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第9話 消えた女官

大梁国の後宮は、高い朱塗りの壁に囲まれた、帝のためだけの豪奢な巨大な鳥籠である。

外の荒んだ世界とは完全に隔絶されたその空間には、一年を通してむせ返るような百花の香りが漂い、美しい絹を纏った女たちが静かに息を潜めて暮らしている。

だが、その華やかな帳の裏側で、名もなき下級女官たちが音もなく消え続けていることに、都の男たちは誰も気づいていなかった。


御史台の薄暗い執務室。

机の上に広げた膨大な人事記録を前に、柳青蘭は兄の遺品である朱筆をピタリと止めた。

書類の束には、ここ数ヶ月の間に後宮を退官した女官たちの名がずらりと連なっている。その理由欄には、どれも判で押したように同じ文字が書き込まれていた。


『病のため、実家へ帰還』

『親の看病のため、実家へ帰還』


「……またですか。これで今月だけで二十人目」


低く作った声が、カビの匂いのする書庫に響く。

青蘭の頭の中では、すでに別の記録との照合が完了していた。

後宮を直接管理する内侍省――つまり張徳海の息がかかった部署が作成したこの名簿上では、彼女たちは故郷の村へ平和裏に帰ったことになっている。しかし、御史台に上がってくる地方からの戸籍変動の報告書には、彼女たちが村へ戻ったという記録は一切存在しないのだ。

帰郷するための旅費が国から支払われた形跡もない。関所を通った記録もない。

文字通り、後宮の門を出た瞬間に、二十人もの娘が煙のように消え失せている。


「記録上は実家に戻った。だから、誰も探さない。……張徳海のやり方ですね」


青蘭は朱筆で名簿の矛盾点を赤く囲みながら、小さく息を吐いた。

人は死ねば黙る。生きた人間も、文書一つでいとも容易く消し去ることができる。張徳海は、生きている人間を書類の上で都合よく移動させ、その存在ごと消し去る術を持っているのだ。

このまま書類を睨んでいても、消えた女官たちがどこへ送られたのか、真実に辿り着くことはできない。青蘭は、彼女たちと同じ部屋で寝起きしていたという下級女官から、直接話を聞くことを決意した。



後宮の外縁部、外部の役人との事務連絡に使われる簡素な面会所。

飾り気のない木の卓を前に、青蘭は男としての威儀を保つために歩幅を広げて立ち、官衣の長い袖を正して待っていた。胸をきつく縛る布が肋骨を締め付け、呼吸をするたびに微かな痛みをもたらすが、決して顔には出さない。


やがて、案内役に連れられて一人の少女が姿を現した。

小翠しょうすいという名の下級女官だ。まだあどけなさの残る顔立ちだが、その目はひどく怯え、小動物のように周囲を窺っている。

青蘭が鋭い視線を向けると、小翠はビクッと肩を震わせ、青蘭の足元へ逃げるように視線を落とした。


「柳青嵐だ。御史台から来た。……顔を上げなさい」


青蘭は、極力威圧感を与えないよう努めたつもりだった。だが、男の野太さを装うために喉の奥から絞り出した低い声は、狭い面会所に冷たく、そして酷く厳格に響き渡ってしまった。

小翠は顔を上げるどころか、両手で自らの袖を固く握りしめ、ガタガタと震え始めた。


「お、お役人様……わたくしは、何も……」

「何も恐れることはありません。ただ、少し尋ねたいだけです。先月、あなたの同室だった女官が三人も退官していますね。彼女たちは、本当に実家へ帰ったのですか?」


青蘭の問いに、小翠は弾かれたように首を横に振った。


「帰りました! 記録の通り、実家へ……っ」

「嘘をつく必要はありません」


青蘭は一歩踏み出し、卓の上に用意しておいた地方の戸籍記録の写しを示した。


「彼女たちの故郷の村に、戻った者は一人もいません。出発前、彼女たちは何か言っていませんでしたか? 荷物をまとめる様子は? 内侍省の役人から、何か特別な指示を……」

「知りません! 私は何も知りませんっ!」


小翠が悲鳴のような声を上げ、怯えきった様子で後退った。

その瞳には、隠しきれない絶望と、目の前に立つ『男の官吏』に対する明確な恐怖が張り付いていた。


「これ以上、何も聞かないでください……! お願いです、わたくしまで……っ」


ポロポロと大粒の涙をこぼし、小翠はその場に泣き崩れてしまった。

青蘭は、言葉を失い、伸ばしかけた手を空中で止めた。


無理もない、と青蘭は奥歯を噛む。

ここは後宮だ。絶対的な権力を持つ宦官や、高位の男たちによって支配された密室の世界。権力を持たない下級女官にとって、御史台の男官など、自分たちの命を紙切れ一枚でどうにでもできる恐ろしい存在でしかないのだ。

青蘭自身は女である。彼女を抱きしめ、同じ目線で痛みを分かち合い、背中をさすってやることができれば、きっと彼女は凍りついた心を溶かして真実を話してくれるだろう。

しかし、青蘭の胸は晒しで平らに潰され、声は低く濁り、立ち振る舞いは冷徹な男そのものだ。


「……申し訳ありませんでした。下がって構いません」


青蘭が静かに告げると、小翠は逃げるように面会所を飛び出していった。

パタン、と扉が閉まる音が、酷く虚しく響く。


男の名と姿がなければ、大梁国では官吏になれない。証拠を集め、法廷に立つ権利すら得られない。

けれど、男の姿をしている限り、決して聞けない声がある。

弱き女たちの痛みを救うために男になったはずなのに、その男の姿が、今まさに彼女たちを怯えさせ、口を閉ざさせているのだ。


『……見事な手詰まりだな、柳青嵐』


誰もいなくなった面会所の暗がりから、甘く冷たい声が滑り落ちてきた。

漆黒の衣を纏った毒の精霊、烏露である。

彼は音もなく青蘭の背後に立ち、その細い肩越しに形の良い顎を乗せた。


『お前は男の真似事は上手いが、女の心は開けないようだな。無理もない。お前が纏っているその分厚い皮は、あの怯えた小鳥たちにとっては処刑人の衣と同じだ』


烏露の氷のような指先が、青蘭の首筋をぞくりとなぞる。


『どうする? あの娘の口を割らせるために、私の毒で少し脅してやろうか? 恐怖には、より強い恐怖をぶつければいい』

「……馬鹿なことを言わないでください。私の許しなく殺すなと、言ったはずです」


青蘭は低く呻き、烏露の腕を振り払った。手首の毒痕が、戒めのようにズキリと痛む。


「証人を傷つけるなど、本末転倒です。私は、法と証言でこの事件を暴く。あなたの出番はありません」

『強情な女だ。だが、その意地がいつまで持つか見物だな』


烏露は皮肉な笑みを残し、再び影の中へと溶けていった。

青蘭は深く息を吐き、机の上に残された名簿をじっと見つめた。

このままでは、消えた女官たちの行方は闇に葬られる。張徳海の記録の支配を崩すためには、何としても後宮の奥深くに入り込み、彼女たちの『本当の声』を拾い上げなければならない。


男の姿ではダメだ。

だが、女に戻れば官吏としての権限を失い、最悪の場合は死罪となる。

進むことも退くこともできない暗礁に乗り上げた青蘭の脳裏に、ふと、後宮の高位に座る冷厳な女官の顔が思い浮かんだ。

白玉蓮。

彼女ならば、この強固な扉をこじ開ける鍵を知っているかもしれない。青蘭は決意を固め、再び朱筆を握り直した。

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