第八話 秋の始まりと、正人の圧力
九月になっても、東京は暑かった。
残暑というより、熱がこもっている、という感じだった。
アスファルトが熱を溜め込んで、夜になっても放さない。
光化学スモッグ注意報は八月より少し出る回数が減ったが、空の黄ばみは取れない。
万博は閉幕まで一ヶ月を切って、「記念すべき最終月」という言葉が新聞に躍っている。
人類の進歩と調和・・その言葉が最後の輝きを放っている、らしかった。
有馬美智子は、その週に二度、神奈川県立図書館へ行った。
竜介に「縮刷版は神奈川県立に行けばある」と言われた翌日から、ためらいはなかった。
京浜急行に乗って、見知らぬ駅で降りて、地図を頼りに図書館を探した。
入館手続きをして、閲覧室に通されて、神奈川政経新聞の縮刷版を棚から引き出した。
重かった。
一冊一冊、半年分の新聞が圧縮されて、重く、黄ばんで、積み重なっている。
津島竜介の署名記事を探した。
川崎公害の連載が七本、光化学スモッグの記事が四本、よど号事件の関連取材が二本。
ほかにも署名なしで竜介が書いたと思われる記事が、いくつかあった。
判断の根拠は文体だ。
数字の出し方と、人物の描き方に、見覚えがあった。
定食屋で向かいに座って話を聞いた、
あの声の感触が、活字の組み方に染み出ている気がした。
活字で組まれた竜介の文章を、美智子は一本ずつ読んだ。
読みながら、手が少し震えた。
怖いからではない。
文章の密度が、手に伝わってくる気がしたからだ。
取材ノートの走り書きが、研ぎ澄まされてここに着地している。
あの汚れた指が、この活字を生みだした。
数字の後ろに顔がある・・竜介が定食屋でそう言ったのを、美智子は思い出した。
読めば、確かにそうだった。
工場の煙突の排出量を示す数字の後ろに、マスクをした五歳の男の子の顔がある。
その顔は活字に書かれていない。
でも、確かにある。
二時間読み続けて、閲覧室を出た。
外の空気が黄ばんでいた。
でも今日は、その黄ばみが少しだけ違って見えた。
竜介が書いているのは、この空の色のことだ、と美智子は思った。
二度目の図書館は、正人さんと会う前日だった。
今度は縮刷版を読むためではなかった。
何かを確かめるために来た気がした。
でも何を確かめたいのか、自分でもよくわからなかった。
結局、ただ閲覧室に一時間座っていた。
帰り道、鞄の中の「己」の活字を、ずっと握りしめていた。
榊正人から電話があったのは、九月の最初の月曜日だった。
「そろそろ父との顔合わせの日程を決めたい」と正人は言った。
穏やかな、よく通る声だった。
「先月もお話ししたように、父も美智子さんにお会いしたいと言っている。十月の第二週か第三週はいかがですか」
美智子は受話器を持ったまま、少し黙った。
「少し待ってください」
「もちろんです」正人の声は変わらない。
「ただ、有馬のお父様にはもうお話ししてあって、先方は乗り気でいらっしゃいます。美智子さんのお気持ちさえ決まれば・・」
「お父様には、まだ話さないでほしかった」
そう言ってから、美智子は自分でも驚いた。
こういう言い方を、したことがなかった。
いつもは「そうですね」か「少し考えさせてください」だ。
折れないまでも、角を立てない。
それが美智子の習慣だった。
神田の文具店で「私が先に手に取っていました」と言い張ったあの日から、少しずつ変わってきてはいた。
でも正人に対して、これほどはっきり言ったのは初めてだった。
電話口で、わずかな沈黙があった。
「・・失礼しました」と正人は言った。
いつもと同じ、丁寧な声だった。
「ただ、有馬のお父様も同じお気持ちでいらっしゃると思っていたので。実際、お父様は喜んでいらっしゃいましたよ」
「父のことは、父に聞きます」
「もちろんです」
また沈黙。
今度は少し長かった。
正人が何かを整理している沈黙だと、美智子にはわかった。
正人はいつも、言葉を整えてから話す。
整えた言葉は美しい。
でも整えている間に、何かが・・
「美智子さん、何か不安なことがあれば、何でも話してください。僕は・・」
「ありがとうございます」と美智子は言った。
「また連絡します」
受話器を置いて、しばらく動けなかった。
悪いことをした気がする。
正人は悪くない。
誠実で、丁寧で、父に話したのも善意からだ。
それはわかっている。
わかっているのに、あの一言が出てきた。
どこから来たのだろう。
鞄の中に「己」の活字が入っていた。
取り出して、手のひらに乗せた。
冷たかった。
にぶく重かった。
「き」。
自分自身。
父の惣一郎に呼ばれたのは、その三日後だった。
父の書斎は、いつも新聞が積んである。
読まれた形跡のない経済面の束と、赤線の引かれた社会面が、ちぐはぐに重なっている。
社会面だけが、別の誰かに読まれたように見える・・美智子が子供のころから気になっていた、あの積み方だ。
今日は神奈川政経新聞も混じっていた。
見慣れない紙面。
でも美智子には、見覚えがあった。
「正人君から連絡があった」と父は言った。
煙草に火をつけながら、美智子を見た。
「お前、何か言ったそうじゃないか」
「お父様に話す前に私に相談してほしかった、と言いました」
「それはそうだが」父は少し眉をひそめた。
「正人君は誠意を持って進めてくれているんだ。あちらのご家庭のことを考えれば、そういう言い方は・・」
「お父様は、私が正人さんと結婚したいかどうか、聞いてくれましたか」
父が黙った。
美智子も、自分の言葉に少し驚いていた。
でも今度は取り消さなかった。
「・・聞いてなかった、とは言わない」
父はゆっくりと言った。
「ただ、お前は反対していなかった。だから進めていいと思っていた」
「反対していなかっただけで、賛成もしていなかった」
「それは・・」
「嫌いじゃない、ということと、好きだということは、違います」
父はしばらく黙って、煙草を灰皿に押しつけた。
それから窓の外を見た。
東京の九月の空が見えた。
まだ黄ばんでいた。
「お前は」と父はゆっくりと言った。
「正人君の何が不満なんだ」
「不満じゃないんです」
「じゃあ何だ」
美智子は少し考えた。
正直に言えるかどうか、迷った。
でも言わなかったら、またいつもと同じになる。
「正人さんの言葉は、いつも完璧です。整っていて、澱みがなくて、正しい。でも・・完璧すぎて、私が入る隙間がない気がする。私が何か言う前に、もう答えが決まっている」
父は美智子を見た。
「それは」と父は言った。
「お前が甘えているんじゃないのか」
「甘えているのかもしれません」美智子は頷いた。
「でも、甘えなのか違うのか、まだわからない。だから少しだけ待ってほしい」
「・・わかった」と父は言った。
少し疲れた声だった。
「ただし、あまり待たせるのは失礼になる」
「わかっています」
書斎を出て、廊下を歩きながら、美智子は手のひらを見た。
何も持っていない。
でも「己」の活字の重さが、まだそこに残っている気がした。
その夜、美智子は机の前に座った。
引き出しから「憂」の活字を出した。
四月に神田の文具店で買ったもの。
次に「己」を出した。
八月の末に、竜介に探してもらったもの。
二つを並べて、手のひらに乗せた。
重かった。
それぞれが、ちゃんと重かった。
タイプライターの前に座って、活字盤を引き出した。
何かを打ちたかった。
でも言葉が出てこない。
頭の中にあるものは、まだ霧のままで、形がない。
カチ、と一文字だけ打った。
何の字かはわからなかった。
でも打った。
その音が、静かな部屋に響いて、消えた。
窓の外、東京の夜の空は黄ばんでいた。
万博の閉幕まで、あと二十八日。
進歩と調和という言葉が、その黄ばんだ空の向こうでまだ輝いている。
美智子は机の上の活字を見た。「憂」と「己」が並んでいる。
完璧すぎて、私が入る隙間がない・・さっき父に言った言葉が、まだ耳の中に残っていた。
正人のことを言ったつもりだった。
でも今は、自分自身のことのような気もした。
まだうまく言えない。
でも、少しだけ輪郭が見えてきた気がした。
見えてきた、というより・・見ようとしている自分が、少しだけはっきりしてきた気がした。




