第七話 再会と、糸の始まり
八月の末、竜介はまた神田に来ていた。
今度は取材ではない。
川崎の公害記事が一面に出て三日が経ち、企業側から正式な抗議文が届いて、社内が揺れている。
デスクは「しばらく別ネタを当たれ」と言った。
別ネタを探しに、竜介の脚は神保町に向いていた。
なぜここなのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、この街の匂いが・・インクと古紙と、黄ばんだ空気が混ざった、あの匂いが・・頭の中を整理させてくれる気がした。
社内がもめるたびに、デスクが圧力をかけてくるたびに、竜介は気づくとここに来ている。
ペンで天下を獲ると言い続けてきた男の、情けない逃げ場かもしれなかった。
すずらん通りを歩いていると、文具店の前に人が立っていた。
美智子だった。
引き戸を開けようとして、躊躇している。
中を覗いて、また引き戸に手をかけて、また止まる。
何か考えているらしかった。
日傘を畳んで、小さな鞄を肩に掛けて、白いワンピースで、夏の石畳の上に立っている。
「どうした」と竜介は言った。
美智子が振り返った。
驚いた顔をして、それから少し笑った。
「また偶然ですね」
「お前がここに来るのは知ってる。俺もここに来る。神田が狭いだけだ」
「入ろうか迷ってたの」
「なんで」
美智子は少し間を置いた。
「『己』という字を探しているんだけど、うまく見つかるかどうかわからなくて」
竜介は美智子の横に並んで、引き戸を開けた。「探してやる」
活字盤の引き出しを三つ開けて、竜介は「己」の字を見つけた。
二分もかからなかった。
「お前、この字が読めるか」と竜介は言った。
活字を美智子の手のひらに置きながら。
「己。おのれ、でしょ」
「もう一つ読みがある」
「・・つちのと?」
「そっちじゃなくて。『き』とも読む。自分自身という意味の古い言い方だ」
美智子は活字を手のひらに乗せて、その重さを確かめた。
鋳鉄の、にぶい重さ。
「どうして知ってるの」
「石川の親父が、よく使った。『己の仕事をしろ』って。標準語じゃないけど、あの言い方が好きだった」
美智子はしばらく活字を見ていた。
それから「この字にした」と言った。
「何の字にするんだ」
「今月の一文字」
竜介は美智子を見た。
毎月、タイプライターの活字を一文字買って帰る・・それは知っていた。
女子大の学生ホールで活字盤の前に座っていたとき、「一葉か」と言いながら竜介は気づいていた。
でも何のために買っているのかは聞いたことがなかった。
「集めてどうするんだ」
「特に何もしない。手のひらで重さを確かめるだけ」
「それだけか」
「それだけ」
竜介はしばらく黙った。
それから「まあいい」と言った。
店主の老人が「はい『己』一つ、三円です」と言いながら小さな紙袋に入れて渡してくれた。
美智子がコインを出すより先に、竜介が小銭を置いた。
「奢るの?」と美智子は言った。
「三円だ。気にするな」
店を出ると、八月の残暑が待ち構えていた。
光化学スモッグ注意報は今日も出ている。
夕方になって少しだけ霞が薄くなったが、空はまだ黄色い。
神保町の石畳に長い影が伸びている。
商店街のラジオから、歌謡曲が流れてきた。
ザ・タイガースか、誰かの曲か、美智子には判別できない。
それでもその音が、黄色い夏の空気に溶けていた。
「どこか行くのか」と竜介は聞いた。
「帰るつもりだったけど」
「飯、食ったか」
美智子は少し考えた。
「昼から何も」
「俺もだ。安い定食屋なら知ってる」
それだけ言って、竜介は歩き始めた。
美智子はその後を追いながら、少し笑った。
誘い方が、この男らしかった。
「行きましょうか」でも「よろしければ」でもなく、「安い定食屋なら知ってる」・・それだけで、あとは勝手に歩き始める。
正人さんなら、三つ候補を調べてきて、それぞれの特徴を説明してから選んでもらう。
どちらが正しいとか間違いとかじゃない。
ただ、この男の歩き方は、重力に正直だった。
連れていかれたのは、神田川沿いの小さな定食屋だった。
カウンター六席だけの店で、おかみさんが一人でやっている。
壁に手書きのメニューが貼ってある。
日替わり定食、五十円。
カウンターの端に小さなテレビが置いてあって、NHKのニュースが流れていた。
アナウンサーが「本日の万博入場者数は・・」と読み上げているのを、おかみさんが「また万博、万博」とぼやきながら音量を絞った。
「ここは安くてうまい」と竜介は言った。
「ただし、話しかけるとおかみさんが長い」
「どのくらい長いの」
「去年、川崎の取材帰りに来たとき、息子さんの話を四十分聞かされた」
二人とも日替わり定食を頼んだ。
鯖の味噌煮、大根の煮物、味噌汁、飯。
飯は少し甘みのある米で、出汁のよく効いた味噌汁と合っていた。
コンソメとは全然違う。
でも、本物の味がした。
「公害の記事、読みました」と美智子は言った。
「どこで」
「父の書斎に神奈川政経新聞があって。社会面に出てたから」
「感想は」
「怖かった」
「なぜ」
「数字が怖かった。数字って、人を遠ざける言葉でもあるのに、あなたの記事の数字は、逆に人を近づけてくる気がした。なぜかわからないけど」
竜介は鯖を箸でほぐしながら、少し黙った。
「数字の後ろに、子供の顔を書いたからだ」と竜介は言った。
「数字だけじゃ、人は動かない。顔が要る。声が要る。俺が取材で会った人間の顔と声が、数字の後ろにある・・それが伝わったんなら、書き方は間違ってなかった」
「見てきたから怒れる」と美智子は言った。
「そうだ」
「見てきたものを、言葉にできる」
「できるかどうかは、毎回わからない。でも書く。書かなかったら、見てきたものが俺の中で死ぬ」
美智子は味噌汁を一口飲んだ。熱かった。
「あなたの書いたものを、もっと読みたい」と美智子は言った。
竜介は顔を上げて、美智子を見た。
「神奈川政経新聞、図書館で読めますか」
「大きい図書館なら置いてある。縮刷版は神奈川県立に行けばある」
「行ってみます」
竜介はしばらく美智子を見ていた。
それから鯖の残りを口に入れて、「勝手にしろ」と言った。
でもその声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
帰り際、店を出たところで夕暮れの風が吹いた。
黄色い空が少しだけ橙色に変わり始めている。
神田川の水面に、その色が映っていた。
蝉の声が、どこかで鳴っている。
夏の終わりの声だった。
「名前、まだ聞いてなかった」と美智子は言った。
「津島竜介」
「有馬美智子です」
竜介は頷いた。
それだけだった。
握手もしない。
改めて何かを言うわけでもない。
ただ、名前を交換した。
神田の文具店で初めて鉢合わせてから四ヶ月が経って、ようやく。
少し間があって、美智子は言いかけて、止めて、それからやはり言った。
「竜介さんに話したことはなかったんですけど・・縁談があるんです」
「縁談」と竜介は繰り返した。
足は止めない。
「父が連れてきた方で、正人さん、という方。司法修習生で、将来は裁判官を目指している。法律で弱者を守ると本気で信じている人で・・悪い人では全然ないんです。ただ、完璧すぎて、私が入る隙間がない気がして、ずっと答えが出せないままで」
竜介は何も言わなかった。
ただ、歩き続けた。
「大学の友人の恵子には『そんな良いお話、さっさとまとめちゃえばいいのに』と言われています」
美智子は少し笑った。
「みんな正しいんですよ、それぞれに。だから余計に・・」
「そうか」と竜介は言った。それだけだった。
「また神田で会いますね、きっと」と美智子は言った。
「神田が狭いんだ」と竜介は言った。
「俺が広いわけじゃない」
美智子は笑った。
竜介は笑わなかった。
でも口の端が、少しだけ動いた気がした。
二人は別々の方向へ歩き始めた。
コートのポケットの中で、美智子は「己」の活字を握りしめていた。
鋳鉄の、にぶい重さ。
き、と読む。
自分自身という意味の古い言い方。
誰かが教えてくれなければ、知らないままだった言葉の重さだった。




