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第7話 死人は便利だ

大理寺の地下牢へ続く冷たい石畳の廊下。

柳青蘭は、壁の陰に身を潜めながら、遠ざかっていく鎖の音をじっと聞いていた。

引き立てられていくのは、工部の若い実務官・李である。彼は項垂れ、一切の抵抗を諦めたような虚ろな足取りで、暗い牢獄の奥へと消えていった。


「……見届けて、どうなるものでもあるまい」


背後から、低い声が降ってきた。

振り返ると、御史台の先輩官吏である梁景明が、苦い顔をして腕を組んでいた。彼の指先には、李の処遇を決定づけた大理寺の調書の写しが握られている。


「あれが、私が毒……いや、不審死によって生み出してしまった、新しい『罪人』の姿ですか」

「お前が思い詰めることじゃない。郭英が突然死んだのは天罰だ。お前のせいじゃないさ」


梁景明は、青蘭の青ざめた横顔を鋭く見つめながら、手にした紙片をひらひらと揺らした。


「だがな、青嵐。これがこの国の現実だ。死人は便利だ。何でも背負わせられる」


死人は便利だ。

その言葉が、青蘭の胸に重く、冷たく突き刺さる。


「生きていれば口答えもする。言い訳も、反論もする。だが、死体は黙って権力者の筋書き通りに動く泥人形になる。工部の上層部は、郭英という死体にすべての横領の罪を被せた。そして、口封じのために部下の李を巻き込んだという美談に仕立て上げた。……完璧な調書だ。我々がいくら疑おうと、大理寺の印が押された以上、これが『真実』になる」

「そんな理不尽が、許されていいはずがありません……!」

「許されるかどうかの話などしていない!」


梁景明の低い一喝が、石の廊下に響いた。


「いいか、青嵐。お前は少し、目立ちすぎている。蘇文達、そして郭英。お前が嗅ぎ回った高官が、立て続けに得体の知れない死に方をしているんだ。上はすでに、ただの偶然とは思っていない」

「……どういう、意味ですか」

「深入りするなと言っているんだ。これ以上動けば、次はお前が『死人』にされて、誰かの罪を背負わされる番になるぞ」


梁景明はそれだけを言い捨てると、足早に暗い廊下の向こうへ立ち去っていった。

残された青蘭は、ぎゅっと唇を噛み締めた。

官衣の長い袖の中で、手首が焼けるように熱い。毒痕が、まるで自らの意志を持つかのように脈打っているのがわかった。



同じ頃。

後宮の奥深く、豪奢な調度品に囲まれた内侍省の長官室では、甘い香がゆったりと煙を上げていた。

紫檀の机に向かい、美しく手入れされた指先で茶器を弄んでいるのは、皇帝の側近にして宦官の長、張徳海である。

彼の前には、二つの死亡報告書が並べられていた。


「戸部侍郎、蘇文達。工部侍郎、郭英……か」


張徳海は、底知れぬ暗い瞳で、その無機質な文字の羅列を見下ろした。

文書を支配する彼にとって、人の生き死になど、筆一本でどうにでもなる数字の増減に過ぎない。しかし、この二人の死に様には、彼の神経を逆撫でする奇妙な共通点があった。


「どちらも、医官が首を傾げるほどの凄惨な吐血。そして、死の直前に『御史台の若造』に嗅ぎ回られていたという事実」


張徳海は、滑らかな動作で一枚の報告書を取り上げた。

そこには、担当官吏の名が記されている。


「柳、青嵐……。地方から上がってきたばかりの、青白い顔をした病弱な男。そう報告にはあるな」

「はっ。同僚の者たちの話によれば、女のように線が細く、いつも長い袖で手首を隠し、人との接触を極端に避けているとか」


控えていた下級宦官が、恭しく頭を下げる。

張徳海は、ふっ、と形の良い唇を歪めた。


「人は死ねば黙る。だが文書は、こちらで喋らせられる。……この柳青嵐という男が、どこで生まれ、誰に推挙され、どのような経歴で都へやってきたのか。過去の記録をすべて洗い直せ。少しでも帳簿に『空白』があれば、私がそれを黒く塗り潰してやろう」


冷酷な命令が下され、見えざる蜘蛛の糸が、青蘭の足元へと静かに伸び始めていた。



御史台の薄暗い文書庫に戻った青蘭は、人目を避けるように部屋の隅へ寄り、荒い息を吐き出していた。

額には脂汗が浮かび、胸をきつく縛り上げている布が、呼吸のたびに肋骨を軋ませる。

だが、最も耐え難いのは胸の苦しさではなかった。


「くっ……あ……っ」


青蘭は、震える手で右腕の袖を荒々しく捲り上げた。

白く細い手首。そこに浮かび上がっていた墨のような黒い『毒痕』は、前回の事件の時とは比較にならないほど、生々しく、そして広範囲に広がっていた。

手の甲の近くまで伸びた黒い染みは、まるで皮膚の下を這い回る毒蛇のようだ。

二人もの高官を殺した代償。烏露の力を使えば使うほど、この呪いの痕は濃く、深く、青蘭の肉体に刻み込まれていく。


「柳大人? そこにいるのですか?」


不意に、文書庫の入り口から声がした。

上官の使い走りによく来る、若い文官だった。青蘭は弾かれたように袖を引き下ろそうとしたが、毒痕の痛みに指先が痙攣し、上手く布を掴めない。


「柳大人、顔色がひどく悪いですよ! 大丈夫ですか!?」


異変に気づいた若い文官が、慌てて駆け寄ってくる。

彼は青蘭の異様な発汗と、浅い呼吸を見て顔色を変えた。


「いけません、これはただの疲労ではない。すぐに医官を呼びます! 脈を……!」

「触るなッ!!」


文官が青蘭の手首を掴もうと手を伸ばした瞬間。

青蘭は、自分でも驚くほどの鋭い声で叫び、彼の手を力任せに振り払っていた。

張り詰めた沈黙が、文書庫に落ちる。

文官は、驚きと戸惑いで目を丸くし、宙に浮いた自分の手と青蘭の顔を交互に見比べた。


「や……柳、大人……? 私はただ、あなたを心配して……」

「……失礼しました。大声を出して」


青蘭は、喉の奥にへばりつくような恐怖を必死に飲み込み、極力低い声を作って言った。

袖口を固く握りしめ、決して肌の隙間を見せないようにしながら、一歩後ずさる。


「ただの持病です。昔から、他人に触れられるのが……ひどく苦手で。医官は必要ありません。少し休めば治ります」

「しかし、その……袖口から、何か黒い痣のようなものが……。それに、あなたの胸の動悸は、少し異常に……」


文官の視線が、青蘭の袖口と、不自然に平らな胸元を往復する。

心臓が破裂しそうだった。

もしここで医官を呼ばれ、脈を診られ、衣服を剥ぎ取られれば、自分が『女』であることは一瞬で露見する。

手首の毒痕を見られれば、呪詛による暗殺を疑われる。

どちらに転んでも、待っているのは官職詐称の死罪か、それ以上の破滅だ。


「……見間違いでしょう。暗い部屋で、墨が跳ねただけです」


青蘭は、射殺すような冷たい視線で文官を睨みつけた。


「それよりも、他人の身体をジロジロと眺めるのは、文官としての礼節に欠けるのではありませんか。用がないなら、下がってください」

「あ……はい。申し訳ありません、出過ぎた真似を……」


青蘭のあまりの剣幕に、若い文官は怯えたように頭を下げ、逃げるように文書庫から出て行った。


一人残された青蘭は、膝の力が抜け、その場にへたり込んだ。

冷たい石の床に座り込み、長く息を吐き出す。震えが止まらなかった。


毒の代償は、見えないところから確実に青蘭の首を絞め始めている。

殺したという事実だけではない。この毒痕が少しでも人の目に触れれば、それがきっかけで『女』であるという最大の嘘すらも暴かれてしまう。

自分が兄の名を騙り、朝廷を欺いているという致命的な嘘。


『……脆いものだな、人間というのは』


暗がりの奥から、烏露の冷たく皮肉な声が響いた。

彼は影の中から音もなく現れると、青蘭の震える肩越しに、ぞっとするほど美しい顔を覗き込んだ。


『私の力に頼りながら、私の残した痕を恐れるか。医者に見せられない身体で、お前はいつまで男のふりを続けられる?』

「……お前には、関係のないことです」

『あるとも。お前がその嘘に潰され、法を諦めた時、お前は完全に私のものになるのだから』


烏露は、毒痕の疼く青蘭の手首を、愛おしそうに影の中から見つめていた。

青蘭は、暗闇の中で自らの袖を強く握りしめた。

もう、毒で人を殺してはいけない。

これ以上力を使えば、証拠も、真実も、そして自分自身の存在すらも、すべてが毒に飲み込まれてしまうのだから。

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