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私の名前で暮らす朝 三島由紀夫が死んだ年、女はひとつの人生を選んだ  作者: かーすけ


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第二十九話 正人との最後の決別

 神田の小さな出版社に、美智子が通い始めて、二週間が経った。

 仕事は、ゲラ刷りの校正だった。

 最初は見習いという扱いで、先輩の担当者と二人で一冊のゲラを確認する作業だった。

 活字の一字一字を目で追って、誤字を拾い、表記のゆれを直し、組版のずれを指摘する。

 地味な仕事だった。

 でも、活字に触れる仕事だった。


 毎朝、出版社の狭い廊下に、印刷されたゲラが積み重なっている。

 その紙の束を手に取るたびに、美智子は思う。

 活字の重さを、神田の文具店で初めて感じた日のことを。

 あの日から、長い道のりがあった。

 今日、その道の入口に、ようやく立っている。


 三月に入ったある朝、出版社に電話があった。

「榊正人という方から、有馬さんにお電話です」と受付が言った。

 美智子はしばらく黙っていた。

「・・わかりました」と言って、受話器を受け取った。

「有馬さん」と正人の声がした。

 変わらない声だった。

「突然のご連絡をお許しください」

「いえ」

「お元気ですか」

「元気にしています」と美智子は言った。

「正人さんは」

「おかげさまで。お仕事が決まったと聞きました。よかったと思っています」

 誰から聞いたのか、と思ったが、聞かなかった。

 正人の人脈の中に、何かルートがあったのだろう。

「少し、お時間をいただけますか」と正人は言った。

「お話ししたいことがあります。ほんの少しだけで構いません」

「・・はい」と美智子は答えた。


 昼休み、神保町の近くのカフェで会った。

 正人はもう来ていた。

 テーブルの前に座って、メニューを見ていた。

 美智子が入ってくるのを見て、立ち上がった。

 軽く頭を下げた。

 今日の正人は、スーツではなかった。

 少し柔らかい、チェックのジャケットを着ていた。

 それが・・いつもの正人と少し違って見えた。


「ありがとうございます」と正人は言った。

 席に着いてから、もう一度そう言った。

「来てくださって」

「こちらこそ」

 コーヒーを注文した。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 正人が、テーブルの上で指を少し動かした。

 それが、何かを言いかけて、止めている動作だと、美智子にはわかった。


「津島さんのこと」と正人は言った。

「聞きました」

「はい」

「・・ご冥福をお祈りします」

「ありがとうございます」

「美智子さん」と正人は続けた。

「一つだけ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「今、困っていることはありますか。生活で、何か・・」

「今のところは」と美智子は言った。

「大丈夫です」

「そうですか」

 正人は少し間を置いた。

「それは、よかった」

 コーヒーが来た。

 二人とも手をつけなかった。

 窓の外、神保町の通りを人が歩いている。

 古書店の店先に本が並んでいる。

 三月の光が、石畳に落ちている。


「美智子さん」と正人はまた言った。

 今度は、少しだけ声のトーンが変わった。

 準備していた言葉を、出そうとしているような声だった。

「一つ、申し上げてもいいですか」

「はい」

「まだ、やり直せると、思っています」

 美智子は正人の顔を見た。

「先日の結納の席のことです」と正人は続けた。

「私も、あの後しばらく考えました。あなたが立ち上がったとき、何を感じていたのか。なぜ、そうしたのか。それを、もう少し理解したいと思っていました」

「・・はい」

「理解しきれているわけではないかもしれません。でも・・」

 正人は少し間を置いた。

「美智子さんが今、一人でいることは、私には、・・」

 言葉が、少しだけ止まった。

「僕が、君を・・預かろう、と思っています」

 その言葉が、テーブルの上に、静かに置かれた。


 美智子はその言葉を聞いた。

「預かろう」という言葉を。

 怒りは来なかった。

 嫌悪も来なかった。

 ただ、静かに、その言葉を見た。

 正人の言う「預かろう」に、悪意はない。

 誠実さがある。

 本当に心配している声だ。

「僕の手の届く場所にいてくれ。僕が守る」という意味を、正人は正直に言っている。

 嘘はない。

 でも、「預かる」という言葉の中に、自分の場所が見つけられない、と美智子は思った。

 預かられた命は、誰かの手の中にある。

 その手が、いつかなくなったとき・・どうなるのか。

 美智子は、コーヒーカップを手に取った。

 一口飲んだ。温かかった。

 正人は、静かに待っていた。

 急かさなかった。


 美智子は、コーヒーカップを置いて、正人を見た。

 微笑んだ。

 自分でも、少し驚いた。

 これほど自然に、微笑めるとは思わなかった。

 でも、微笑みが出てきた。

 怒りでも、悲しみでも、困惑でもない。

 ただ、正人への、温かい気持ちからくる微笑みだった。

 正人は、その微笑みを見て、少しだけ、息をついた気がした。


 美智子は首を、静かに振った。

「正人さん」と美智子は言った。

「はい」

「正人さんのお申し出、本当のことだとわかります。心配してくださっていることも、本当のことだとわかります」

「はい」

「ありがとうございます」と美智子は言った。

 そしてそれは、本当のことだった。

「でも」と美智子は続けた。

「一つだけ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「預かってもらった人生は、その人がいなくなったら、どうなるんでしょう」

 正人が、少し目を細めた。

「・・どういう意味ですか」

「誰かに預かってもらって、その人の傘の下で生きることは、できます。その方が、楽なこともたくさんある。でも、その人がいなくなったとき、その人の傘がなくなったとき、預けていた命は、どこへ行くんでしょう」

 正人は黙っていた。


「竜介さんが・・」と美智子は言った。

 その名前を出したとき、声が少しだけ揺れた。

 揺れることを、止めなかった。

「津島さんが、逝かれました。私は、彼に命を預けていたわけではなかった。でも、もし預けていたとしたら、今頃、どこへも行けなかったと思います」

 正人は、何も言わなかった。

「私は・・」と美智子は言った。

 少しだけ、間を置いた。

 胸の底から来る言葉を、一つ一つ確かめながら。


「自分の名前で暮らせるところまで、行ってみたい」

 その一言が、テーブルの上に、静かに落ちた。

「自分の名前で暮らせるところまで」・・どこまで行けるかはわからない。

 うまくいくかどうかもわからない。

 でも・・そこまで行ってみたい、と美智子は思っている。

「行ってみたい」という言葉は、確信ではなかった。

 でも、やってみずには、わからない。


 正人は、しばらく沈黙していた。

 長い沈黙だった。

 コーヒーの湯気が、細く上がっている。

 窓の外を、誰かが通り過ぎた。

 古本屋の店先の看板が、三月の風に少し揺れた。

「・・わかりました」と正人は言った。

 声が、静かだった。

 怒りがなかった。

 責める気配もなかった。

「それは間違っている」とも言わなかった。

「もっと現実的に考えなさい」とも言わなかった。

 ただ、「わかりました」と言った。

 美智子は正人を見た。

 正人の目が、今日は、少し違って見えた。

 いつもは整理されていた目が、今日は何かを、認めようとしている目をしていた。


「一つだけ」と正人は言った。

「美智子さんの言う通りにならないことも、あるかもしれません」

「はい」

「そのとき・・」と正人は言いかけた。

 そして、止まった。

 長い間があった。

「そのとき」と正人はもう一度言って、「どうか、無理をしすぎないでください」

 それだけだった。

 怒りでも、条件でも、引き止める言葉でも、なかった。

「無理をしすぎないでください」、その一言だけだった。

 美智子は頷いた。

「はい」

 正人は立ち上がった。コートを着た。

 財布を出して、コーヒー二人分の代金をテーブルに置いた。

「ご馳走様です」と美智子は言った。

 正人は首を振った。

「いえ」


 それから、正人は、美智子に向かって、深く頭を下げた。

 一度。

 ゆっくりと、深く。

 そして顔を上げて、店のドアに向かって歩いた。

 ドアが開いた。三月の光が、一瞬だけ差し込んだ。

 ドアが閉まった。

 正人は、行った。


 美智子はしばらく、テーブルの前に座っていた。

 正人のいたところに、空の椅子がある。

 コーヒーカップが一つ、手をつけないまま残っている。

 怒りを感じなかった。

 勝ったとも思わなかった。

 ただ、静かだった。

「無理をしすぎないでください」という正人の最後の言葉が、まだ空気の中にある気がした。

 それが彼の、最大の誠実さだった。


 美智子は、正人のことを、嫌いになれなかった。

 今日も、なれなかった。

 これからも、たぶん、なれない。

 正人は誠実だ。

 正人は悪くない。

 正人の世界は正しくて、整っていて、美智子の入る隙間がないだけだ。

 でも、美智子には、「自分の名前で暮らせるところまで行ってみたい」という気持ちがある。

 それで充分だ、と思った。


 美智子はコーヒーカップを手に取った。

 まだ少し温かかった。

 最後の一口を飲んだ。

 立ち上がった。

 鞄を持った。

 店を出た。

 三月の神田の通りに、光が満ちていた。

 石畳が、白く光っている。

 古書店の看板が、並んでいる。

 どこかで鳩が鳴いた。

 電線に止まった鳩が、一羽、飛び立った。

 美智子は出版社に向かって、歩き始めた。

 午後のゲラが、待っている。

 活字が、待っている。

 自分の手で確かめなければならない言葉たちが、待っている。


 一歩。

 また一歩。

「自分の名前で暮らせるところまで」、まだ、その途中だ。

 でも、歩いている。

 今日も、歩いている。

 三月の神田の空は、今日も青かった。

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