第六話 遠くばかり見る男たち
七月の神田は、空が腐っていた。
光化学スモッグ注意報が出て五日目だった。
もう慣れた、と言えるほど目がチカチカして、喉の奥がひりひりする。
東京都が「屋外での激しい運動を控えるよう」と呼びかけているが、神保町の古書店主たちは今日も棚を歩道にはみ出させている。
配達員は今日も自転車を漕いでいる。
通勤客は今日も歩いている。
誰も激しい運動をしていない代わりに、誰も立ち止まってもいない。
腐った空の下で、東京は今日も動き続けていた。
大阪万博は折り返しを過ぎた。
入場者がついに五千万人を超えたとテレビが騒いでいる。
「人類の進歩と調和」・・その言葉が今日も流れている。
でも窓から見える神田の空は黄色く腐っていて、喉がひりひりする。
万博会場の上の空は澄んでいるのだろうか、と美智子はぼんやりと思う。
たぶん、同じ空だ。
有馬美智子は日傘を畳んで、喫茶「かぐら」の引き戸を開けた。
目的は特にない。
大学の帰り道で、喉が渇いて、脚が止まった。
それだけだ。
六十円のコーヒーを頼んで、窓際の席に座る。
雑誌を出してページをめくりかけたとき、引き戸が開いた。
「・・また、お前か」
津島竜介だった。
汗でシャツが背中に張り付いている。
ネクタイは緩めて首に引っかけているだけで、結んだ形跡すらない。
万年筆のインクで汚れた手に、取材ノートをつかんでいる。
靴は泥だらけだ。
スーツの袖口はほつれている。
額に髪が貼りついていて、それを払う気力も惜しんでいるように見えた。
神田で三度目の遭遇だった。
「偶然というのも、いい加減ではないの」と美智子は言った。
「神田が狭いんだ」
竜介は向かいの椅子を引いて、許可も求めずに座った。
「俺が広いわけじゃない」
「川崎の帰りですか」
「ああ」
「今日の空、向こうで見てきたんですね」
「横浜の方が酷い」
竜介はハイライトに火をつけて、窓の外を一瞥した。
「子供がマスクをして外を歩いてる。晴れの日にマスクが要る。五年前には誰も想像しなかった話だ。万博では入場者が五千万人を超えたとテレビが騒いで、月の石と太陽の塔に人が押し寄せてる。その同じ年に、空を吸うとマスクが要る」
「記事は続いてるの?」
「連載は続いてる。でも企業側が広告費で圧力をかけてきて、社内がもめてる」
竜介は煙草の煙を吐いた。
「広告を出してる企業を叩く記事は出せない・・地方紙の現実だ。でも書く。書かなかったら、あの子供の顔を一生引きずる」
迷いがない。言い切る。
美智子はその横顔を見た。
シャツは張り付いていて、靴は汚れていて、財布は今月も底をついているに違いない。
なのにペンを手放さない。
先週、正人さんから電話があった。
「感情で動く人間は、最終的に誰も救えない」・・穏やかな、誠実な声でそう言った。
正人に悪意はない。
正論だ。
だから胸の中に、冷たいものが澱んだ。
コーヒーが半分になったころ、竜介が口を開いた。
「三島の『英霊の聲』は読んだか」
唐突だった。
美智子は少し間を置いて「読みました」と答えた。
「どうだった」
「言葉が怖かった。美しくて、怖かった」
竜介は煙草を指に挟んだまま黙った。
「俺も読んだ。修平に勧められた。英霊たちは天皇のために死んだのに、天皇が人間宣言をした。その裏切りへの怒りが、あの本の核だ。怒りを文学にする男だと思った」
「修平さん、というのは」と美智子は聞いた。
「大学のころからの親友だ。今は護国義勇隊という民間の組織にいる。自衛隊の訓練施設で体を鍛えながら、日本の魂を守るとか言っている」
竜介は煙草の先を見た。
「命を捨てる覚悟だ、とも言う。五月に会ったとき、はっきりそう言っていた」
「本気で?」
「本気だと思う。本気だから・・怖い」
「あなたは賛同してるの?」
「賛同はしない」
きっぱりと言った。
「でも本気だとは思う。怒りが本物だということは、読めばわかる」
「本気の怒りが、人間を壊すことがある」と美智子は静かに言った。
竜介は少し視線を上げて、美智子を見た。
「三島の思想は好きじゃない」と美智子は続けた。
「天皇制も、武士道の死も、私には遠すぎる。でも三島の言葉の中には、本当に美しいものがある。『金閣寺』の一節とか、『潮騒』の海の描写とか。言葉だけを切り取ったら、どこまでも美しい。だから怖いんです。美しい言葉が、どこかへ向かっている気がして・・」
「どこへ、と思う」
「わからない。でも・・言葉が美しすぎると、人はその言葉の方向へ引きずられていく気がする。言葉に乗って、遠くへ行こうとする」
竜介は煙草を灰皿に押しつけた。
何かを言いかけて、黙った。
窓の外の黄色い空が、午後の光の中で揺れている。
進歩と調和という言葉の下で、今日も誰かが喉をひりひりさせながら歩いている。
美智子は、その黄色い空が嫌いじゃなかった。
嘘をつかない空だから。
「竜介さん」と美智子は言った。
名前を呼ぶのは、初めてだった。
「なんだ」
「あなたたち男の人は、いつも遠くばかり見ているのね」
竜介の手が、コーヒーカップの上で止まった。
「遠く?」
「国家とか、思想とか、スクープとか・・言葉が大きくなるほど、足元が見えなくなる気がする」
美智子はカップをソーサーに置いた。
「修平さんは命を捨てる覚悟だと言う。あなたはペンで天下を獲ると言う。全部、本気なんでしょう。本気で、その言葉を信じている。でも・・」
竜介は黙って美智子を見ている。
「でも、今日の昼に何を食べましたか」
沈黙が落ちた。
コーヒーカップの横で、竜介の指が少し動いた。
「・・食べてない」
「朝は?」
「カップラーメン」
「昨日の夜は?」
「居酒屋で焼き鳥を二本」
美智子は少し黙った。
「足元、大丈夫ですか」
竜介は答えなかった。
窓の外の黄色い霞を見て、取材ノートを指でとんとん叩いて、またコーヒーを一口飲んだ。
答えを出す気がないのか、答えが見つからないのか。
その横顔が、いつもより少しだけ疲れて見えた。
席を立つ前に、竜介が言った。
「お前はどうなんだ。足元、見えてるのか」
美智子は少し考えた。
「私は・・まだ、言葉が出てこない。言葉にしたいものはあるのに、タイプライターの前に座っても手が止まる。でも・・」
「でも、なんだ」
「うまく言えない」
美智子はゆっくりと言った。
「ただ・・誰かの付属品にはなりたくない気がする。それだけはわかる。うまく言えないから、活字を打っていると少しだけ近づく気がする」
竜介は何も言わなかった。
ただ、美智子を見た。
神田の文具店で初めて目が合ったときとも、女子大の学生ホールで「一葉か」と言ったときとも、違う目で。
勘定を割り勘にしようとしたら、竜介が先に六十円を二つ分置いた。
「奢るんですか」
「光化学スモッグで、お前も喉がひりひりしてるだろ。それくらいはいい」
引き戸を出ると、七月の熱気がまとわりついてきた。
腐った空の色が、午後の光の中でいよいよ黄色く深まっている。
竜介は取材ノートを脇に挟んで、横浜の方向へ歩いていった。
美智子は日傘を開いて、その背中をしばらく見ていた。
遠くばかり見る男の背中。
でも靴は、相変わらず泥だらけだった。
足元はちゃんと汚れていた。
遠くを見ながら、地面に根を張っていた。
それが、少しだけおかしかった。
そして・・少しだけ、安心した。
神田川の方からラジオの音が流れてきた。
岡林信康か、高石ともやか・・フォークソングの細い歌声が、黄色い空の下を漂っていく。
歌詞は聞き取れなかった。
でもその声は今日の空の色に似ていた。
濁っていて、それでもどこか澄んでいた。
嘘をつかない声だった。
美智子は歩き出した。
まだうまく言えない言葉を、胸の中で転がしながら。
正人のコンソメも、竜介のハイライトも、三島の言葉も、修平の覚悟も、光化学スモッグの黄色い空も・・全部が同じ昭和四十五年の空気の中に静かに浮かんでいた。
美智子にはまだ、自分の言葉がなかった。
でも言葉を探していることだけは、腐った空の下で、はっきりとわかっていた。




