第2話 帳簿上、民は飢えていない
降り頻る冷たい雨が、崩れかけた毒神祠の屋根を打ち据えている。
足元の泥濘に膝をつきそうになる青蘭の耳元で、漆黒の衣を纏う青年――烏露が、甘く冷たい声で囁いた。
「裁けぬなら、殺せばよい。私が代わりに腐らせてやる」
その言葉は、酷く魅力的だった。
権力に握り潰され、声なきまま井戸の底へ沈められた老人の絶望を思えば、いっそ目の前の妖かしに頷いてしまいたくなる。
烏露の氷のように冷たい指先が、青蘭の濡れた手首にそっと触れた。一瞬、肌の奥底に黒い染みが這い寄るような、奇妙な疼きが走る。
青蘭は弾かれたように身を引き、その手を振り払った。
「……お断りします」
喉の奥で作った低い声が、雨音に混じって震えた。
「私は大梁国の官吏、柳青嵐です。私怨や呪いではなく、人間の法と証拠で悪を裁く。それが、私がここに立つ理由だ」
「ほう?」
烏露は面白そうに目を細めた。雨の滴一つ浴びていない彼の姿は、この世の理から完全に外れている。
「人間の法、か。お前の信じるその法とやらは、随分と歩みが遅いらしい。あのアリのように惨めな老人すら救えなかったではないか」
「それでも……証拠を揃えれば、必ず」
青蘭は背を向け、泥に塗れた道を歩き出した。
背後から、烏露の低い笑い声が聞こえたような気がしたが、振り返ることはしなかった。
*
翌日。
御史台の奥深くにある審問室は、息が詰まるほど重苦しい空気に包まれていた。
壁沿いには書庫から持ち出された古い木簡や帳簿が山と積まれ、特有の墨と埃の匂いが漂っている。
青蘭は、厳しく胸を締め付けた布の苦しさに耐えながら、卓の前に立っていた。男の威儀を保つため、肩を張り、決して華奢な手首を見せないよう袖を深く握り込む。
その対面には、豪奢な絹の衣を纏った恰幅の良い男――戸部侍郎の蘇文達が、退屈そうに欠伸を噛み殺して座っていた。
かすかに漂う香の匂いが、飢えた村の泥の臭いを知る青蘭の鼻をつき、吐き気を催させた。
「……以上の証拠から、戸部が手配した救済米は、指定された貧困村には届いておりません」
青蘭は、卓の上に己が書き上げた調書と、証拠となる品々を並べた。
「荷車に付着していたのは管轄外の赤土。そして村に届いた数袋の米の縫い目は、蘇大人と懇意にしている豪商の蔵で使われる絹糸の結び目と完全に一致します。民の米は横流しされた。これは明白な事実です」
硬質な青蘭の声が響き渡るが、審問を司る上官は無表情のまま動かない。
蘇文達は、ふっ、と鼻で笑い、分厚い手で己の顎を撫でた。
「柳青嵐と言ったか。地方上がりの若造は、どうにも血の気が多くて困る。思い込みで上官を疑うとはな」
蘇文達は背後の部下に顎でしゃくり、一冊の真新しい帳簿を卓の上に放り投げさせた。
表紙には、戸部の正式な印璽がこれ見よがしに押されている。
「よく見ろ。帝からの救済米は、三日前に『滞りなく』配布済みだ。受け取った村長たちの署名と印も揃っている。何一つ問題はない」
「帳簿の数字など、いくらでも誤魔化せます!」
青蘭は声を荒げそうになるのを必死に堪え、低く押し殺した声で反論した。
「現に、村の民は飢えています! 粥の配給もなく、泥水と草の根を啜っているのです。何が配布済みですか!」
「ああ、あの村の周辺に群がっている汚い連中のことか」
蘇文達は、心底可哀想なものを見るような、酷薄な笑みを浮かべた。
「勘違いするな。救済米は、正しく戸籍に登録された『大梁国の民』に配られた。あの村に今いるのは、土地を捨てて流れ着いた『流民』だ。彼らは国の帳簿に存在しない。存在しない者に米を配る法など、大梁国にはないのだよ」
血の気が引くのが分かった。
流民。その一言で、飢えて死にゆく者たちを、最初からいなかったものとして切り捨てたのだ。
「詭弁です……! では、深夜に荷車が豪商の蔵へ向かうのを見たという、あの老人の証言はどうなるのです! 彼は――」
「ああ、その気の毒な老人のことなら、ここに報告書がある」
上官が、冷ややかな手つきで一枚の紙を差し出した。
そこには、検視官の印と共に、無機質な文字が並んでいた。
『夜半、泥酔の末に足を滑らせ、井戸へ転落し死亡。事故死と断定する』
「な……っ」
青蘭の唇が震えた。
粥すら満足に食べられない老人が、どうして酒など飲めるというのか。孫娘の阿梨の小さな手を握り、「本当のことを話す」と勇気を振り絞ったあの老人の決意を、ただの酔っ払いの事故として処理したというのか。
「お前の持ってきた『証拠』とやらは、存在しない流民の妄言と、酔っ払いの寝言を拾い集めただけの紙屑だ」
蘇文達が立ち上がり、青蘭の調書を無造作に掴み上げた。
そして、部屋の隅で赤々と燃える炭火の鉢へと、それを躊躇いなく放り込んだ。
「やめろ……!」
青蘭が手を伸ばすより早く、乾いた紙は一瞬で炎に包まれた。
死者の声に耳を傾け、徹夜で書き上げた文字。泥に這いつくばって集めた真実の欠片。兄の朱筆で書き記した正義が、黒い灰となって虚しく崩れ落ちていく。
「人は死ねば黙る。生きた者の声も、我々が残す文書の前では無力だ。帳簿の上では、民は飢えていない。それがこの国の『現実』だ。分かったか、若造」
蘇文達の冷笑が、いつまでも耳の奥で反響していた。
*
審問室を追い出された青蘭は、人気のない薄暗い回廊をふらつくような足取りで歩いていた。
長く垂れた袖の中で、固く握りしめた拳から血が滴り落ちる。爪が手のひらに食い込む痛みなど、全く感じなかった。
法が負けた。
証拠を揃えても、権力者が紙一枚で「存在しない」と書き換えれば、それが真実になってしまう。
あの炎の中で燃え尽きたのは、調書ではない。阿梨の祖父の命そのものだ。
「……だから言っただろう?」
唐突に、冷たい廊下の空気が甘く腐ったような匂いに変わった。
柱の影から、音もなく烏露が姿を現す。
彼は滑るように青蘭の背後に回り込み、その細い肩越しに顔を覗き込んできた。
「お前の紙切れは燃やされた。真実は消えた。人間の法は、悪人を守るためにあるらしいな」
「……黙れ」
「怒っているのだろう? 悔しいのだろう? あの豚のような役人が、お前の声を踏みにじったことが」
烏露の吐息が耳を撫でる。
彼の手が青蘭の腕を滑り降り、袖口から覗く手首をそっと撫でた。再び、ぞくりとするような黒い疼きが走る。
「私の名を呼べ、青蘭。ただ一言『殺せ』と命じればいい」
烏露の目が、妖しい光を帯びて青蘭を射抜く。
「そうすれば、あの肥え太った豚の喉は焼け爛れ、肺は溶け、血を吐いて死ぬ。帳簿も印も、毒の前では無力だ」
「私は……」
青蘭は目を閉じた。
殺してやりたい。蘇文達のあの傲慢な顔を、絶望と苦痛に歪ませてやりたい。阿梨の祖父が味わった冷たい死の恐怖を、何倍にもして叩き返してやりたい。
どろどろとした黒い怒りが、腹の底から湧き上がってくるのを抑えきれない。
「私は……!」
ギリッと奥歯を噛み締め、青蘭は暗い廊下の先を睨みつけた。
燃やされた真実の熱が、まだ目蓋の裏に焼き付いている。
青蘭は震える手で、袖の内に忍ばせていた覚書を引き抜いた。
燃やされた調書の控えではない。ただ、記憶を繋ぎ止めるための小さな紙片だった。
そこに、兄の朱筆で一つの名を書く。
蘇文達。
殺せとは言っていない。
ただ、名を書いただけだ。
けれど、その名を赤く引く指先には、消しようのない怒りが宿っていた。
背後で、烏露が笑った。
「聞いたぞ、青蘭」
冷たい指が、朱で染まった名をなぞる。
「最初の罪人は、蘇文達だ」




