第4話 救われた民、消えた線
幾日も大梁国の都を打ち据えていた冷たい雨が、ようやく上がった。
都の外れにある貧しい村の空には、薄鈍色の雲の隙間から、弱々しい陽光が射し込んでいる。
水溜まりを避けて泥濘む道を歩く青蘭の鼻を打ったのは、数日前に訪れた時のような、泥と汗と絶望の臭いではなかった。村の広場の中央に据えられたいくつもの大鍋から、ふつふつと沸き立つ温かな湯気と共に、ふっくらと煮えた米の甘い匂いが漂ってきている。
「お役人様!」
声に振り返ると、小さな影が駆け寄ってきた。阿梨だ。
両手で大切そうに木椀を抱えた彼女の頬は、以前の死人のような土気色から、ほんのりと赤みを取り戻しつつある。椀の中には、ただの泥水ではない、米の粒がしっかりと残る熱い粥が入っていた。
「これ、お役人様が取り返してくれたんでしょう? 蘇大人が死んで、悪い商人たちが急いで蔵を開けたって、村の大人たちが言ってました」
「……私は、何も」
青蘭は、喉の奥で作った低い男の声を、できるだけ優しく響かせようと努めた。
阿梨の大きな瞳の奥には、冷たい井戸の底に沈められた祖父を失った悲しみが、まだ色濃く残っている。失われた命が戻ることはない。それでも、温かい粥を口にできた安堵が、強張っていた子供の顔を確かに和らげ、村中から餓死者の影を遠ざけていた。
青蘭は、長く垂れた官衣の袖をぎゅっと握りしめた。
分厚い布越しに、自らの細い手首に浮かんだ黒い『毒痕』の存在を感じる。
蘇文達は、自分が抱いた明確な怒りと、烏露の毒によって死んだ。それは、人間の法を逸脱した、決して許されない呪いの力だ。
しかし、その呪いが蘇文達という分厚い壁を理不尽に破壊したことで、行き場を失っていた救済米が、堰を切ったように民の元へ流れ込んだのは事実だった。
法が死んだ国で、毒だけが飢えた子供の腹を満たした。
(私は……これを、完全に間違っていると切り捨てることなどできるのか)
阿梨のほっとしたような笑顔を前にして、青蘭は毒の力を否定し去ることができなかった。救われた命がここにあるという事実が、重く、苦しく、青蘭の胸を締め付けていた。
*
御史台の執務室に戻った青蘭は、胸をきつく縛り上げる布の息苦しさに耐えながら、うず高く積まれた木簡と紙の束に向き合っていた。
蘇文達の凄惨な急死は、朝廷に大きな波紋を呼んだ。その後始末に、御史台も朝から蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
青蘭は、己の机の上に広げた調書の控えをじっと見つめ、兄の遺品である朱筆を指先で転がしていた。
蘇文達は死んだ。救済米は民に戻った。だが、事件が終わったわけではない。
「蘇文達は戸部侍郎……確かに高官ですが、彼一人の権限で『勅命』を騙れるはずがない」
青蘭は、以前上官に突き返され、燃やされる直前に書き留めておいた記録の写しを睨みつける。
皇帝の意思である勅命。それを引き出し、あるいは巧妙に偽造し、御史台の捜査を強引に揉み消すほどの力を持つ者が、蘇文達の背後に必ずいるはずだった。
蘇文達を操っていた、真の黒幕。
その線を繋ぐため、青蘭は戸部の帳簿の流れや、関所の通行記録、そして不自然な印の欠けを再び洗い直そうとしていた。文字と文字の間に隠された矛盾を引きずり出せば、必ず次の悪人へと続く糸が見つかるはずだ。
そこへ、分厚い書類の束を抱えた上官が、足早に執務室へと入ってきた。
彼は青蘭の机に、どさりとその束を投げ落とした。重い紙の音が、静寂な部屋に響く。
「柳青嵐。救済米横流しの件だが、たった今、大理寺から最終報告が上がってきたぞ」
「大理寺から? 早すぎませんか。まだ関係商人と戸部役人への尋問が残っているはず……」
「その尋問が終わったのだ。全員が、あっさりと自白したよ」
上官は、どこか晴れ晴れとしたような、厄介払いが済んだ安堵の混じったため息を吐いた。
「関係者全員の供述が見事に一致した。豪商への米の横流しも、帳簿の改竄も、井戸の老人の口封じも……そして、我々の捜査を止めるために偽の勅命をちらつかせたことも。すべては、急死した蘇文達が『単独で』企て、部下たちに強要したことだと」
青蘭は、弾かれたように顔を上げた。
「単独……? そんな馬鹿な! あれほど大規模な米の移動と帳簿の偽造を、他部署の協力なしに戸部侍郎一人で完結できるはずがありません! 背後に必ず、より巨大な権力を持つ者が――」
「よせ、柳青嵐」
上官の声が、低く冷たく響いた。その目には、これ以上波風を立てるなという明確な警告の色が浮かんでいた。
「すべては死んだ蘇文達がやったことだ。生きている証人たちが、全員そう証言しているのだ。彼らは直属の上官の命令に逆らえず、泣く泣く従っただけの哀れな被害者だという調書に、既に大理寺の印が押されている」
青蘭は、机の上に投げ出された報告書を震える手で開いた。
そこには、並み居る役人や商人たちの署名と共に、一切の罪を蘇文達になすりつける言葉が、これでもかと整然と並べられていた。昨日まで蘇文達の威光を笠に着て嗤っていた者たちが、一夜にして掌を返し、死者にすべての泥を被せている。
死人に、口はない。
蘇文達は、自らの潔白を証明することも、黒幕の名を吐くこともできない。
だからこそ、生きている者たちは、都合の悪いすべての罪を、腐りゆく死体に喜んで背負わせたのだ。
「これでこの事件は見事に解決だ。首謀者は突然の天罰で急死し、米は民に配られ、巻き込まれた部下たちは寛大な処置を受ける。誰もが納得する美しい結末だろう。これ以上、存在しない影を追う必要はない。お前も、別の案件に取り掛かれ」
上官はそう言い残すと、足取りも軽く部屋を出て行った。
残された青蘭は、朱筆を握りしめたまま、その場に凍りついたように立ち尽くしていた。
血の気が引いていく。指先が恐ろしいほど冷たい。
完璧な、トカゲの尻尾切りだった。
黒幕に繋がっていたはずの唯一の線。それを、青蘭自身が『毒』で焼き切ってしまったのだ。
蘇文達を生かしたまま、証拠で追い詰め、その口を開かせるべきだった。しかし彼はもう、暗い土の下で沈黙するしかない肉の塊になってしまった。
『どうした、青蘭。随分と青い顔をしているな』
ふと、白昼の執務室の暗がりから、甘く皮肉な声が響いた。
振り返らなくともわかる。烏露だ。
いつの間にか背後に立っていた彼の、氷のような吐息が青蘭のうなじを撫でる。
『毒は悪人を一瞬で殺す。だが、死んだ肉塊は証言をしてくれない。……生きた人間どもにとって、何も喋らない死体ほど、都合の良いゴミ箱はないらしいな』
「黙れ……っ」
青蘭は、吐き捨てるように低く呻いた。
手首の黒い痕が、ズキズキと痛む。
あの宴の夜、毒で悪を裁いたと錯覚した一時的な爽快感は、すでに微塵も残っていなかった。
代わりに胸の中に泥のように溜まっていくのは、見えざる巨大な敵にまんまと逃げおおせられたという、冷ややかな敗北感と不穏な焦燥だった。




