第三話 完璧すぎる善意
白いハコスカが、桜の並木道に滑り込んできた。
昭和四十五年四月。
東京オリンピックから六年、大阪万博の熱狂がまだ醒めやらない春だ。
街には新しいものが溢れている。
カラーテレビ、クーラー、カー・・新・三種の神器と呼ばれて、持っているか持っていないかが話題になる。
日本は豊かになった。
豊かになり続けている。
それはきっと正しいことで、美しいことのはずだった。
有馬美智子は御茶ノ水の交差点で、その車を見た。
日産スカイライン。
通称ハコスカ。
昨秋に発売されたばかりの新型で、友人の恵子が「あれに乗ってる男の人って、もう勝ち組よね」と言っていた車だ。
助手席のドアが内側から開く。中から榊正人が降りてきた。
仕立ての良い紺のスーツ。
光沢のある革靴。
腕に巻いたオメガの時計が、四月の午後の陽光を弾いた。
髪は完璧に整っている。
乱れている場所が、どこにもない。
「待たせてごめん」と正人は言った。
「会議が少し延びて」
「ううん、今来たところ」
美智子は助手席に乗り込んだ。
車内にかすかにレザーの匂いと、正人の使うサントリーのアフターシェーブの匂いが混じっている。
シートは柔らかく、ダッシュボードは傷一つない。
エンジンをかけると、静かに動き出した。
榊正人という男を、美智子が初めて見たのは昨年の秋だった。
父の惣一郎が「一度会ってみなさい」と言って連れてきた。
「司法修習生で、父上は大蔵省のお偉方だ。お前にはもったいないくらいの相手だ」・・父がそう言うとき、いつも微かに背筋が伸びている。
父が緊張するほどの家の子だ、ということだった。
初対面の正人は、美智子の予想より若く見えた。
二十三歳だと聞いていたが、落ち着きのある物腰は三十代と言っても通りそうだった。
「有馬美智子さん、ですね。お会いできて光栄です」と言ったとき、噛まない。
滑らない。
完璧な発音だった。
それからの半年、二人は月に一、二度会った。
行き先はいつも、正人が選んだ。
霞ヶ関のフレンチ、赤坂の鉄板焼き、銀座のバー。
どの店も予約が取りにくい場所で、いつも奥のテーブルに案内された。
正人は美智子の椅子を引いて、メニューを開いて、ソムリエと話してワインを選んだ。
選んだものはいつも美味しかった。
外れたことが、一度もなかった。
その日、正人が連れていってくれたのは霞ヶ関の最上階にあるフレンチレストランだった。
エレベーターが最上階で開くと、東京の街が窓の向こうに広がっていた。
東京タワーが夕陽に染まっている。
その下に道路が格子状に延びて、小さな車が動いている。
全部が見えた。
全部が、整然としていた。
ウエイターが二人を奥の席へ案内する。
白いテーブルクロス、銀色のカトラリー、一輪の花。
席につくと、フランス語で書かれたメニューを広げてくれた。
「今日のお薦めはホワイトアスパラと、仔牛のソテーです」とウエイターが言った。
正人はメニューから顔を上げずに「コンソメは今日も澄んでいますか」と聞いた。
「はい、本日のコンソメは特にきれいに仕上がっております」
「では最初にコンソメを。彼女にも同じものを」
美智子は自分のメニューをまだ開いていなかった。
正人が選んでくれるから・・と、気づけばそう思うようになっていた。
いつからそうなったか、はっきりとは言えない。
運ばれてきたコンソメは、透き通っていた。
一滴の濁りもなく、器の底の模様まで見えるくらい、透明だった。
口に含むと、熱くて、深くて、完璧な味がした。
「おいしい」と美智子は言った。
「ここのコンソメは信頼できる」と正人は頷いた。
「シェフが十年変わっていない。一貫性は信頼の証だと思う」
その言葉が、正人らしかった。美智子は少し笑った。
食事が進むにつれて、正人は話し始めた。
口調はいつも静かで、早くない。
一文が終わるたびに、短い間がある。
「万博、行きましたか」と正人は聞いた。
「まだなの。あなたは?」
「先月、視察を兼ねて。太陽の塔を正面から見ると、少し圧倒される。岡本太郎という人は、秩序より感情に訴えることを選んだ。それが大衆には受ける。でも僕は、感情より設計の方が信頼できると思っている」
美智子はコンソメを一口飲んだ。
感情より設計。
正人がよく使う言葉の組み合わせだ。
「法律の話もそうだ」と正人は続けた。
「今の学生運動、ああいう動きは・・気持ちはわかる。怒りは本物だと思う。でも感情で社会を変えようとするのは非合理だ。制度を変えるしかない。法と秩序の中で、丁寧に積み重ねるしかない。それが遠回りに見えても、最終的には一番多くの人を救う道だと僕は信じている」
仔牛のソテーが運ばれてきた。
切り込みを入れると、中がきれいなピンク色だった。
「貧しい人たちのために、完璧な制度を作りたい」と正人は言った。
「感情に流されず、一つ一つ積み上げる。それが僕の仕事だと思っている」
美智子は正人を見た。
嘘はない。
本気だ。
この人は本当にそう思っている・・それが美智子にはわかった。
善意だ。
本物の、純粋な善意だ。
正人に悪意は一ミリもない。
なのに、どこかが冷たかった。
何が冷たいのか、美智子にはうまく言えない。
コンソメは熱い。
ソテーも熱い。
正人の言葉も、熱を持っている。
でも何か・・何かが届かない。
透明なガラス越しに話しているような、あの感覚。
窓の外に東京が広がっている。
夜になって、灯りが増えた。
きれいだった。
完璧に、美しかった。
デザートのカスタードムースが運ばれてきたとき、正人がスプーンを置いて、美智子を見た。
「美智子さんのことを、父に話しました」
美智子の指が、スプーンの柄の上で止まった。
「父も、ぜひ一度会いたいと言っています。正式な場を設けることも、そろそろ考えていいのではないかと思っていまして」
言葉は丁寧で、温かくて、誠実だった。
「守る」「養う」・・そういう言葉は一つも出てこなかった。
でも意味は、ちゃんと伝わった。
「……少し、考えさせてください」
それだけ言うのが精一杯だった。
正人の顔が、わずかに曇った。
あの完璧な落ち着きに、ほんの少しだけひびが入った気がした。
でも次の瞬間にはもう、元通りの静けさに戻っていた。
「もちろんです。急かすつもりはありません」と正人は言った。
「ただ、僕は本気ですから」
帰り、ハコスカの助手席に座りながら、美智子は東京の夜景を見ていた。
正人の運転は静かで滑らかだった。
急ブレーキを踏まない。
車線変更も、合図を必ず出してから、ゆっくりと。
この人の運転は、この人の言葉に似ている・・と美智子は思った。
車が信号で止まった。
「あなたが不安に思うことがあるなら、何でも話してください」と正人は言った。
前を見たまま、静かな声で。
美智子は窓に額を近づけた。ガラスが冷たかった。
コンソメは熱くて透き通っていて、完璧な味がした。
正人の言葉も、そうだった。
熱くて、透き通っていて、完璧だった。
なのに・・なのに、どうして自分は、いつもこのガラスの冷たさだけを確かめてしまうのだろう。
信号が青になった。ハコスカが、静かに動き出した。
助手席の窓の外に、黄ばんだ夜の空がまだ続いていた。




