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第6話 毒は証拠を残さない

腐臭の漂う裏路地の奥。

みすぼらしい安宿の狭い部屋で、堤防工事の不正を記した『裏帳簿』が、無情にも火鉢の中で赤い炎を上げている。

それを命がけで守ろうとした帳簿係の孫は、腹を蹴り上げられ、土間に這いつくばって血を吐いていた。


「お前がこれ以上御史台を嗅ぎ回るなら、次にあの子がどうなるか……わかるよな?」


下品な笑いを浮かべる三人の男たち。その背後には、工部侍郎・郭英という巨大な権力が影を落としている。

戸の隙間からその光景を覗き見ていた柳青蘭は、長く垂れた官衣の袖の中で、自らの拳を血が滲むほど強く握りしめた。


『お前の怒りは正しい。あの男たちを殺せ。その背後にいる郭英も殺せ。私が、お前の代わりにその臓腑を腐らせてやる』


背後から青蘭の体を包み込むようにして、黒衣の精霊・烏露が甘く囁く。

その氷のように冷たい指先が、青蘭の手首に浮かぶ黒い『毒痕』をなぞった。瞬間、肌の奥底で黒い染みが脈打ち、どろどろとした怒りが沸点に達するのを感じた。


人間の法は遅い。

証拠を集め、調書を書き、印を求めている間に、弱き者たちの声は暴力によって理不尽に消されていく。

なら、いっそ。

あんな悪人どもなど、この世から跡形もなく消え去ってしまえばいい。


「……っ!」


青蘭が明確な殺意を抱いた瞬間、烏露の唇の端が妖しく吊り上がった。

ドサリ、と。

部屋の中から、重いものが崩れ落ちる音がした。


「が、あ……ッ!?」

「ごぼっ、ひぃ……熱い、喉が、焼ける……!!」


先ほどまで孫を蹴りつけていた男たちが、突如として喉を掻き毟り、床を転げ回っていた。

彼らの口から、どす黒い血と泥のような吐瀉物が溢れ出す。目を見開き、宙を掴むようにしてもがき苦しむ様は、まさに地獄の責め苦だった。

ほんの数瞬ののち、男たちは奇妙に捻じ曲がった姿勢のまま、ピクリとも動かなくなった。


「ひ、ひぃぃ……っ!」


孫が腰を抜かし、壁際まで後ずさる。

青蘭は荒い息を吐きながら、その惨状から目を逸らした。

殺した。いや、烏露の毒が殺したのだ。

だが、その道を作ったのは自分自身の怒りだ。


孫は震えながら青蘭を見たが、すぐに首を横に振った。


「……だめです。娘を取られています。私が口を開けば、あの子が殺される」


そう言い残し、孫は裏帳簿の灰を抱えるようにして、闇の中へ逃げた。

証人は生きている。

だが、その声はまだ鎖に繋がれていた。




翌朝、御史台は凄まじい喧騒に包まれていた。


「聞いたか! 工部侍郎の郭大人が、昨夜自室で急死されたそうだ!」

「またか……! 蘇大人の時と全く同じ、部屋中に黒い血をぶちまけての不審死だと……!」


廊下を行き交う官吏たちの青ざめた顔を見ながら、青蘭は自らの執務机で静かに息を吐いた。

郭英は死んだ。昨夜、あの路地裏で青蘭が「背後の黒幕もろとも消え去れ」と強く願った瞬間、毒は主犯である郭英の元へも届いていたのだ。


胸の奥に、冷たい爽快感が広がった。

これで、堤防工事の予算を中抜きし、民を濁流の危機に晒そうとした悪人は裁かれた。粗悪な材料で工事が進められることもなくなるだろう。

法の網の目をすり抜ける巨悪を、毒は一瞬にして葬り去った。

青蘭は、兄の遺品である朱筆を手に取り、郭英の告発状の束にそっと触れた。


しかし、その一時的な安堵は、昼を過ぎた頃に無惨にも打ち砕かれることになる。


「柳青嵐。工部の堤防工事の件だが、大理寺から通達が来たぞ」


先輩官吏の梁景明が、眉間に深い皺を寄せて青蘭の机に書類を置いた。


「郭英の死因は不明のままだが、あの男が進めていた不正工事の『犯人』が見つかったそうだ」

「犯人……? 郭英本人が主導していたはずでは」

「表向きはな。だが、工部から提出された新しい報告書によれば、予算を横領し、粗悪な材料を発注していたのは、郭英の部下である『』という若い実務官だということになっている」


青蘭は弾かれたように顔を上げた。

李。その名には見覚えがある。郭英の横暴に振り回されながらも、なんとか真っ当な工事を行おうと奔走していた、真面目で実直な官吏だったはずだ。


「そんな馬鹿な! 李は無実です。彼はむしろ、郭英の不正を止めようとしていた側の人間です。それに、末端の実務官一人に、莫大な予算を動かす権限などあるはずがない!」

「声が大きいぞ、青嵐」


梁景明が鋭く制する。


「お前の言う通り、誰が見ても不自然な筋書きだ。だがな、工部の上層部と大理寺は、すでにこれで話をつけちまったんだよ。

『李が私欲のために予算を横領した。それを上官である郭英に見咎められ、口封じのために未知の毒を使って暗殺した』……そういう完璧な調書が、つい先ほど完成した」


青蘭の血の気が引いた。


「郭英が死んだことで、工部の上層部にまで伸びるはずだった横領の『線』が完全に切れたんだ。帳簿の責任者である郭英という証人が消えた以上、上の連中は自分たちの罪をすべて、口答えできない死人と、力のない部下に押し付けることができる」


梁景明は忌々しそうに吐き捨てた。


「李は先ほど、大理寺の牢に連行された。横領と上官殺しの罪……十中八九、死罪だろうな」


視界がぐらりと揺れた。

青蘭は、机の上の書類を掴む手に力が入らないのを自覚した。


自分が殺したのだ。

あの時、怒りに任せて烏露の毒を許したから。

郭英を生かしたまま、証拠を集めて法廷に引き摺り出し、背後の黒幕まですべて証言させるべきだった。

毒は、悪人を殺すことはできる。だが、決して『証拠』を残さない。

証拠がなければ、真実は権力者の都合の良いように書き換えられ、無実の人間が身代わりとして処刑されてしまう。


青蘭はふらつく足取りで執務室を抜け出し、人目のない中庭の片隅へと駆け込んだ。

胃の奥からせり上がってくる吐き気を堪えながら、震える手で官衣の袖を捲り上げる。

白く細い手首に刻まれた黒い『毒痕』が、昨日よりも不気味に、そして色濃く広がっていた。


「……私は」


絞り出すような声が、冷たい風に溶ける。

男装を隠すために低く作った声ではなく、柳青蘭という一人の女としての、悲痛な震えだった。


「殺しては、いけなかったのでは……?」


悪人を裁いたと驕っていた。

しかし、毒で現実を塗り潰す行為は、記録を燃やして真実を消し去るあの悪徳官吏たちと、何ら変わりはないのではないか。

自分が毒に頼ったせいで、李という無実の命が今、理不尽に奪われようとしている。


『……何を震えている、青蘭』


ふと、背後の木陰から烏露が姿を現した。

彼は不思議そうな、そして酷く冷酷な瞳で青蘭の顔を覗き込む。


『悪人は死んだ。お前の望み通りにな。人間とは奇妙な生き物だ。自ら望んで手を下しておきながら、なぜそうやって後悔の涙を流す?』

「黙れ……お前には、わからない……!」


青蘭は自らの手首を強く握りしめ、烏露の冷たい視線を睨み返した。

法で裁けぬ悪を前にした時、毒はあまりにも甘く、手っ取り早い。

だが、その代償として支払われるのは、真実の喪失と、無実の者の血なのだ。

青蘭は初めて、己が手を出してしまった力の恐ろしさと、取り返しのつかない過ちに絶望していた。

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