第二話 神奈川新聞社、戦場の日々
「津島! ネタはどこまで進んでる!」
鬼塚デスクの怒鳴り声が、ハイライトの煙ごと飛んできた。
神奈川政経新聞の編集室は、午後九時を回っても昼間と同じ温度だった。
ダイヤル式の黒電話が三台同時に鳴っていて、整理部の記者がゲラ刷りを抱えて走り回り、輪転機の低い地響きが床下からずっと伝わってくる。
蛍光灯の下、デスクの灰皿には吸い殻が山になっていて、その頂上にまた新しいハイライトが刺さっていた。
津島竜介は取材ノートを開いたまま、「川崎の下請け工場、明日もう一回当たります」と答えた。
「明日!? 今日中に出せと言ったんじゃないのか! お前が一週間ここに書いてた数字、全部ゼロか!?」
「数字は出てます。でも企業側の確認が取れてない。もう一件、証言が・・」
「じゃあ今夜中に取ってこい! それが仕事だろうが!」
デスクは別の電話を取りながら、竜介には背を向けた。
竜介は立ち上がって上着を掴んだ。
どこかの工場の煙が染み込んだ上着だ。
袖口のほつれを指でなぞって、そのまま無視して袖を通した。
ネクタイは最初から締めていない。
整理するつもりで積んだ書類の山が崩れたが、振り返らずにエレベーターを降りた。
外は春の夜風で、工業地帯の方から潮と油の混じった匂いが流れてきた。
黄ばんだ空は夜になっても完全には晴れない。
街灯の光が霞の中で滲んでいた。
竜介はハイライトに火をつけて、取材ノートをもう一度開いた。
川崎。
公害。
喘息の子供。
企業名。
数字。
ページはぎっしりと埋まっている。
一ページに平均二百字。
走り書きだから自分でも読めない字がある。
でも頭の中には全部入っている・・どの工場の煙突から、何日の何時に、どんな色の煙が出たか。
工場脇の路地で、マスクをしながら洗濯物を干していた主婦の顔も。
財布を確かめた。
千二百円。
今月の給料はもう底をついている。
タクシーは無理だ。
川崎まで京浜急行。
終電には間に合う。
歩き始めながら、竜介はぼんやりと考える。
ペンで天下を獲る。
大学のころ、どこかで拾った言葉だった。
誰の言葉かも覚えていない。
でも今でも時々、頭の中で鳴る。
地方の農家の長男。
奨学金で大学へ行き、就職試験を何社か受けて、ここしか受からなかった。
大手ではない、神奈川の地方紙。
正直、情けなかった。
でもこの匂いは嫌いじゃない・・インクと活字と、デスクのタバコと、燃やした原稿が全部混ざった、あの編集室の匂い。
実家は米と土の匂いだった。
同じくらい、体の芯まで染みてくる。
竜介が神奈川政経新聞に入社して、今年で二年目になる。
社屋は横浜の桜木町から少し外れた、五階建てのビル。
一階が輪転機、二階が印刷、三階が編集室、四階が営業と総務、五階が社長室。
竜介はほぼ三階だけで生きている。
アパートは横浜の外れ、六畳一間、共同便所付き。
食事は近くの定食屋か、カップラーメンか、取材先で拾い食いするしかない。
実家から月に一度、米が届く。
段ボール箱に五キロか十キロ、必ず母の手紙が一緒に入っている。
「体に気をつけろよ」
「早く帰れ」
「嫁の話はないか」・・いつも同じ三行だ。
達筆で書かれていて、その字を見るたびに竜介は少しだけ胸が痛くなる。
米袋は台所に放置したままになっている。
炊く時間がない、というより、炊くことを思い出す暇がない。
釜を出してきて、米を研いで、水を計って・・その一連の手順が、どうしても後回しになる。
締め切りが先で、取材が先で、原稿が先で、眠ることが先になる。
だから先月のと今月のが、封も開けないまま台所の隅で重なっている。
先輩の木下廣には「石川出身のくせに米を炊かない男だな」と笑われた。
竜介は「ほっとけ」と答えた。
木下は入社四年目で、竜介に取材のすべてを教えてくれた男だ。
「ドブ板を踏め。机の上でわかることは何もない。足を使え、耳を使え、頭は後だ」が口癖で、実際にそれだけで六本の特ダネをものにしている。
要領が良く、夜の街の裏ネタに強い。
竜介が公害取材を始めたときも「面白いじゃないか」と言いながら、裏で鬼塚デスクに話を通してくれた。
信頼できる人間だと思う。
ただ、木下はあまり「怒り」がない。
竜介が煙突の数字を見せると「そうか」と言い、「でもこれで企業の名前は出せないな」とすぐ言う。
現実的だ。
合理的だ。
正しい。
でも竜介は、あの煙突を見たときの怒りを忘れたくない。
去年の秋、川崎の工場地帯を初めて取材に行ったとき・・空が茶色かった。
晴れの日なのに、空が茶色かった。
路地を歩いていたら、五歳くらいの男の子がマスクをしたまま砂場で遊んでいた。
その顔が、北陸で一緒に育った弟の顔に重なった。
弟は今年、地元の農業高校に進学した。
父から「元気にやってる」という手紙が来た。
あれから竜介は一年間、その怒りで動いている。
怒りが、取材ノートに詰まっている。
怒りが、ハイライトを吸い続ける理由だ。
三日後、竜介は証言を取れた。
工場の下請けで塗装を担当していた五十代の男で、「公害だとわかっていながら報告書を改ざんした」という内部告発だった。
会うまでに五回、連絡を取った。
逃げられた回数は二回。
最後は工場の裏口で、午前五時に待ち伏せた。
「話してもいいか」と男が聞いた。
「書いたらクビになるぞ」
「匿名にします。でも書きます」と竜介は答えた。
「なぜそんなに書きたい」
「茶色い空の下で、マスクして砂場で遊んでる子供を見たからです」
男は黙った。
それから「そうか」と言って、話し始めた。
一時間半、竜介はノートに書き続けた。
編集室に戻ったのは昼前だった。
木下が「ネタ取れたか?」と聞いた。
「取れました」と答えながらデスクに向かったとき、鬼塚デスクが電話を片手に振り返り、「おい津島! 証言出た話、本当か!?」と怒鳴ってきた。
「本当です」
デスクはハイライトを灰皿に押しつけた。
「書け。今夜中に三千字。一面で出す」
竜介は上着を脱いで、椅子に座った。
原稿用紙を出す。
万年筆を出す。
インクが切れかけていたので、補充した。
指に黒いインクが染みた。
拭かずにそのまま、書き始めた。
怒りを文字にする作業は、静かで熱い。
川崎の空の色を書く。
男の子のマスクを書く。
下請け労働者の声を書く。
改ざんされた数字を書く。
一行一行が、取材ノートの走り書きから抜け出して、読める言葉になっていく。
午後十一時。
原稿三千二百字。
デスクに渡すと、鬼塚は黙って読み始めた。
タバコに火をつけて、それを吸い終わるまで読んだ。
「書けるじゃないか」と言った。
「赤入れて返す」
竜介は廊下に出て、缶コーヒーを買った。
冷えていた。
飲みながら、取材ノートを閉じた。
ふと、神田の文具店のことを思い出した。
あの日、傘もなく飛び込んで、三島の本を先に手に取っていたと言い張った女のこと。
インクで汚れた手を、何も言わずに見ていた目のこと。
あの目は・・活字を読むときの目に、少し似ていた。
なんでそんなことを思ったのか、自分でもわからなかった。
缶コーヒーが空になった。
アパートに帰れば、台所に米袋が積んである。
今夜も炊かないまま、朝になるだろう。
明日は川崎の別の工場を当たる予定で、その前に証言者に礼の電話を入れなければならない。
竜介はハイライトに火をつけて、夜の横浜の街を見た。
工業地帯の方に、今夜も霞がかかっていた。
ペンで天下を獲る。
まだその言葉を信じていた。
信じながら、あの茶色い空だけが頭から離れない。
怒りは武器だ・・でも怒りだけじゃ、いつか尽きる気もした。
尽きないように、何かが必要な気がした。
何かが、まだわからなかった。




