第四話 タイプライターの音色
東都女子大学の購買部は、昼休みになると戦場になった。
パンの棚の前に女学生が三人四人と固まって、「ねえ明日の合コン、何着ていく?」「やっぱりマキシスカートじゃない、今年は絶対マキシよ」と声を揃えている。
端のテーブルでは『non-no』の創刊号を囲んだ四人組が「このワンピース、どこで売ってるの?」と騒いでいた。
注文カウンターの脇に貼ってあるポスターには「大阪万博 いざ月の石へ!」と刷ってあって、誰かがマジックで「行ってきた!感動!最高!」と太く書き込んでいる。
有馬美智子は定食のトレーを持ったまま、窓際の空席を探した。
四月の購買部は、いつもこの調子だ。
昨年の秋から今年の春にかけて、この学年の話題はほぼ三つに集約されている・・万博、合コン、就職か結婚か。
三つ目だけは少し温度が違う。
「就職か結婚か」ではなく、正確には「就職してから結婚か、さっさと結婚か」だ。
「美智子! こっちこっち」
田中恵子が手を振っていた。
同じ文学部の二年生で、入学式の日から何となく一緒にいる。
明るくて、よく笑って、誰にでも気が利く。
定食のトレーを持ってくるスピードが、美智子の二倍は速い。
「ねえ正人さんとのお食事、どうだった? 詳しく教えてよ」
恵子はコッペパンを割りながら言った。
「霞ヶ関の最上階のフレンチでしょ? もう最高じゃない」
「コンソメが透き通っていて・・」
「そっちじゃなくて!」
恵子は笑いながらパンを口に入れた。
それから少し声を落として「正人さん、そろそろ本気でしょ。お父様も乗り気みたいだし。美智子、もう決めちゃえばいいじゃない」と言った。
「そうみたいね」と美智子は曖昧に答えた。
「うらやましい。弁護士か裁判官でしょ、将来。ハコスカに乗ってて、大蔵省のご子息で・・女の幸せって、結局は最初の一手よね」
美智子は定食の魚の煮付けを箸でつついた。
「最初の一手?」
「だって、いい人と結婚したら、あとの人生は安泰じゃない。どうせ就職しても寿退社するんだから、それなら早めにいい縁談まとめた方が絶対賢いわよ。お父様も同じお気持ちだと思うし」
恵子に悪意はない。
これが当たり前の話だと、本気で思っている。
事実、この大学の女学生の大半が、同じことを言う。
入学式のオリエンテーションで指導教官が「良縁に恵まれるよう」と言ったとき、誰も違和感を覚えなかった。
就職課の掲示板に求人票が貼られているが、「一般職(女子)」の欄に「二十五歳定年制」と書いてある会社がいくつもある。
それが普通だった。
普通で、常識で、誰も疑っていなかった。
美智子もその空気の中で育ってきた。
疑ったことがなかった・・というより、疑う言葉を持っていなかった。
ただ、最近は少し、違う。
何が違うのかはうまく言えない。
ただ「最初の一手」という言葉が、どこかひっかかった。
人生が将棋の盤面みたいに、手順があって、正解があって・・そうなのかもしれない。
でも、何かが。
「美智子、聞いてる?」
「ごめん、聞いてた」
「正人さんのこと、好きじゃないの?」
美智子は少し考えた。
「嫌いじゃないわ」
「嫌いじゃない、って・・」恵子は苦笑した。
「まあ、一緒に暮らせばそのうち好きになるって、うちのお母さんも言ってたけど」
魚の煮付けが、冷めていた。
午後の授業は近代文学の講義だった。
教授が黒板に「大正ロマン」と書いて、与謝野晶子と平塚らいてうの話をした。
「この時代の女性たちは、自由と愛を求めて闘った。しかし当時の社会はそれを許容しなかった」。
前の席の女学生が、ノートに何かを書き写している。
後ろの席から寝息が聞こえてくる。
隣の子は、そっとハンドバッグから少女漫画を取り出して読み始めた。
美智子は教授の声を聞きながら、窓の外を見た。
四月の空が青かった。
黄ばんでいない。
今日だけは澄んでいた。
与謝野晶子の歌を、美智子は高校の授業で習った。
「山の動く日来る」・・そんな一行があった気がする。
山が動く、という想像。
それが美智子には面白かった。
山は動かない、と誰もが思っている。
でも動くかもしれない。
動くと言い張ることが、詩なのかもしれない。
最初の一手を打ってしまったら、残りは手順通りに進むだけになる。
手順通りに進む人生は・・
チャイムが鳴った。
美智子は図書館ではなく、学生ホールの端へ向かった。
学生ホールの隅に、一台だけ和文タイプライターが置いてある。
昭和三十二年製の古い機種で、キーが少し重くて、「ツ」の活字がたまに引っかかる。
学生の誰も使わないから、いつも空いている。
それでも美智子はこの機械が好きだった。
去年の冬から、講義の合間にここへ来ている。
活字盤を引き出して、使う字を探す。
今日は読書ノートの清書だ。
先週読み終えた樋口一葉の『にごりえ』から、気になった一節を書き写すつもりでいた。
ノートに走り書きした文字を確かめて、活字を選んで、打ち込む。
カチ、カチ、カチ・・。
乾いた、軽い音が手のひらを通して伝わってくる。
この音が好きだ。
この感触が好きだ。
頭の中にある言葉を、一文字ずつ具体的な金属の塊に変換していく感覚。
「に」を選んで「ご」を選んで「り」を選んで・・それだけで、頭の中の霧がほんの少しずつ晴れていく気がする。
ペンで書くより時間がかかる。
効率が悪い。
恵子に「なんで活字なんか打ってるの? ボールペンで書けばいいじゃない」と言われたことがある。
うまく説明できなかった。
「重さが好きなの」と言ったら、「変な子ね」と笑われた。
変なのかもしれない。
でも活字の重さが、美智子には正直なものに感じられた。
コンソメの透明さより。
ハコスカの静かなエンジン音より。
最初の一手という言葉より。
カチ、カチ、カチ。
「・・なんか、泥だらけじゃない人もいるんだな」
顔を上げると、男が立っていた。
竜介だった。
神田の文具店で鉢合わせた、あの記者。
インクとタバコの匂いの、勢いだけで飛び込んできた男。
今日は雨でも濡れていないが、靴はやはり汚れていた。
スーツの袖口はやはりほつれていた。
髪は相変わらず無頓着に額にかかっている。
「あなた・・神田の」
「お前こそ、なんでここにいる」
「私はここの学生よ。あなたこそ」
「取材。学生運動の話で、学生部に話を聞きに来た。そこから迷子になった」
竜介は壁に背をもたせかけ、美智子のタイプライターを眺めた。
「読書ノートの清書」と美智子は言った。
聞かれてもいないのに。
「活字で?」
「活字で」
「重いだろ。ボールペンの方が早い」
「早さが目的じゃないから」
竜介は少し黙った。
それから「一葉か」と言った。
美智子は驚いて顔を上げた。
「なぜわかるの」
「活字盤に『に』『ご』『り』って並んでる。『にごりえ』だろ」
竜介はポケットからハイライトを出して、唇に挟んだ。
火はつけない。
学内だからか、習慣なのか。
「面白いか?」と聞いた。
「面白いというより・・重いの。明治の話なのに、今読んでも重い」
「当たり前だろ。人間が重いんだから」
それだけ言って、竜介は廊下の方へ歩き始めた。
「あなたの靴、また泥だらけね」と美智子は言った。
「お前の手、またインクで汚れてる」
竜介は振り返らずに言った。
廊下の角を曲がって、消えた。
美智子は自分の右手を見た。
活字盤を触っていた指先に、またにぶい黒が染みている。
カチ、カチ、カチ・・美智子は活字を打ち続けた。
人間が重いんだから。
その一言が、頭の中でしばらく鳴っていた。
恵子の「最初の一手」と、正人の「感情より設計」と、竜介の「人間が重いんだから」・・三つの言葉が、頭の中でばらばらに浮かんでいた。
どれが正しいのか、美智子にはまだわからなかった。
ただ、活字の重さだけは、手のひらにはっきりと感じられた。
それだけが今日も、頭の中の霧に形を与えていた。




