第11話 実家に戻った女たち
薄暗い御史台の文書庫。
窓から差し込むわずかな朝日が、空気中を舞う埃を白く照らし出している。古い紙と墨が混じり合った、ひどく乾いた匂い。
柳青蘭は、山のように積まれた木簡と帳簿の真ん中に座り込み、瞬きも忘れたかのように文字の羅列を追い続けていた。
昨夜、後宮の離宮で小翠が流した涙の熱が、まだ手のひらに残っているような気がした。
女の姿に戻った青蘭の腕の中で、小翠は震えながら恐ろしい真実を口にした。
『みんな、実家になんて帰っていません……! 退官の記録が作られた夜、彼女たちはみんな、妃様のご実家である外戚の屋敷へと連れて行かれました……っ』
退官したはずの下級女官たちは、実家には帰っていない。皇帝の妃を輩出した有力な外戚の屋敷へと密かに連れ去られ、そこで慰み者として、あるいは他家への賄賂として売り飛ばされている。
それが、小翠の口から語られた、厚い壁に閉ざされた後宮の暗部だった。
「……記録上は、彼女たちは自由の身になって故郷へ帰ったことになっています」
青蘭は低く呟き、手元の名簿に朱筆を這わせた。
後宮を管理する内侍省が発行した『退官許可証』。そこには、女官たちの名と、故郷の村の名前、そして『親の病により帰還を許す』という定型文が並んでいる。
書類の末尾には、内侍省長官・張徳海の印が、血のように赤々と、そして一点のブレもなく押されていた。
胸を縛る布が、じわりと汗を吸って重い。息をするたびに肋骨が軋むが、今はその痛みすらも、気を引き締めるための楔として機能していた。官衣の長い袖から細い手首が覗かないよう、無意識のうちに生地を固く握りしめる。
青蘭の並外れた記憶力は、過去数ヶ月分の都の出入り記録を脳内に完全に展開していた。
城門の通行記録、関所の検問記録、駅伝馬の使用記録。戸部が管理するそれらの記録を何度照らし合わせても、この二十人もの娘たちが都を出て故郷へ向かった形跡は一切ない。
帰郷するための路銀が国から支給された記録もない。
「人間が二十人も移動すれば、必ず食料の消費や関所の通過記録が残るはずです。それが全く存在しないということは、彼女たちは都から一歩も出ていない……外戚の屋敷にいるという小翠の証言は、間違いなく真実です」
青蘭の唇から、苦い吐息が漏れる。
しかし、御史台の若き監察官が「下級女官の泣きながらの証言」だけで、強大な権力を持つ外戚の屋敷を強制捜索することなど不可能だ。朝廷において、女の証言は羽毛よりも軽い。確たる『物証』がなければ、大理寺は司法印を押しはしない。
「彼女たちが後宮から外戚の屋敷へ移送されたという、確かな記録……」
青蘭は、内侍省の記録庫から半ば強引に持ち出してきた別の帳簿の束を引き寄せた。
それは、後宮から外部の貴族や外戚へ下賜された『物品』の目録だった。
パラパラとページをめくる音が、静寂な書庫に響く。青蘭の目が、ある一日の記録にピタリと止まった。
「……先月の十五日。下級女官が五名、実家へ帰還した日」
青蘭は、退官名簿と物品目録を並べて置いた。
「同じ日の夜半。内侍省から外戚である董家の屋敷へ、『特産の絹織物、長箱にて五棹』が下賜されています」
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
青蘭は逸る気持ちを抑えながら、急いでページを繰り、別の日付を確認する。
「三日後。女官が三名、退官した日……董家へ『大型の陶器、木箱にて三つ』が下賜。さらにその五日後、女官が二名退官した日には、『江南の銘茶、茶箱にて二つ』が下賜されている」
数が、完全に一致していた。退官した女官の人数と、外戚屋敷へ夜間に運び出された大きな箱の数が。
一度ならず三度も、退官日と大型の下賜品の搬出日が重なるなど、偶然であるはずがない。
「人間を……箱詰めの物品として帳簿に記し、荷車で運び出しているのですね」
青蘭の口から、怒りに震える低い声が漏れた。
これが、張徳海の手口だ。
生きている人間を、書類の上で「実家に帰った」ことにして戸籍上の存在を消し去る。そして同時に、彼女たちを「物品」という別の記録にすり替え、堂々と表門から外戚の屋敷へと運び出す。
人間をモノとして扱う、あまりにも冷酷で、そして完璧な文書操作だった。
「人は死ねば黙る。だが文書は、こちらで喋らせられる……。張徳海は、本気でそうやって国を回しているつもりなのか」
青蘭は、朱筆を握る手にギリッと力を込めた。竹の軸が軋む音がする。
「生きた人間の声すらも文書で奪い、なかったことにするなど……。許されない。絶対に」
『ひどく怖い顔をしているな、柳青蘭』
ふと、書庫の影から、ひやりとした冷気と甘い香りが流れ込んできた。
見上げると、うず高く積まれた古い木簡の山の向こうに、漆黒の衣を纏った精霊・烏露が座っていた。
彼は長い脚を組み、面白そうに青蘭の険しい横顔を見下ろしている。
『人間が絹織物に化けるとは、面白い手品だ。お前の言う通り、張徳海という男はなかなかの悪党らしい。書類の束で人を喰い殺す化け物だな』
烏露は音もなく床に降り立つと、滑るように青蘭の背後に回り込み、耳元に顔を寄せた。
『どうする? あの去勢された男の喉元に、私の毒を流し込んでやろうか。あの男が血を吐いて死ねば、偽の記録もこれ以上は増えないだろう』
甘く、蠱惑的な囁き。
烏露の氷のような指先が、青蘭の袖口から覗く手首の毒痕をそっと撫でる。
その誘惑は、一瞬だけ青蘭の心を揺らした。張徳海を殺せば、これ以上の被害は防げるかもしれない。だが、青蘭はすぐに小さく首を横に振った。
「断ります。張徳海を殺しても、帳簿上の彼女たちは『実家に帰った』ままです。外戚の屋敷に囚われているという事実も、彼女たちのこれからの人生も、すべて闇に葬られてしまう」
『ふん。相変わらず強情だな。だが、お前がその薄っぺらい紙切れをいくら睨んだところで、証拠にはならんぞ』
烏露は、青蘭の手元の帳簿を顎でしゃくった。
『お前の見立ては正しいだろう。だが、あくまで「数が偶然一致している」だけだ。箱の中身が絹織物ではなく怯えた小鳥たちだったという決定的な証拠にはならない。大理寺の鈍物どもは、そんな曖昧な推測では司法印など押しはしないぞ』
「わかっています。だから……」
青蘭は、帳簿の束を閉じ、静かに立ち上がった。
官衣の長い袖を翻し、真っ直ぐに烏露の冷酷な目を見据える。
「後宮の出入り記録と、外戚屋敷の出入り記録を突き合わせる必要があります。箱が運び出された記録だけでなく、外戚屋敷の側で、その箱がどのように処理されたのか、あるいは新たな『使用人』が突然増えた記録がないかを」
『ほう。外戚の屋敷の帳簿を洗うと?』
烏露が、楽しげに口角を吊り上げた。
『後宮の帳簿以上に、権力を笠に着た外戚の屋敷の記録など、厳重に守られているはずだが? まさか、御史台の若造が正面から押し入って「裏帳簿を見せろ」と言うつもりではあるまいな』
「正面からは行きません。……ですが、必ず手に入れます。彼女たちの声を取り戻すために」
青蘭は、自らの手首の黒い痕を、もう片方の手でぎゅっと握りしめた。
張徳海という巨大な敵が、いよいよその恐ろしい輪郭を現し始めている。
記録で現実を殺す男に対し、青蘭は記録で現実を救い出さなければならない。
「私は、法廷に立たねばならないのです」
その言葉は、烏露へ向けたものではなく、自分自身の決意を固めるための誓いのようだった。




