第8話 殺すな、証拠を守れ
御史台の地下文書庫。冷たい石の床に座り込む青蘭の周囲には、カビの生えた古い木簡の匂いと、甘く腐ったような死の香りが入り混じっていた。
『私の力に頼りながら、私の残した痕を恐れるか。お前がその嘘に潰され、法を諦めた時、お前は完全に私のものになるのだ』
背後に立つ烏露の言葉が、氷の刃のように青蘭の鼓膜を突き刺す。
彼のひやりとした指先が、青蘭の官衣の袖口に滑り込み、黒く脈打つ手首の毒痕を愛撫するように撫でた。
「……触るな」
青蘭は、低く押し殺した声で吐き捨て、その冷たい手を力強く払い除けた。
よろめきながら立ち上がり、暗がりの中に立つ漆黒の精霊を真っ直ぐに睨みつける。胸を縛る布が苦しく、呼吸は浅いが、その瞳に宿る光だけは決して暗らせなかった。
「お前の力は、確かに強大だ。法が裁けない悪を、一瞬にして葬り去ることができる。……だが、毒は真実を灰にするだけだ」
『それがどうした? 悪人が死に、民が救われた。結果は同じだろう』
「違う!」
青蘭の叫びが、文書庫の壁に反響した。
「郭英が死んだことで、大理寺はすべての罪を死人に押し付け、無実の部下である李に濡れ衣を着せた。悪人を殺しても、その罪を記録として残さなければ、巨大な権力は簡単に別の誰かを身代わりにして生き延びる。お前の毒は、証拠を残さない。だから、罪のない者の血が流れる!」
青蘭は、兄の遺品である朱筆を握りしめ、烏露の冷酷な目を見つめ返した。
「これ以上、法を蔑ろにはしない。私が望むのは呪殺ではない、正当な裁きだ。お前が私の内にある怒りから生まれたというのなら……私の命に従え」
『……ほう?』
烏露が、面白そうに目を細めた。
「私の許しなく殺すな」
青蘭の言葉は、静かだが、絶対に揺るがない刃のような響きを持っていた。
「殺すより先に、証拠を守れ。燃やされようとする調書を、井戸に沈められようとする証人を。お前のその理不尽な力で、人間の法が真実に辿り着くための道を護れ。……それができないなら、私の前から消えろ」
張り詰めた沈黙が下りた。
烏露は感情の読めない顔で青蘭を見下ろしていたが、やがて、フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
『つまらんことを言う女だ。せっかく私が、憎い敵の臓腑を腐らせてやると言っているのに』
烏露は不満げに肩を竦めた。
『いいだろう。お前がそこまで人間の法という遅鈍な神を信じるなら、従うふりをしてやろう。だがな、柳青蘭。お前が守ろうとするその法自体が、根元から腐り落ちていた時……お前は必ず、再び私に「殺せ」と乞うことになる』
烏露の姿が、揺らめく影のように薄れていく。
『せいぜい足掻け。お前の怒りが極まるその時まで、待ってやろう』
冷たい空気がスッと引いていくのを感じ、青蘭は壁に手をついて大きく息を吐き出した。
手首の毒痕が、ほんの少しだけその熱と痛みを和らげたような気がした。
*
後宮の奥深く、内侍省の長官室。
豪奢な香炉から紫煙が立ち昇る中、皇帝の側近にして宦官の長である張徳海は、紫檀の机の上に広げられた数枚の文書を、蛇のような冷たい目で睥睨していた。
「……これが、あの若造の記録か」
張徳海の細い指先が、一枚の古い紙をなぞる。
それは数年前、地方から送られてきた『柳青嵐』の科挙の答案用紙であった。そしてその隣には、数日前に御史台で作成された、郭英の横領に関する調書が並べられている。
「はっ。柳青嵐は地方の寒村の出身。科挙に合格した後、重い病に倒れ、長らく床に伏せっていたと記録にあります。都へ上ってきたのはごく最近のことかと」
控えていた下級宦官の報告に、張徳海は薄く笑った。
「病み上がり、か。なるほど、確かに彼の調書は、御史台の官吏にしては不自然なほど筆が速く、内容も理路整然としている。……だが、私をごまかせると思うなよ」
張徳海は、二つの文書の文字を交互に指差した。
「人は嘘をつける。だが、記録は、文字の癖は嘘をつけない。見ろ。科挙の答案に書かれた文字は、線が細く、どこか気弱で迷いがある。だが、最近の調書の文字はどうだ。骨格こそ巧妙に似せているが、筆圧が全く違う。払いの端に、隠しきれない強い意志と力みがある」
張徳海の目は、獲物を見つけた蜘蛛のように不気味に光っていた。
「病に倒れ、死の淵を彷徨った人間が、これほどまでに文字の『芯』を変えるものか? 答えは否だ。……こいつは、何かを隠している」
「では、柳大人は……?」
「この国において、記録に齟齬がある者は、存在しないも同然だ。柳青嵐という男の戸籍、家族構成、都へ至るまでの足跡。すべてを洗い直せ。どんな些細な塵でもいい、矛盾を見つけ出せ」
張徳海は、青蘭の調書を指先で弾いた。
「人は死ねば黙る。だが文書は、こちらで喋らせられる。……この小賢しい若造の首を絞めるための、完璧な縄を編み上げろ」
*
翌日、御史台。
執務机に向かっていた青蘭の元に、梁景明が周囲の目を気にしながら素早く近づいてきた。
「青嵐。少し顔を貸せ」
人目のない書庫の影に連れ込まれると、梁景明は険しい顔で囁いた。
「気をつけろ。内侍省の連中が、お前の過去の調書と、科挙の記録をすべて持ち出していったぞ」
「……内侍省が、私の記録を?」
青蘭の背筋に、冷たい汗が伝った。
張徳海だ。あの男が、自分に探りを入れているのだ。
兄の文字を完璧に真似ているつもりだった。しかし、膨大な文書を扱う張徳海の目を、いつまで誤魔化し通せるだろうか。もし、兄の死と成り代わりが露見すれば、自分は終わりだ。
「心当たりがあるのか?」
「……いえ。何も」
青蘭は表情を消し、静かに首を振った。
「そうか。お前一人が血を被るなよ。何かあれば言え」
梁景明はそれだけ言うと、足早に立ち去った。
青蘭は、自らの執務机に戻り、震えそうになる手を必死に抑え込んで朱筆を握った。
立ち止まっている暇はない。張徳海の疑念を逸らすためにも、そして無実の李を救うためにも、次の不正を暴かなければならない。
青蘭は、机の端に積まれた新しい報告書の束を引き寄せた。
それは、各部署の人事異動の記録だった。青蘭の異常な記憶力が、文字の羅列の中から奇妙な偏りを見つけ出す。
「……後宮の、下級女官の退官記録?」
ここ数ヶ月、後宮から「実家に戻る」という理由で退官した下級女官の数が、例年の三倍近くに跳ね上がっている。しかも、そのほとんどが特定の地方出身者だった。
何かがおかしい。文書の向こう側に、またしても隠された悪意の臭いがする。
だが、青蘭は朱筆の動きを止めた。
後宮は、男官の立ち入りが厳しく制限された場所だ。ましてや、末端の下級女官たちが、高圧的な男の官吏相手に本当のことを話すはずがない。
男の名がなければ官吏になれない。けれど、男の姿では聞けない声がある。
青蘭は、自らの平らに潰された胸元にそっと手を当てた。
閉ざされた後宮の扉の奥に沈む証言を、一体どうやって掬い上げればいいのだろうか。




