・・その音が、病室の中に静かに溶け込んだ。
テープが回っている間、竜介は話した。
美智子は打った。
カチ。カチ。カチ。
その音が、横浜の冬の病院の一室に、毎日響いた。
一月の終わりの、ある午後のことだった。
美智子が病室のドアを開ける前に、廊下の椅子に修平が座っていた。
今日もいた、と思った。
ここ数日、修平は廊下に座っていた。
病室には入らなかった。
一度、美智子が「入りますか」と声をかけると、修平は「いい」と言った。
「俺は外にいる。中に入ると・・竜介が、余計なことを気にする気がして」
「余計なこと、というのは」
「声が出るかどうか、俺に聞かせようとして力む。そういう男だから」
美智子は修平のその言葉が、正確だと思った。
「でも」と修平は言った。
「近くにいたい。廊下でいい」
だから今日も修平は廊下にいた。
コートを着て、椅子の上で少し前かがみになって、自分の手を見ながら、ただ、そこにいた。
「今日も、ここですか」と美智子は言った。
「ああ」と修平は言った。
顔を上げた。
「竜介は、どうだ」
「昨日より・・少し、疲れた顔をしていました」
修平は頷いた。
「何かあったら・・」と美智子は言いかけた。
「わかってる」と修平は言った。
「すぐ来い、と言われたら来る」
美智子はドアを開けた。
入る前に、振り返った。
修平がまた自分の手を見ていた。
大学のころから鍛えた、固い手。
先生の言葉が背骨だった、と言っていた男の手。
その背骨が折れた後で、修平はまだここにいる。
廊下の椅子に座って、「近くにいたい」と言って、ここにいる。
それが・・今の修平の「言葉」なのだ、と美智子は思った。
病室に入ると、竜介は半身を起こしていた。
顔色が、昨日より白かった。
目の下が落ちていた。
唇が、少し乾いていた。
でも・・目が、生きていた。
美智子の顔を見て、「来たか」と言った。
声は今日も、肺の浅いところから来ていた。
でも・・言葉の力は確かにあった。
「おはようございます」と美智子は言った。
「午後だ」と竜介は言った。
「昼を過ぎてる」
「すみません。タイプライターのリボンを取り替えてから来たので」
「リボンは・・また切れたか」
「切れる前に替えました。これ以上薄くなると、文字が読めなくなるから」
竜介は少し目を細めた。
「慣れてきたな」
「少しは」と美智子は言った。
タイプライターをケースから出して、机に置いた。
紙をセットした。
テープレコーダーを出して、カセットを入れた。
録音ボタンを押した。
赤いランプが灯った。
「今日は」と竜介は言った。
「最後のところを書く」
「最後の」
「遺稿の、最後のくだりだ。三島の話を書いて・・次は、生き続ける話を書く。そこで終わりにする」
美智子は頷いた。
「はい」
「お前に打ってもらうのは・・今日で終わりになるかもしれない」
その言葉が、静かに落ちた。
美智子は何も言わなかった。
頷かなかった。
ただ、指をキーの上に置いた。
竜介が、話し始めた。
遺稿のタイトルは「三島事件と、これからを生きる若者へ」だった。
竜介が口述し、美智子が打ってきた文章。
三島の死を、「大きな言葉で燃えた男の最後」として書かない。
三島の怒りと予言を正面から受け取りながら・・でも、生き残った者たちに向けて、「それでも生きることについて」書いた文章だった。
今日は、最後のくだりだった。
竜介の声が、ゆっくりと流れた。
美智子の指が、そのあとを追った。
カチ。
また一文字。
カチカチ。
また一行。
テープが回っている。
赤いランプが、静かに灯っている。
病室の外から、廊下の足音が遠く聞こえる。
どこかの病室から、テレビの音が低く聞こえる。
でも・・この部屋の中では、竜介の声と、タイプライターの音だけが、時間を作っていた。
「・・大きな言葉は、人を動かす。しかし大きな言葉は、人を生かさない」
カチカチカチ。
「・・生かすのは、今日の味噌汁の温かさと、明日のお金と、誰かの手の温度だ」
カチカチカチカチ。
「・・三島は、大きな言葉のために死んだ。それは一つの誠実さだ。しかし・・」
竜介の声が止まった。
美智子の手も止まった。
「続けますか」と美智子は聞いた。
「ああ」と竜介は言った。
少しだけ間があった。
「・・しかし、大きな言葉を持てなかった者も、大きな言葉に殉じられなかった者も・・生きていく権利がある。生きていく責任がある」
カチカチカチ。
「・・それが、これからを生きる若者に、俺の言えることだ」
竜介が止まった。
美智子は最後の一文字を打って、指を上げた。
長い沈黙があった。
テープが回る、かすかな音だけがあった。
「・・終わり?」と美智子は静かに聞いた。
「終わりに・・近い」と竜介は言った。
美智子は竜介の顔を見た。
目が、また違う色になっていた。
疲れた色ではなく・・何かを終えた色だった。
何かを言い切ったことの、静かな疲労だった。
「美智子」と竜介は言った。
「はい」
「紙を・・外してくれ」
美智子は最後の紙をタイプライターから外した。
竜介の手に渡した。
竜介は受け取って、それを読んだ。
一行ずつ、ゆっくりと読んでいた。
読み終えて、胸の上に紙を置いた。
「いい」と竜介は言った。
「これでいい」
しばらく、二人は黙っていた。
外が、暗くなり始めていた。
一月の横浜の夕方は、四時を過ぎると急に暗くなる。
窓の外の空が、橙から灰色に変わっていく。
「美智子」と竜介はまた言った。
「はい」
「鬼塚に・・頼んでくれ。この原稿を、紙面に出してくれ、と。俺が死んでからでいい。でも、必ず出してくれ、と」
「はい」
「お前がそこにいて、言ってくれ。お前が言えば、鬼塚は聞く」
「聞かなくても、何度でも言います」
竜介は少し笑った。
力のない、でも本物の笑いだった。
「そうか」
外が、また少し暗くなった。
竜介は窓を見た。
「雪が・・降ってるか」
美智子は窓を見た。
細かい雪が、夕暮れの横浜に舞っていた。
音もなく、静かに降っていた。
「降っています」と美智子は言った。
「そうか」と竜介は言った。
目を窓に向けたまま。
「横浜に・・雪が降るのは、珍しい」
「ええ」
「北陸は・・今ごろ、積もっているな」
「きっと」
竜介は目を窓に向けたまま、しばらく何も言わなかった。
テープが、回っている。
かすかな音で。
赤いランプが、窓の外の夕暮れの中でも、確かに灯っている。
「美智子」と竜介は言った。
声が、前より低かった。
肺のさらに浅い、どこか遠いところから来ているような声だった。
「はい」と美智子は言った。
「お前は・・これから、どうするんだ」
「この原稿を鬼塚さんに届けます。それから、仕事を探します。文字を打てる仕事なら、どこかにあると思います」
「神田の・・小さな出版社に知り合いがいる。俺の名前を出せば・・」
「自分で行きます」と美智子は言った。
竜介が少し止まった。
「・・そうか」と竜介は言った。
「自分で・・行くか」
「はい」
「そうだな」と竜介は言った。
「そうじゃなきゃ・・意味がない」
また、沈黙があった。
窓の外に、雪が降っている。
細かく、静かに降っている。
「美智子」と竜介は言った。
「はい」
「自分の名前で・・」
声が、一度止まった。
「自分の名前で・・」
また止まった。
「・・生きろ」
その一言が、病室の中に落ちた。
声に出て、テープに入って、美智子の耳に届いた。
自分の名前で、生きろ。
美智子は何も言えなかった。
言葉が出なかった。
出す必要もなかった。
ただ・・頷いた。
竜介の目が、窓の外の雪を見ていた。
その目が、少し、遠くなった気がした。
その瞬間・・
カチャッ。
という音がした。
テープが、止まった。
赤いランプが、消えた。
しばらくの間、美智子は動かなかった。
竜介の胸が、上下していない。
看護婦を呼ばなければ・・。
そのことは、頭でわかっていた。
でも・・少しの間、動けなかった。
窓の外に、雪が降っている。
音がない。
カセットテープが止まっている。
タイプライターが止まっている。
竜介の声が止まっている。
でも・・窓の外では、雪がまだ、静かに、動いている。
一月の横浜の夕暮れに、雪が降っている。
「・・行ってきます」と美智子は言った。
誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。
竜介に、言ったのかもしれない。
これから先の自分の人生に向かって、言ったのかもしれない。
自分の名前で、生きろ。
美智子はゆっくりと立ち上がった。ドアを開けた。
廊下に出た。
修平が、廊下の椅子に座っていた。
タイプライターの音が止まったとき・・修平は気づいた、と美智子は思った。
ずっと廊下でその音を聞いていた男だから。
音が止まった瞬間の意味を、体で知った男だから。
美智子がドアを開けた瞬間、修平が顔を上げた。
目が合った。
美智子は何も言わなかった。
修平は・・美智子の顔を一秒見て、それから、膝に顔を埋めた。
コートの膝の上に、額をつけて、修平は動かなかった。
廊下の蛍光灯が、白く照らしていた。
どこかの病室から、テレビの音が聞こえた。
廊下の向こうで、看護婦の足音がする。
美智子は看護婦詰所に向かって一歩踏み出した。
歩きながら、自分の右手を見た。
インクの染みた、右手の指先が、蛍光灯の光の中に白く見えた。
竜介の言葉が、この手を通って、紙の上にある。
テープの中にある。
もうすぐ、活字になる。
一月の横浜の病院の廊下を、美智子は歩いていった。
窓の外に、雪が降っていた。




