表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/15

第七話 再会と、糸の始まり

 八月の末、竜介はまた神田に来ていた。


 今度は取材ではない。

 川崎の公害記事が一面に出て三日が経ち、企業側から正式な抗議文が届いて、社内が揺れている。

 デスクは「しばらく別ネタを当たれ」と言った。

 別ネタを探しに、竜介の脚は神保町に向いていた。


 なぜここなのか、自分でもうまく説明できない。

 ただ、この街の匂いが・・インクと古紙と、黄ばんだ空気が混ざった、あの匂いが・・頭の中を整理させてくれる気がした。

 社内がもめるたびに、デスクが圧力をかけてくるたびに、竜介は気づくとここに来ている。

 ペンで天下を獲ると言い続けてきた男の、情けない逃げ場かもしれなかった。


 すずらん通りを歩いていると、文具店の前に人が立っていた。

 美智子だった。

 引き戸を開けようとして、躊躇している。

 中を覗いて、また引き戸に手をかけて、また止まる。

 何か考えているらしかった。

 日傘を畳んで、小さな鞄を肩に掛けて、白いワンピースで、夏の石畳の上に立っている。


「どうした」と竜介は言った。

 美智子が振り返った。

 驚いた顔をして、それから少し笑った。

「また偶然ですね」

「お前がここに来るのは知ってる。俺もここに来る。神田が狭いだけだ」

「入ろうか迷ってたの」

「なんで」

 美智子は少し間を置いた。

「『己』という字を探しているんだけど、うまく見つかるかどうかわからなくて」

 竜介は美智子の横に並んで、引き戸を開けた。「探してやる」

 

 活字盤の引き出しを三つ開けて、竜介は「己」の字を見つけた。

 二分もかからなかった。

「お前、この字が読めるか」と竜介は言った。

 活字を美智子の手のひらに置きながら。

「己。おのれ、でしょ」

「もう一つ読みがある」

「・・つちのと?」

「そっちじゃなくて。『き』とも読む。自分自身という意味の古い言い方だ」


 美智子は活字を手のひらに乗せて、その重さを確かめた。

 鋳鉄の、にぶい重さ。

「どうして知ってるの」

「石川の親父が、よく使った。『己の仕事をしろ』って。標準語じゃないけど、あの言い方が好きだった」

 美智子はしばらく活字を見ていた。

 それから「この字にした」と言った。

「何の字にするんだ」

「今月の一文字」


 竜介は美智子を見た。

 毎月、タイプライターの活字を一文字買って帰る・・それは知っていた。

 女子大の学生ホールで活字盤の前に座っていたとき、「一葉か」と言いながら竜介は気づいていた。

 でも何のために買っているのかは聞いたことがなかった。


「集めてどうするんだ」

「特に何もしない。手のひらで重さを確かめるだけ」

「それだけか」

「それだけ」

 竜介はしばらく黙った。

 それから「まあいい」と言った。


 店主の老人が「はい『己』一つ、三円です」と言いながら小さな紙袋に入れて渡してくれた。

 美智子がコインを出すより先に、竜介が小銭を置いた。

「奢るの?」と美智子は言った。

「三円だ。気にするな」

 

 店を出ると、八月の残暑が待ち構えていた。

 光化学スモッグ注意報は今日も出ている。

 夕方になって少しだけ霞が薄くなったが、空はまだ黄色い。

 神保町の石畳に長い影が伸びている。

 商店街のラジオから、歌謡曲が流れてきた。

 ザ・タイガースか、誰かの曲か、美智子には判別できない。

 それでもその音が、黄色い夏の空気に溶けていた。


「どこか行くのか」と竜介は聞いた。

「帰るつもりだったけど」

「飯、食ったか」

 美智子は少し考えた。

「昼から何も」

「俺もだ。安い定食屋なら知ってる」


 それだけ言って、竜介は歩き始めた。

 美智子はその後を追いながら、少し笑った。

 誘い方が、この男らしかった。

「行きましょうか」でも「よろしければ」でもなく、「安い定食屋なら知ってる」・・それだけで、あとは勝手に歩き始める。

 正人さんなら、三つ候補を調べてきて、それぞれの特徴を説明してから選んでもらう。

 どちらが正しいとか間違いとかじゃない。

 ただ、この男の歩き方は、重力に正直だった。


 連れていかれたのは、神田川沿いの小さな定食屋だった。

 カウンター六席だけの店で、おかみさんが一人でやっている。

 壁に手書きのメニューが貼ってある。

 日替わり定食、五十円。

 カウンターの端に小さなテレビが置いてあって、NHKのニュースが流れていた。

 アナウンサーが「本日の万博入場者数は・・」と読み上げているのを、おかみさんが「また万博、万博」とぼやきながら音量を絞った。


「ここは安くてうまい」と竜介は言った。

「ただし、話しかけるとおかみさんが長い」

「どのくらい長いの」

「去年、川崎の取材帰りに来たとき、息子さんの話を四十分聞かされた」


 二人とも日替わり定食を頼んだ。

 鯖の味噌煮、大根の煮物、味噌汁、飯。

 飯は少し甘みのある米で、出汁のよく効いた味噌汁と合っていた。

 コンソメとは全然違う。

 でも、本物の味がした。


「公害の記事、読みました」と美智子は言った。

「どこで」

「父の書斎に神奈川政経新聞があって。社会面に出てたから」

「感想は」

「怖かった」

「なぜ」

「数字が怖かった。数字って、人を遠ざける言葉でもあるのに、あなたの記事の数字は、逆に人を近づけてくる気がした。なぜかわからないけど」

 竜介は鯖を箸でほぐしながら、少し黙った。


「数字の後ろに、子供の顔を書いたからだ」と竜介は言った。

「数字だけじゃ、人は動かない。顔が要る。声が要る。俺が取材で会った人間の顔と声が、数字の後ろにある・・それが伝わったんなら、書き方は間違ってなかった」

「見てきたから怒れる」と美智子は言った。

「そうだ」

「見てきたものを、言葉にできる」

「できるかどうかは、毎回わからない。でも書く。書かなかったら、見てきたものが俺の中で死ぬ」


 美智子は味噌汁を一口飲んだ。熱かった。

「あなたの書いたものを、もっと読みたい」と美智子は言った。

 竜介は顔を上げて、美智子を見た。

「神奈川政経新聞、図書館で読めますか」

「大きい図書館なら置いてある。縮刷版は神奈川県立に行けばある」

「行ってみます」

 竜介はしばらく美智子を見ていた。

 それから鯖の残りを口に入れて、「勝手にしろ」と言った。

 でもその声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

 帰り際、店を出たところで夕暮れの風が吹いた。

 黄色い空が少しだけ橙色に変わり始めている。

 神田川の水面に、その色が映っていた。

 蝉の声が、どこかで鳴っている。

 夏の終わりの声だった。


「名前、まだ聞いてなかった」と美智子は言った。

「津島竜介」

「有馬美智子です」


 竜介は頷いた。

 それだけだった。

 握手もしない。

 改めて何かを言うわけでもない。

 ただ、名前を交換した。

 神田の文具店で初めて鉢合わせてから四ヶ月が経って、ようやく。


 少し間があって、美智子は言いかけて、止めて、それからやはり言った。

「竜介さんに話したことはなかったんですけど・・縁談があるんです」

「縁談」と竜介は繰り返した。

 足は止めない。

「父が連れてきた方で、正人さん、という方。司法修習生で、将来は裁判官を目指している。法律で弱者を守ると本気で信じている人で・・悪い人では全然ないんです。ただ、完璧すぎて、私が入る隙間がない気がして、ずっと答えが出せないままで」

 竜介は何も言わなかった。

 ただ、歩き続けた。

「大学の友人の恵子には『そんな良いお話、さっさとまとめちゃえばいいのに』と言われています」

 美智子は少し笑った。

「みんな正しいんですよ、それぞれに。だから余計に・・」

「そうか」と竜介は言った。それだけだった。


「また神田で会いますね、きっと」と美智子は言った。

「神田が狭いんだ」と竜介は言った。

「俺が広いわけじゃない」

 美智子は笑った。

 竜介は笑わなかった。

 でも口の端が、少しだけ動いた気がした。


 二人は別々の方向へ歩き始めた。

 コートのポケットの中で、美智子は「己」の活字を握りしめていた。

 鋳鉄の、にぶい重さ。

 き、と読む。

 自分自身という意味の古い言い方。

 誰かが教えてくれなければ、知らないままだった言葉の重さだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ