第三十話 神田のエレジー、新しい朝
春が来た。
桜が散り始めた日の朝、有馬美智子は六時に目を覚ました。
神保町の近くの、六畳の間借り部屋。
壁が薄い。
台所と洗面所は共用だ。
朝になると、廊下から他の住人の足音が聞こえる。
でも、今日の美智子には、その音がうるさくなかった。
生きている人間の音だ、と思った。
カーテンを開けた。
神田の春の光が、窓から入ってきた。
桜の花びらが、一枚、窓の外を横切って飛んでいった。
米を研いだ。
先週、自分で稼いだ給料で買った米。
千二百円の月給前払いから、百八十円を出して買った米。
研ぎながら、美智子は水の白さを見ていた。
米のでんぷんが水に溶けて、白く濁る。
ざっと流して、また研ぐ。
三回繰り返すと、水が澄んでくる。
火にかけた。
蓋をした。
米が炊けるまでの十五分、美智子はシャツを取り出した。
昨日洗って干しておいた、白いシャツ。
アイロン台を出した。
アイロンを出した。コンセントを入れた。
アイロンが温まるのを待ちながら、台所の方を見た。
米の炊ける音がしている。
ぽこ、ぽこ、という音。
蒸気が蓋の隙間から漏れて、甘い湯気が上がっている。
米が炊ける匂いは、実家の匂いとは違う。
あちらは大きな電気釜で炊く匂いだった。
ここは小さな鍋で炊く、少し焦げた匂いも混じる匂いだ。
同じではない。
でも、美味しい。
アイロンが温まった。
シャツを台に伸ばした。
アイロンを当てた。
糊の匂いが上がった。
その匂いを吸い込んだとき、竜介のシャツにアイロンをかけた日の匂いが、戻ってきた。
あの日、糊の匂いが立ち上がって、竜介が「この手触りが一番正直な言葉かもしれない」と言った日。
美智子が「そう思います」と答えた日。
あの六畳一間のアパートの、ヨレヨレのシャツの匂いが、今日の自分のシャツの糊の匂いと、少し重なった。
重なって、離れた。
あれは竜介のシャツだった。
今日は、自分のシャツだ。
同じ匂いで、違うシャツだ。
同じ手で、違う朝だ。
美智子はアイロンを動かしながら、その違いを、しっかりと感じた。
米が炊けた。
蓋を取った。
湯気が上がった。
出勤の前に、美智子は胸ポケットを確かめた。
竜介の手紙が、そこにある。
毎日、持ち歩いている。
読まない。
もう何度も読んで、全部の言葉を覚えている。
でも、持っている。
胸ポケットの中にあることが、今日も確かだとわかる。
「タイプライターの活字みたいに、お前にはお前の重さがある」
竜介の万年筆の文字が、今日も、そこにある。
美智子は部屋を出た。
神田の古書店街は、春の朝だった。
石畳に、薄い光が落ちていた。
どこかの店の前に、赤い椿が一輪、植木鉢に咲いている。
古書の匂いが、朝の空気に混じっている。
本と、紙と、少しの埃と・・神田の匂い。
歩きながら、美智子は通りの店々を見た。
ここは昨年の秋から、美智子の街になった。
最初は見知らぬ街だった。
でも今は、看板の並びを覚えた。
どの店がいつ開くかを覚えた。
角の古書店のおじさんが、毎朝八時に店を開けて、まず窓を拭くことを覚えた。
神田川沿いに出た。
水が、春の光を受けて、細く光っている。
神田川。
竜介と初めて食事をした場所。
「己、自分自身という意味の古い言い方だ」と竜介が教えた夜。
美智子が「竜介の記事を読んで手が震えた」と言った夜。
あの定食屋は、少し先にある。
今日は前を通り過ぎるだけだ。
でも、通り過ぎながら、美智子は少し立ち止まりたくなった。
立ち止まらなかった。
立ち止まらなかった理由は、先を急ぐからではない。
立ち止まらなくても、あの夜が、今日の自分の中にあるから。
神田川の水が、流れている。
変わらず、流れている。
美智子は川を一秒だけ見て、また歩き始めた。
出版社の扉を開けると、紙の匂いがした。
インクと紙と、少しの糊の匂い。
美智子が好きな匂いになっていた。
「おはようございます」と受付の田村さんが言った。
「おはようございます」と美智子は答えた。
自分の机に向かった。
ゲラ刷りが、積んであった。
今日の分のゲラだ。
昨日の校正が終わって、次の束が来ている。
三百ページほどの、小説のゲラだった。
タイトルは「夏の終わりに」という。
知らない作家の、知らない小説。
でも、読む。
一字一字、確かめながら、読む。
椅子に座って、ゲラを手に取った。
重かった。
紙の重さ。
活字の重さ。
その重さが、今日も、手のひらに来た。
どこかで、タイプライターの音がした。
別の部屋から、カチカチという音が聞こえてきた。
誰かが何かを打っている。
その音が、薄い壁越しに、美智子のいる部屋まで届いた。
美智子は、その音を聞きながら、ゲラを開いた。
一行目を読み始めた。
同じ春の朝、大岡修平は横浜にいた。
桟橋に近い、海に面した一角だった。
コートを着ていた。
ポケットに手を入れていた。
港の空気が来た。
塩の匂いと、重油の匂いと、海の冷たさが混じった空気。
三月まで寒かったが、四月に入ってからは、この海の空気も少し温んできた気がする。
修平は、港湾の事務所の前に立っていた。
小さな事務所だ。
扉に「作業員募集」という紙が貼ってあった。
先週、新聞の求人欄で見た。
港湾荷役の作業員。
特に技術は要らない。
体力があれば働ける。
修平は、その扉の前に五分ほど立っていた。
入るか、入らないか、ではなかった。
入る気持ちは、もうあった。
ただ、五分ほど立っていた。
港の空気を吸いながら、立っていた。
大学を出て、「護国義勇隊」に入って、先生の言葉を背骨にして生きてきた。
剣道を続けた。
思想を磨いた。
命を捨てる覚悟を、何度も自分に言い聞かせた。
先生の言葉の中に、自分の名前があると思っていた。
でも今、先生の名前もなく、「護国義勇隊」の名前もなく、修平は横浜の港の前に立っている。
コートのポケットの中に、小さなノートがある。
先週から、少しずつ書き始めたノート。
何を書いているか、自分でもまだよくわからない。
ただ、あの夜のことを書いている。
竜介の病室の夜のことを。
「お前が倒れるのと、俺が・・どっちが先なんだろうな」と言って、竜介の手を握った夜のことを。
みかんを剥いた夜のことを。
「竜介の言葉で生きるつもりはない」と修平は思っていた。
先生の言葉で生きようとして、できなかった。
竜介の言葉で生きようとすることも、できない。
では、何の言葉で生きるのか。
まだ、わからない。
でも、ノートに書き続けている。
自分の手で、自分の字で。
うまくはない。
整ってもいない。
でも、自分の言葉だ。
不格好な言葉が、不格好なノートの中にある。
修平は扉を押した。
きいっ、とドアが開いた。
事務所の中は、狭かった。
机が一つ。
男が一人いた。
四十代くらいの、日焼けした顔の男。
「あの」と修平は言った。
「求人の貼り紙を見て来ました」
男は修平を見た。
「今日から来られるか」
修平は少し間を置いた。
「はい」と言った。
それが、修平の、不格好な第一歩だった。
昼休み、美智子は出版社を出た。
神田川沿いを、少し歩いた。
桜は今日も散っていた。
川面に花びらが浮かんでいる。
水が、それをゆっくりと運んでいく。
神田の空は、今日も青かった。
万博の熱狂が去って、三島が死んで、竜介が死んで・・それでも、空は青かった。
変わらず、澄んでいる。
光化学スモッグの黄ばんだ日もあるが、今日のような春の日は、どこまでも青い。
美智子は立ち止まって、空を見た。
「大きな言葉なんていらない。今日を生きる手触りだけが真実よ」と、あの病室で自分が言った言葉を思い出した。
今日の手触り・・米を炊く手。
アイロンをかける手。
ゲラを持つ手。
インクで少し黒い、右手の指先。
これが、今日の真実。
胸ポケットに手を当てた。
竜介の手紙が、そこにある。
「お前にはお前の重さがある」
今日も、その重さを感じた。
竜介はもういない。
でも・・竜介の言葉は、ここにある。
活字になって、新聞の紙面に残っている。
「津島竜介(遺稿)」として、横浜のどこかの図書館に、今日も残っている。
そして、美智子の胸ポケットの中にも、残っている。
美智子は川から空へ、もう一度目を上げた。
青かった。
春の、澄んだ、一点の曇りもない青だった。
「自分の名前で、暮らせるところまで、行ってみたい」と正人に言った。
その「暮らせるところまで」は、どこまでなのか、まだわからない。
でも、今日も、ここに立っている。
神田川の水が流れている。
桜の花びらが舞っている。
古書店の看板が並んでいる。
どこかでタイプライターの音がする・・いや、それは出版社のものかもしれない。
聞こえないかもしれない。
でも、美智子の耳の奥に、その音は残っている。
カチ。
カチカチ。
また一文字。
美智子は、昼休みを終えて、出版社に向かって歩き始めた。
ゲラが待っている。
活字が待っている。
自分で稼いだ金で買った米が、今夜の台所に待っている。
洗濯物が、今日の風に乾いて、部屋に待っている。
全部が、自分の名前で、ここにある。
それだけで、今日は充分だ。
夕方、美智子は出版社を出た。
神田の石畳に、斜めの光が落ちていた。
春の夕方の光は、夏と違って、優しく傾く。
古書店の看板が、その光を受けて、少しだけ色を変えていた。
歩きながら、美智子は角の文具店の前を通った。
足が、少し止まった。
ここ。
ここで、竜介に最初に会った。
三島の限定本の前で、見知らぬ記者とぶつかった日。
「インクで汚れた手」を持った男が、「あの本はすでに売り切れです」と先に取っていった日。
あの日から、物語が動き始めた。
文具店の入口に、今日も活字の見本が飾ってある。
「憂」「己」「国」・・並んでいる。
美智子は、「己」の活字を目で探した。
あった。
「己」・・自分自身という意味の古い言い方。
その活字を見ながら、美智子は少しの間、立っていた。
入らなかった。
入らなくても・・「己」の重さは、今日の自分の中にある。
美智子は文具店の前を離れて、歩き続けた。
間借り部屋へ向かった。
米を炊く。
今夜も、自分で。
夜、横浜の港湾では、修平が最初の仕事を終えていた。
今日は荷物の積み下ろしの手伝いだった。
指示された通りに動いただけで、特に難しいことは何もなかった。
でも、身体を動かした。
汗をかいた。
仕事が終わって、賃金の一部を受け取った。
帰り道、修平はポケットのノートを出した。
今日のことを、少し書いた。
「今日、港で働いた。荷物を運んだ。重かった。帰りに煙草を一本買った。火をつけて、海を見た。先生の言葉は聞こえなかった。竜介の声も聞こえなかった。ただ、煙が夕暮れの空に上がっていくのを見ていた」
それだけを書いた。
うまくない文章。
でも、自分の字で、自分の言葉で、書いた。
ノートを閉じた。
横浜の夕空が、神田の方と同じ青さで、暗くなっていった。
星が出る前の、最後の青。
修平はその青を見ながら、港の道を歩いた。
どこへ向かっているのか、まだ完全にはわからない。
でも・・一歩だけ、踏み出した。
不格好な、でも確かな、一歩。
それで今夜は、充分だった。
夜、美智子は台所に立った。
鍋に水を入れた。
米を量った。
自分で稼いだ金で買った米を、自分の手で量った。
水に入れた。
火にかけた。
蓋をした。
米が炊ける音がし始めた。
ぽこ、ぽこ・・。
甘い湯気が、六畳の部屋に広がっていく。
美智子はその湯気を吸い込んだ。
北陸から送られてきた、竜介のアパートに放置されていた米袋、あの米ではない。
今日の米は、美智子が買った米。
でも、米を炊く匂いは、同じ。
同じ匂いが、今夜の六畳に満ちている。
洗濯したシャツが、部屋の隅に干してある。
明日も、アイロンをかける。
明日も、ゲラを読む。
明日も、神田の石畳を歩く。
明日も、「己」の活字が、文具店の棚に並んでいる。
美智子は窓を開けた。
春の夜の空気が入ってきた。
桜の花びらはもう見えないが、夜風に甘いものが混じっている気がした。
竜介の手紙は、今夜は机の上に置いてある。
「タイプライターの活字みたいに・・お前にはお前の重さがある」
その言葉が、今夜も、静かに置いてある。
読まなくても、知っている。
胸の底に、入っている。
美智子は窓を閉めた。
台所に戻った。
米を食べた。
自分で炊いた米が、美味しかった。
昭和四十六年の春。
万博の熱狂は去り、三島は死に、竜介は死んだ。
でも、神田の古書店街は、今日も本が並んでいる。
神田川は、今日も流れている。
石畳は、今日も誰かの足の下にある。
有馬美智子は、神田の小さな出版社で、活字の重さを確かめながら、働いている。
自分で炊いた米で、生きている。
自分で洗ったシャツで、街を歩いている。
大岡修平は、横浜の港で、荷物を運びながら、ポケットのノートに自分の言葉を書き始めている。
どこへ向かうのか、まだわからない。
でも、書いている。
自分の名前で、書き始めている。
それぞれの場所で、それぞれの重さで、それぞれの名前で、今日を生きている。
「私の名前で暮らす朝」は、今日の朝。
明日の朝でもある。
明後日の朝でもある。
決して劇的ではない。
大きな言葉も、高い理想も、命を賭けた誓いも、ない。
ただ、自分の名前で、今日の朝を生きている。
その「ただ」の重さが、今日の、すべて。
神田の空は、今日も青かった。




