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第5話 第二の罪人

御史台の地下に広がる文書庫は、一年を通して冷たく湿った空気が澱んでいる。

日の光が届かない薄暗がりの中、柳青蘭はうず高く積まれた木簡と紙の束に囲まれ、ひたすらに朱筆を走らせていた。


前回の事件――蘇文達の急死によって、救済米は民の手に渡った。

しかし、それは「法が勝った」結果ではない。法で裁ききれなかった悪を、正体不明の理不尽な死が飲み込んだだけだ。結果として、蘇文達の背後にいた真の黒幕への糸は完全に断ち切られ、生き残った役人たちはすべての罪を死者に被せて保身を図った。


「……死人は、本当に便利ですね」


乾いた声が、誰にも届くことなく文書庫の闇に吸い込まれる。

胸をきつく縛る布が、じわりと汗を吸って息苦しい。官衣の長い袖口から覗く自らの手首を一瞥する。そこには、あの日から消えることのない黒い毒痕が、じっとりと肌に張り付いていた。

これ以上、あの恐ろしい力に頼るわけにはいかない。ならば、人間の法で、決して逃げ道を与えないほど完璧な証拠の鎖を編み上げるしかないのだ。


青蘭が現在目を通しているのは、都の南を流れる大河の治水工事に関する帳簿だった。

数日前、地方の末端官吏から御史台にひそかに届けられた一枚の告発状。それによれば、工部侍郎である郭英かく・えいが、堤防工事の予算を大幅に中抜きし、劣悪な材料を使わせているという。


「……ここも、矛盾していますね」


青蘭の異常な記憶力が、膨大な記録の中から違和感を拾い上げる。

戸部の予算支出記録では、最高級の切り石を大量に購入したことになっている。しかし、水路の通行記録と照らし合わせると、その時期に石を積んだ重い船が関所を通った記録はない。代わりに、周辺の山から切り出された安価な土砂と粗悪な雑木ばかりが運ばれている。

これでは、次の大雨が来れば堤防はあっけなく決壊し、下流の村々は濁流に呑み込まれてしまうだろう。


青蘭は、証拠となる記述を朱筆で囲み、別の紙に素早く書き写していく。

ふと、文書庫の入り口付近で、書物を探しに来たらしい二人の先輩官吏の話し声が聞こえてきた。


「また地方からの陳情書か。どうせ上に握り潰されるだけだというのに、よく送ってくるものだ」

「全くだ。我々がいくら調べたところで、郭大人のような大物には届かんよ。……そういえば、病弱な景玄王の府には、なぜか地方の陳情書が集まっているという噂があったな」

「おい、滅多なことを言うな。あの引きこもりの皇弟殿下に、そんな力があるものか。さっさと仕事を終わらせて帰ろうぜ」


足音が遠ざかっていく。

病弱な景玄王。今の皇帝の異母弟であり、政治の表舞台には決して立たない無害な存在とされている人物だ。

(なぜ、力を持たない皇弟の元へ……?)

ささやかな疑問が頭をよぎったが、青蘭はすぐに思考を目の前の帳簿へと戻した。今は、噂を気にしている暇はない。


帳簿の矛盾だけでは、郭英を追い詰めるにはまだ弱い。あの蘇文達の時のように、「部下が勝手にやったことだ」と切り捨てられるのがオチだ。

決定的な証拠を手にするには、この告発状を命がけで御史台に届けてくれた末端の帳簿係――そんという男に直接会い、彼が隠し持っているという「裏帳簿」を受け取る必要があった。



その夜。青蘭は目立たない暗い色の衣に着替え、都の貧民街の奥深くへと足を運んでいた。

孫が身を隠しているという安宿は、壁の土が剥がれ落ち、ひどい腐臭のする路地裏にあった。

周囲を警戒しながら、青蘭が軋む木戸に手をかけようとした、その時。


「ぐ、ああッ……!」


中から、鈍い打撃音と共に、男のくぐもった悲鳴が聞こえた。

青蘭はハッとして、戸の隙間からそっと中を覗き込んだ。


埃っぽい狭い部屋の中央で、みすぼらしい身なりの男――孫が、床に這いつくばって血を吐いていた。

その周囲を、屈強な三人の男たちが取り囲んでいる。彼らの腰には、刃こぼれした刀が提げられていた。


「郭大人からの伝言だ。つまらん正義感は捨てて、大人しく田舎に帰れとな」


男の一人が、孫の腹を容赦なく蹴り上げた。

孫は呻き声を上げ、たまらず身を丸める。その手から、彼が命懸けで守ってきたであろう裏帳簿の束が滑り落ちた。

別の男がそれを拾い上げ、下品な笑いを浮かべる。


「これが証拠ってやつか? 馬鹿馬鹿しい」


男は、分厚い裏帳簿をビリビリと引き裂き、部屋の隅の火鉢へと放り込んだ。

炎が上がり、民を救うはずだった真実の記録が、またしても黒い灰へと変わっていく。


「や、やめてくれ……! それがなければ、村の皆が……!」

「村の心配より、自分の娘の心配をした方がいいんじゃないか? お前がこれ以上御史台を嗅ぎ回るなら、次にあの子がどうなるか……わかるよな?」


孫の顔が、絶望に歪んだ。

権力という暴力の前に、一人の弱い人間の覚悟など、あまりにも容易く踏みにじられていく。


戸の外で息を潜める青蘭は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

飛び込んで助けたい。しかし、青蘭の腕力では屈強な男三人には到底敵わない。剣の心得もない。持っているのは、一本の朱筆だけだ。

飛び込めば、自分が女であると露見する危険すらある。


証拠が焼かれる。証人が脅され、声が殺されていく。

どうすればいい。どうすれば、この理不尽を食い止められる。

焦燥と無力感が、青蘭の胸の中で黒い怒りへと変わっていく。


『――だから、殺せと言っているのだ』


唐突に、青蘭の背後から、氷のように冷たい両腕が伸びてきた。

ぞくりとするような死の気配。甘く腐った香りが、狭い路地裏の空気を塗り替える。

烏露だった。


漆黒の衣を纏った毒の精霊は、背後から青蘭の華奢な体をすっぽりと抱き込むようにして、耳元に顔を寄せた。


『人間の法とやらは、いつも遅い。お前が手に入れたかった証拠は、今まさに灰になったぞ』


烏露の冷たい指先が、青蘭の官衣の袖口に潜り込み、黒い毒痕の浮かぶ手首をそっと撫で上げた。

肌が粟立ち、内なる怒りが毒の脈動と呼応して熱を帯びる。


『お前の怒りは正しい。あの男たちを殺せ。その背後にいる郭英も殺せ。私が、お前の代わりにその臓腑を腐らせてやる』


烏露の囁きは、甘美な麻薬のようだった。

一言、命じればいい。そうすれば、あの男たちは血を吐いて倒れ、孫は救われる。悪は裁かれるのだ。

青蘭は、小刻みに震える己の拳を、血が滲むほど強く握りしめた。

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