第3話 法は遅い。毒は早い
都の歓楽街に建つ豪奢な妓楼の最上階。
外の冷たい雨音など届かないその部屋は、最高級の香が焚き染められ、むせ返るような熱気に満ちていた。
卓の上には、琥珀色の酒を満たした玉杯や、脂の乗った肉料理が所狭しと並べられている。
「いやはや、蘇大人。本日は見事な手腕でございましたな。あの若造の顔色が変わった瞬間といったら!」
対座する恰幅の良い豪商が、顔を赤くして手を叩いた。
戸部侍郎の蘇文達は、杯を干して喉を鳴らすと、肉厚な唇を歪めて鼻で笑った。
「たかが地方上がりの青二才が、正義漢ぶって噛み付いてきおって。帳簿と印さえ揃えておけば、この国ではそれが『真実』になるのだ。あの程度の小石、我が靴底の泥にもならん」
「左様でございますとも。おかげで我々の蔵には、上質な米がたっぷりと確保できました。流民どもに食わせるなど、米への冒涜というものです」
「全くだ。生きていても国益にならん蛆虫どもは、その辺の泥でも啜って静かに死んでいればいい。あの鬱陶しい老いぼれのように、な」
蘇文達は、検視報告書の束を燃やした時の、小気味良い炎の熱を思い出して目を細めた。
権力とは、命の重さすら紙切れ一枚で書き換えられる魔法だ。
心地よい酔いが全身を巡る。蘇文達は、新たな酒を注がれるままに、傲慢な笑い声を響かせ続けた。
*
深夜。
宴を終え、自邸の寝所に倒れ込んだ蘇文達は、唐突な吐き気で目を覚ました。
「……う、ぐ……?」
喉の奥が、焼け焦げたように熱い。
いや、熱いなどという生易しいものではない。まるで煮えたぎった鉛を直接流し込まれたような、尋常ではない激痛だった。
「水だ……誰か、水を持て……!」
声を絞り出そうとしたが、ひゅー、と空気が漏れる音しかしない。
寝台から転げ落ち、もがき苦しみながら水差しに手を伸ばす。だが、その手が何かに掴まれた。
ひやりとした、泥まみれの冷たい手だった。
『……返して……』
耳元で、少女のすすり泣く声がした。
いや、一人ではない。部屋の隅の暗がりから、ぞろぞろと無数の影が這い出してくる。
頬が痩せこけ、目が落ち窪んだ、泥まみれの流民たち。その中には、井戸に落として処理したはずの、あの老人の姿もあった。
『おらが孫の、米を……』
『泥水は苦い……草の根は痛い……』
「ひっ……!? 来るな、お前らは帳簿には存在しない……! 私は、戸部侍郎だぞ……!!」
幻覚だと頭では分かっているのに、彼らの冷たい手が首筋に、腕に、足首にまとわりつく感触は生々しかった。
そして、影の中から漆黒の衣を纏った青年が現れ、優雅に微笑んだ。
『お前の声も、文書の前では無力だろう?』
「あ、が……ァァァッ!!」
次の瞬間、蘇文達は真っ黒な血を大量に吐き出した。
胃袋が溶け、内臓が腐り落ちていくような絶望的な苦痛。彼は喉を掻き毟り、自らの爪で首の肉を裂きながら、誰にも届かない悲鳴を上げて絶命した。
*
翌朝、御史台はその噂で持ちきりだった。
「蘇大人が死んだそうだ。昨夜、自邸で突然……」
「顔中を掻き毟り、部屋中に黒い血をぶちまけていたと。医官も匙を投げるほどの、見たこともない凄惨な死に様だったらしい」
回廊を足早に歩きながら、青蘭はその言葉を黙って聞いていた。
胸の奥で、心臓が早鐘のように打っている。
昨日、自分から証拠を奪い、死者の声を笑いながら燃やしたあの男が、一晩で死んだ。
「……柳青嵐」
背後から声をかけられ、青蘭は振り返った。先輩官吏の梁景明だった。
彼は周囲を気にするように声を潜め、一枚の報告書を差し出した。
「お前が追っていた救済米の件だがな。蘇大人の急死で、癒着していた豪商どもがパニックを起こしたらしい。後ろ盾を失った途端、横流しした米が『横領の証拠』になるからな。奴ら、夜明けと共に蔵を開け放ち、軍の兵に引き渡したそうだ」
「……では」
「ああ。米は今朝、あの村の流民たちに配給された。粥の炊き出しも始まっている」
梁景明は鋭い視線で青蘭の顔を窺ったが、小さく息を吐いて立ち去った。
青蘭は、渡された報告書を握りしめた。
視界が滲む。
燃やされた真実は、蘇文達の死という恐怖によって、強引に形を変えて現実へと引き戻されたのだ。
阿梨は、粥を食べることができただろうか。泥水ではなく、温かい米を。
救われた。法が届かなかった民が、結果として救われたのだ。
誰もいない書庫へ入り、重い扉を閉めた瞬間、青蘭はその場にへたり込んだ。
震える手で、官衣の長い袖を捲り上げる。
白く細い手首に、墨をこぼしたような黒い痣が、まるで生き物のように薄く浮かび上がっていた。
『毒痕』。
昨夜、あの暗い廊下で蘇文達への明確な殺意を抱いた時、自分は確かに烏露の誘いを拒んだ。だが、心の中の黒い怒りが毒の道となり、蘇文達へと繋がってしまったのだ。
「……私の、せいだ」
恐ろしい。人間の命を、理の外からいとも容易く奪い去る力。
だが、青蘭の唇からは、不思議と後悔の言葉は出てこなかった。
悪人が死に、飢えた者が救われた。燃やされた証拠の灰の上に、確かな救済が生まれた。胸の奥に広がるのは、罪悪感よりも、ひんやりとした甘い安堵感だった。
「どうだ。毒は早いだろう?」
書庫の暗がりから、声がした。
顔を上げると、いつの間にか本棚の影に烏露が座っていた。
漆黒の衣を纏った彼は、まるで極上の美酒を味わうかのように、陶然とした笑みを浮かべて青蘭を見下ろしている。
青蘭は手首の黒い痕を隠すように、ゆっくりと袖を下ろした。
「……ええ」
静寂の中、青蘭の低く作った声が響いた。
毒を完全には否定できない。法で裁けない悪を葬り去るその圧倒的な力の前に、青蘭はただ、じっと烏露の妖しい瞳を見つめ返していた。




