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第10話 白玉蓮の部屋

後宮の深部、高位の女官にのみ与えられる瀟洒な宮の奥室。

そこは、重厚な沈香の香りが満ちる、研ぎ澄まされた冷涼な空間だった。

御史台の若き官吏・柳青嵐としてそこに足を踏み入れた青蘭は、上座に静かに腰を下ろしている一人の女性の前で、深く頭を下げた。


彼女こそ、後宮の実務を取り仕切る高位女官、白玉蓮はく・ぎょくれんである。

氷の彫刻のように整った美貌と、感情を微塵も表に出さない冷ややかな瞳。彼女の前では、後宮の女たちは息をする音さえ気をつけるという。


「……御史台の柳大人が、私のような女官に一体何のご用でしょう」


玉が転がるような、しかしひどく冷たい声が響いた。

青蘭は顔を上げ、極力低い声を作って口を開いた。


「突然の訪問、お許しください。本日は、ここ数ヶ月で急増している下級女官の『実家帰還』について、お伺いしたく参りました」

「実家への帰還。……それが何か?」

「彼女たちの故郷の村の戸籍記録には、誰一人として戻った形跡がありません。白大人、彼女たちは本当に、実家へ帰ったのですか?」


青蘭の単刀直入な問いに、白玉蓮は微かに柳眉を動かしただけで、すぐには答えなかった。

彼女の氷のような視線が、青蘭の頭の先から爪先までを舐めるように滑っていく。


「柳大人。あなたは、少し不自然ですね」


唐突な言葉に、青蘭の背筋が凍りついた。


「不自然、とは……?」

「先ほどから、ずっと袖口を不自然なほど固く握りしめている。それに、歩幅を無理に広げているようですが、足運びの重心が男の官吏のそれとは違う。……声の出し方も、喉の奥を無理に押し潰しているように聞こえます」


心臓が早鐘のように鳴り始めた。

見抜かれる。男装をして官吏を騙っているという大罪が、そして袖の下に隠された『毒痕』が、この女の恐ろしく鋭い観察眼によって暴かれようとしている。

青蘭は、袖を握る手にさらに力を込め、必死に表情を保った。


「……病上がりなもので。体の節々が痛むのです。お見苦しいところをお見せしました」

「病、ですか」


白玉蓮は短く息を吐き、机の上の茶器を手に取った。


「男というものは、いつでも土足で私たちの領域に踏み込んできて、自分の欲しい答えだけを力ずくで奪っていこうとする。……女がこの制度の中で、どれほど息を殺して潰されているかなど、想像もせずに」


その言葉には、冷たさの中に、確かな怒りと諦観が入り混じっていた。


「柳大人。あなたが本当に病のせいであのような歩き方をしているのか、それとも『別の理由』があるのか、私には興味がありません。ですが、一つだけ確かなことがあります。……男の姿をしたあなたには、あの怯えた小鳥たちは絶対に口を開かないということです」


白玉蓮の言葉は、昼間に面会所で泣き崩れた小翠の姿を、青蘭の脳裏に鮮明に蘇らせた。


「では、どうすれば彼女たちの声を聞けるというのですか。このままでは、彼女たちの存在は帳簿から完全に消え去ってしまいます」

「……今夜、三更(真夜中)に、後宮の北にある古い離宮へ来なさい」


白玉蓮は、青蘭の顔を真っ直ぐに見据えて言った。


「ただし、その重苦しい『男の官衣』は脱いでくることです。……誰の目にもつかない、夜の闇に紛れるような『軽い衣』で」


それは、暗に「女の姿で来い」という指示に他ならなかった。

青蘭が息を呑むのを尻目に、白玉蓮は「お下がりください」と冷たく言い放ち、それ以上の対話を拒絶した。



夜半。

雲が月を隠す暗闇の中、青蘭は後宮の北にある古い離宮へと忍び込んでいた。

身に纏っているのは、男の官衣ではない。町娘が着るような、目立たない暗い色の薄衣だった。

胸を縛っていた布を解き、髪を結い下ろしたことで、身体を締め付けていた苦しさが嘘のように消え去っている。だが、同時に、身を守る鎧を失ったような恐ろしさが青蘭の足取りを重くしていた。


もしここで誰かに見つかれば、言い逃れはできない。

柳青嵐という男の官吏は存在せず、柳青蘭という一人の女が法を欺いていたことが完全に露見してしまう。

震える手で袖を握りしめ、黒い毒痕を隠しながら、青蘭は離宮の奥の部屋へと滑り込んだ。


そこには、ほのかな灯りに照らされて、二つの影があった。

一人は白玉蓮。そしてもう一人は、昼間、青蘭の前で怯えて泣き崩れた下級女官の小翠だった。


「来ましたね。……やはり、私の目に狂いはなかった」


女の姿になった青蘭を見て、白玉蓮はわずかに目元を和らげた。

小翠は、見知らぬ女の登場に驚いたように身をすくませたが、青蘭が静かにその前に跪くと、不思議そうに目を丸くした。


「小翠。驚かせて申し訳ありません。昼間、面会所であなたに話を聞いた……柳青嵐です」

「え……? お、お役人様……? でも、あなたは……女の方……」

「私の本当の名は、柳青蘭といいます。男の官吏を騙り、御史台に潜り込んでいます」


青蘭は、自らの最大の秘密を、小翠の目を真っ直ぐに見つめて打ち明けた。


「私は、消えた女官たちの行方を追っています。帳簿の上で彼女たちが実家に帰ったことになっているのは嘘だと分かっています。……お願いです。真実を話してはもらえませんか。あなたたちの声が、証拠になるのです」


青蘭は、小翠の手をそっと握った。

昼間、男の姿で威圧するように見下ろしていた時には決してできなかった、温かく、柔らかな接触だった。

小翠は、青蘭の手の温もりと、その真摯な瞳に触れ、ポロポロと涙をこぼし始めた。


「……怖かったのです。宦官様たちに、もし御史台の男の役人に何か聞かれても、絶対に何も話すなと……もし話せば、家族の命はないと脅されていて……っ」

「もう大丈夫です。私は男の役人ではありません。あなたと同じ、ただの女です」

「お役人、様……ううっ……!」


小翠は、青蘭の胸にすがりつくようにして泣きじゃくった。

青蘭は、彼女の震える背中を優しく撫でながら、静かに言葉を待った。やがて、小翠はしゃくりあげながら、恐ろしい真実を口にし始めた。


「みんな、実家になんて帰っていません……! 退官の記録が作られた夜、彼女たちはみんな、妃様のご実家である外戚の屋敷へと連れて行かれました……っ」

「外戚の屋敷へ? そこで何が……」

「わかりません……でも、連れて行かれた子たちは、みんな若くて器量の良い子ばかりで……きっと、どこかへ売り飛ばされるのだと……っ」


小翠の告白に、青蘭の背筋が凍った。

後宮の女官を書類上で「退官」させ、自由の身になったことにして、外戚の屋敷へ運び出し、人身売買を行っている。

張徳海の文書改竄能力があれば、そんな大規模な犯罪すら、完全に合法な出来事として処理することが可能なのだ。


青蘭は、小翠の背中を撫でながら、強く唇を噛み締めた。

男の名がなければ、大梁国では官吏になれない。証拠を集める権限も、法廷に立つ資格も得られない。

けれど、男の姿では、決して聞けない声がある。

制度に押し潰され、恐怖に怯える女たちの本当の痛みは、同じ女の痛みを分かち合える姿でなければ、決して掬い上げることはできないのだ。


白玉蓮が、静かに口を開いた。


「これが、後宮の暗部です。女は制度に潰され、記録の上で消されていく。柳青蘭、あなたは男の名で証拠を集めるというのなら、この女たちの声を、どうやって男の法廷で証拠にするおつもりですか?」


その問いは、冷酷なまでに現実的だった。

青蘭は、小翠を抱きしめたまま、白玉蓮の目を見つめ返した。


「私が、必ず正式な証拠に引き上げてみせます。燃やされない、誰にも改竄させない証拠を」


決意を込めたその言葉の裏で、青蘭の手首の『毒痕』が、闇の中で微かに熱を帯びていた。

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