第一話 神田の雨と活字の重さ
四月の神田神保町は、空がすでに黄ばんでいた。
光化学スモッグという言葉が新聞に出始めて、まだ日が浅い。
東京都が注意報を出すようになったのも今年からだ。
晴れているのに空が霞んでいる。
喉の奥がかすかにひりひりする。
それが昭和四十五年の春の、正直な姿だった。
万博はきょうも賑わっているらしかった。
朝の通勤電車の吊り広告に「人類の進歩と調和」と刷られたポスターが貼ってある。
月の石が来た、太陽の塔が建った、七十七か国が集まった・・テレビはそればかり流している。
日本は豊かになった。
豊かで、輝いていて、まっすぐ未来へ向かっている。
なのに、空は黄ばんでいる。
喉がひりひりする。
有馬美智子は傘代わりに日傘を開き、神田神保町の石畳を歩いていた。
白いトレンチコートの裾が風に揺れる。
靴底に石畳の凸凹が伝わってくる。
この街が好きだ、と美智子はいつも思う。
理由はうまく言えない。
古書店の棚が歩道にはみ出していて、値札もついていない本が黄ばんだ空の下に並んでいる。
通り過ぎる人たちが、みんな少し俯いて歩いている。
誰も進歩と調和の話をしていない。
専修大学の脇を抜けて、すずらん通りに入る。
目当ての文具店の引き戸を開けると、インクと紙の匂いが湿った外気を押し返すように漂ってきた。
この店に来るようになったのは、去年の冬からだ。
お目当ては和文タイプライターの活字・・一文字だけ選んで買って帰る。
「か」でも「の」でも、何でもいい。
手のひらに乗せたときの重さを確かめたくて、それだけの理由で通っている。
恵子には「変な趣味ね」と笑われた。
正人さんは「それは何の役に立つの?」と聞いた。
うまく答えられなかった。
役に立つかどうかじゃなくて・・言葉って、頭の中の抽象じゃなくて、こんなに重くて具体的な一文字一文字なんだ、という感覚を確かめたくて。
でも、そう言っても伝わらない気がして。
引き出しを引き出して、「憂」の字を探す。
先週、神保町の古書市で三島由紀夫の『憂国』限定版を手に入れた。
函入り、扉にサイン入り、一万二千円。
美智子にとって軽くない出費だったが、手放せなかった。
その最初の一文字を、今日は手のひらで感じてみたかった。
活字盤の引き出しを開けながら、美智子はぼんやりと考える。
先週の土曜日、正人さんが白いハコスカで迎えに来た。
霞ヶ関の最上階のフレンチで、フランス語訛りのウエイターがコンソメを運んでくる。
白いテーブルクロス、完璧なカトラリー。
「法と秩序で貧しい人々を救い、完璧な国を作る」と正人さんは真剣な顔で語った。
その善意は本物だ、と美智子にはわかる。
わかるのだが・・どうして自分は、コンソメより活字の重さを確かめたくて、黄ばんだ空の下の神田に来てしまうのだろう。
そのとき引き戸が、勢いよく開いた。
雨を含んだ風が吹き込み・・いや、雨は降っていない。
ただ、入ってきた男の勢いが、そういう感じだった。
傘も持たず、スーツはくたびれていて、黒い靴の先に泥がついている。
背が高く、肩幅が広い。
髪は少し長めで、無頓着にそのままにしてある。
インクのような黒さで額にかかっている。
店の黄ばんだ蛍光灯を背負って、影だけが先に入ってきたような男だった。
「あった、あった・・三島の『憂国』限定版」
男は美智子を一瞥もせず、ガラスケースに顔を近づけた。
呼吸が荒い。走ってきたらしかった。
タバコと、インクと、何か別のもの・・印刷の熱みたいな匂いが漂ってきた。
美智子は手の中の活字盤をそっとケースの縁に置き、男を見た。
三十センチも離れていない。
万年筆のインクで汚れた指が、ガラスの縁をつかんでいた。
袖口がほつれていた。
「あの」と美智子は言った。「私も今、それを・・」
「え?」
男が初めてこちらを向いた。
目が合う。
黒目がちな、少し充血した目だった。
「その本、私が先に手に取っていました」
「・・」
男は美智子の手元を見た。
美智子はケースの縁に置いた本に視線を落とした。
本だと思っていたものは活字盤で、『憂国』の限定版はケースの中、男の指の先に収まっている。
二人同時に気づいた。
「いや」と男が言う。
「俺はケースの中の本に触れてた」
「でも私が先に目をつけていました」
「目をつけてたって、手は出てないだろ」
「あなただって手は出ていないじゃないですか」
店主の老人が奥からのっそりと現れ、二人を交互に見た。
「ひとつしかないんで、じゃんけんでも・・」と言いかけて、雰囲気を察してやめた。
美智子は息を吐いた。
こういう押し問答は得意ではない。
争う必要のある場面に慣れていなかった。
いつもどこかで「まあいいか」と折れてしまう。
父に言われれば「はい」と言い、母に「正人さんはいい方よ」と言われれば「そうね」と言う。
ところが今日は、折れたくなかった。
「どうしてそんなに急いでいたんですか」と美智子は聞いた。
「取材中にメモの余白に引用したくなった。走り書きしたら字が汚くて読めなくなって、もう一度確かめようと思って」
「記者の方?」
「神奈川政経新聞。社会部」
男は無頓着な前髪を手の甲で払いながら、事もなげに言った。
美智子は少しだけ呼吸が変わるのを感じた。
新聞記者。
父の書斎に、よく新聞が積んであった。
読まれた形跡のない経済面の束と、赤線の引かれた社会面が、いつもちぐはぐに重なっていた。
社会面だけが、別の手で読まれたように見えた。
「引用したかった箇所は、どこですか」
「一ページ目の三行目」
「読めますよ、そのくらいなら」
美智子はガラスケースの縁に両手をつき、ケースの中の本をのぞき込んだ。
店主がケースを開けてくれる。
指でページをめくる。
・・花びらのように白い、若い肉体よ。
声に出すのはさすがに恥ずかしくて、美智子はノートを出して書き写した。
男に渡す。男は受け取って、インクで汚れた指でノートのページを押さえながら読んだ。
その目が、一度だけ細くなった。
文章を声に出さずに咀嚼するときの、あの目だと美智子は思った。
活字を追うとき、人はみんな少し無防備になる。
「・・これだ」
「買わないんですか」と美智子は聞いた。
「そんな金はない」
あっさりしすぎていて、美智子は少し笑った。
笑ってしまってから、笑うつもりではなかったことに気づいた。
「あなたの靴、泥だらけですね」
男は自分の足元を見て、「そうだな」と言った。
後悔も弁解もない。
ただ事実を確認しただけの声だった。
それから顔を上げて、美智子を見た。
「お前の手、インクで汚れてる」
美智子は自分の右手を見た。
活字盤を触りすぎていた。
指の第二関節のあたりに、鋳鉄のにぶい黒が染みている。
男はそれだけ言って、引き戸を押した。
黄ばんだ空の中に出ていく。振り返りもしなかった。
引き戸が閉まる。外の喧騒が一枚の膜の向こうに押しやられる。
店の中に、美智子一人が残された。
手のひらの黒い染みを、しばらく見つめていた。
洗えば落ちる。
それはわかっている。
正人さんなら、ハンカチをすぐ出してくれるだろう。
白いリネンのハンカチで、どこかの洗剤のいい匂いがして、染みはきれいに消えるだろう。
それは優しさだ。本物の優しさだ。
美智子には、そのことがわかる。
わかっているのに、今は落としたくないような気がした。
なぜかはわからない。
ただ、このインクの重さだけが・・頭の中のどこかにある霧に、かろうじて形を与えているような気がして。
店主がようやく顔を上げて、「何かお探しで?」と聞いた。
「『憂』という字を、一つください」
老人はうなずいて、引き出しを確かめた。
活字をひとつ小さな紙袋に入れて渡してくれる。
受け取ると、ずしりとした。
たった一文字の、この重さ。
美智子は代金を払い、日傘を手にして引き戸を開けた。
黄ばんだ空がまだそこにあった。
男が走ってきた方向とは逆の道を、ゆっくりと歩き始める。
コートのポケットの中で、紙袋を握りしめながら。
帰りの電車の中で、隣のサラリーマンが夕刊を広げた。
社会面の見出しに「公害」という字が見えた。
一字一字、活字が白い紙の上に並んでいる。
重さを持って。
男の名前を、聞かなかった。
聞かなかったのに、あのインクで汚れた指だけが、黄ばんだ春の空の色とともに、なかなか頭から離れなかった。




