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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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第五話 よど号の激震と、友の影

 三月三十一日の朝、編集室は戦場になった。


 竜介がデスクに着いたのは午前八時だった。

 川崎の取材ノートを開いた瞬間、整理部の村田が電話口で怒鳴った。

「よど号、ハイジャックされた!」


 ダイヤル式の黒電話が一斉に鳴り始めた。

 日航三五一便「よど号」。

 羽田発福岡行きの国内線。

 午前七時三十三分、離陸直後に赤軍派の九名に乗っ取られた。

 乗客百三十一名、乗員七名。

 犯人グループはコックピットに押し入り、ステーキナイフとダイナマイトを突きつけ、「われわれはあしたのジョーである」と宣言した・・。


 あしたのジョー。

 竜介はその言葉が頭から離れなかった。

 まだ連載中の漫画だ。

 ボクシングの話で、貧しい少年が這い上がっていく話だ。

 それを、乗っ取り犯が自分たちの名前にした。

 なぜその言葉なのか。

 なぜあの漫画なのか。

 竜介にはわかった気がした。

 わかって、少しだけ怖かった。


 鬼塚デスクが煙草を三本立て続けに吸いながら「津島、お前は川崎取材を続けろ。よど号は古参が対応する」と言った。

 竜介は「わかりました」と答えた。

 それしか言えなかった。


 その日、川崎の工場を訪ねながら、竜介はずっとよど号のことを考えていた。

 飛行機が朝鮮半島の上空を飛んでいる。

 乗客が人質になっている。

 赤軍派の若者たちが、北朝鮮への亡命を要求している。

 彼らは本気だ。

 本気で何かを信じて、命をかけている。


 茶色い空の下でマスクをして砂場で遊んでいた子供に、竜介は怒りを感じた。

 その怒りで一年間、取材ノートを埋めてきた。

 怒りの方向は全然違う。

 でも、本気の熱さだけは・・同じような気がして、竜介はその感覚を少し持て余した。

 本気の熱が、出口を間違えると、飛行機を乗っ取る。

 その言葉が、この五月もまだ頭の中で鳴っていた。


 五月の横浜は、どこか苛立っていた。

 よど号事件から二ヶ月が経つ。

 犯人グループは北朝鮮・平壌に入り、乗客は無事解放された。

 事件は「終わった」。

 でも街の空気は、まだ落ち着かない。

 駅前では全共闘のビラ撒きが続いていて、ヘルメットを被った学生が「帝国主義打倒」と書いた横断幕を掲げている。

 その三十メートル先に機動隊が盾を並べて立っている。

 通勤客はその間を縫うように歩き、誰も目を合わせない。

 見ていない振りが、この国の礼儀になっていた。


 万博の入場者が四千万人を超えたとテレビが騒ぐ。

「人類の進歩と調和」という言葉が今日もどこかで繰り返されている。

 その同じ時代の同じ空の下で、飛行機が乗っ取られ、学生と機動隊がぶつかり、工場の煙突が茶色い煙を吐き続けている。

 どれが本当のこの国で、どれが嘘なのか・・竜介にはまだわからない。

 全部が本当で、全部が同時に起きている。

 それがこの昭和四十五年という年だった。


 竜介はハイライトに火をつけながら、桜木町の駅前を横切った。

 待ち合わせの喫茶店に入ると、奥の席に城島修平が座っていた。


 城島修平と竜介が出会ったのは、三年前の大学の入学式だった。

 同じ法学部で、最初はただの顔見知りだった。

 修平は竜介より少し細くて、少し静かで、本をよく読んでいた。

 議論になると声を荒げない代わりに、一言一言が研いだ刃物みたいに鋭かった。

 竜介が「そこまで言い切れるか?」と返すと、修平は「言い切れる根拠があるから言う」と答えた。


 一度だけ、修平が泥酔したことがある。

 そのときだけ、修平は大声で笑った。

 次の朝はもう、いつもの修平に戻っていた。


 就職活動の季節に、修平は会社説明会に一度も行かなかった。

 代わりに修平が選んだのは、「護国義勇隊」だった。

 ある民族主義団体の青年部として結成された私設組織だ。

 隊員は五十名ほど。

 自衛隊の訓練施設に研修生として入り込み、剣道、空手、体術の稽古を積む。

 指導者は元陸軍将校の思想家で、「日本の魂と武の伝統を守る」ことを掲げていた。

 機関誌を出し、街頭演説を打ち、学生の勧誘を続けていた。


 竜介はその話を修平から初めて聞いたとき、「変な集まりだな」と思った。

 ヘルメットの全共闘とも、背広の政治家とも違う、どこか別の場所にいる人たちの気がした。

 でも修平の口から語られる思想は、簡単に笑い飛ばせるものではなかった。


 修平はコーヒーに砂糖を入れず、スプーンで三回だけかき混ぜて置いた。

「竜介、よど号をどう見てる」と修平は静かに聞いた。

「本気の熱だとは思う。でも方向が見えない」

「そうだ」修平は頷いた。

「彼らは『壊す』ことを目標にしてる。壊した先に何があるかは言わない。言えない。なぜなら彼らの思想は輸入品だからだ。マルクスも毛沢東も、この国の土から生えてきた言葉じゃない。外から借りてきた理屈で、この国の形を壊そうとしている。壊した後に何が残るか、誰も答えを持っていない」


「じゃあ護国義勇隊は、その答えを持っているのか」

 修平は少しだけ間を置いた。

「俺たちが守ろうとしているのは、制度じゃない」と修平は言った。

 声に、静かな熱があった。

「この国の形そのものだ。戦後二十五年、日本は豊かになった。カラーテレビが普及して、新幹線が走って、万博が開かれた。でも豊かさと引き換えに、魂を手放した。自分の国を自分で守る意志を、経済成長と交換した。憲法は占領下に書かれた。自衛隊は軍隊として認められていない。沖縄はまだ返ってきていない」


「本土復帰の交渉は続いている」と竜介は言った。

「交渉じゃ取り戻せないものがある」

 修平の目が、少し鋭くなった。

「制度は取り戻せても、魂は取り戻せない。二十五年間、この国は他人の言葉で自分を定義してきた。その空洞は、経済成長では埋まらない」


 竜介はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。

「だから身体を鍛えるのか」

「身体を鍛えるのは、戦争がしたいからじゃない」

 修平は静かに、しかし確かな声で続けた。

「いざというときに、自分の国のために死ねる覚悟を持った人間が存在しなければ、この国の魂は空洞のままだ。豊かさの中の空洞・・それが一番怖い。進歩と調和の旗の下で、誰もが空洞を抱えて笑っている」


「死ねる覚悟」と竜介は繰り返した。

「そうだ」

「お前は、本当にそれができるのか」


 修平は少し間を置いた。

 コーヒーカップを両手で包むように持って、窓の外を見た。

 窓の向こうには桜木町の交差点が見えた。

 信号が変わって、人が動いて、また信号が変わる。

 万博帰りらしい家族連れが、土産の紙袋を提げて歩いている。

 子供が袋を揺らしながら笑っている。


「正直に言う」と修平は言った。

「わからなくなることがある」

 竜介は黙って修平を見た。


「組織の思想は正しいと思っている。でも・・訓練に参加するたびに、理屈と身体の間に、少しずつ溝ができる気がする。隣に立っている奴が本当に思想を理解しているのか、それとも単に興奮しているだけなのか。俺自身が、本当に覚悟を持っているのか。わからなくなる」

「よど号の連中も、そうだったんじゃないか」と竜介は言った。

「本気の熱が、どこへ向かっているかわからなくなって、飛行機を乗っ取った」

 修平は少し目を細めた。

 長い沈黙が落ちた。


「・・そうかもしれない」と修平は言った。

 それだけだった。

「お前に話せるのは」と修平はゆっくりと続けた。

「お前が、すぐに賛成しないからだ。賛成しない奴と話すと、自分が何を考えているのかが、少しだけわかる」


 帰り際、修平は財布から一枚の写真を出した。

 訓練の写真だった。 

 山の中の広場で、数十人が整列している。

 全員が揃いの訓練着を着て、正面を向いている。

 誰も笑っていない。

 誰もが、真剣な顔をしていた。

 その中に修平の顔があった。


「今年の秋か冬に、何かがある」と修平は言った。

「具体的なことはわからない。でも、組織の中の空気が変わってきた。熱が、別の何かに変わろうとしている気がする」

「止められないのか」

「俺には止める立場がない」

 修平は一瞬だけ目を伏せた。

「それに・・俺自身が、まだ答えを出せていない」


 喫茶店を出ると、五月の風が吹いた。

 修平は桜木町の方へ歩いていった。

 竜介はしばらくその背中を見ていた。

 細い背中だった。

 でも真っ直ぐだった。

 折れるような、折れないような、どちらともとれる背筋で、修平は人混みの中に消えていった。


 竜介はハイライトに火をつけた。

 あしたのジョー、という言葉がまた頭の中で鳴った。

 這い上がろうとして、何かに向かって突っ走って、気がついたら出口のない場所にいた・・そういう人間の話だ。

 修平は違う、と竜介は思いたかった。

 修平はちゃんと考えている。

 でも、考えている人間でも、間違った方向へ走ることはある。

 それが怖かった。


 思想より先に、人間がいる。

 ペンで天下を獲ると言い続けてきた男が、今夜だけはそのことを確かめながら、横浜の夕暮れの中を歩いた。

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