第1話 女は官吏になれない
冷たい雨が、大梁国の都を重く打ち据えていた。
御史台の長く薄暗い廊下には、湿った風が吹き抜け、役人たちの着る官衣が擦れる乾いた音だけが響いている。墨と古い紙、そして埃の匂いが混じり合う、この国の法を司る中枢。
「見ろよ、あの柳青嵐を。今日も幽鬼のように青白い顔をして」
「まったく、女みたいに線が細い。あれでよく科挙の激務と、ここでの重圧を乗り切れたものだ」
「地方上がりの病弱者め。いつまで持つことやら」
すれ違う官吏たちの嘲るような視線と囁きが、背中に容赦なく突き刺さる。
柳青蘭は、彼らの言葉に表情一つ変えず、ただ前だけを見据えて歩みを進めた。
歩幅を無理に広げ、男としての威儀を保つ。
薄い布を幾重にも巻きつけて胸の膨らみを潰し、華奢な手首が決して露わにならないよう、官衣の長い袖を注意深く引き下ろす。声を出す時は、喉の奥に押し込むようにして一段低く作る。息が詰まるほどの窮屈さだが、気を抜くことは許されない。
女は科挙を受けられない。官吏にもなれない。
それが、この国の絶対の法であった。
もし、女であることが露見すれば、官職詐称で死罪、あるいはそれに等しい重罰は免れない。
それでも青蘭は、死んだ兄・青嵐の名と焼け残った官符を借り、偽りの男としてこの冷たい朝廷の末席に立っていた。
父は、無実の罪を着せられ処刑された。兄もまた、希望を抱いて都へ向かう途上で何者かに襲われ、命を落とした。
だから、ここにいる。真実を記録し、正しく悪を裁くために。
自らの執務机についた青蘭は、静かに息を吐き、兄の遺品である一本の朱筆を手に取った。
机の上には、木簡と紙の束がうず高く積まれている。
現在彼女が追っているのは、都の外れにある貧しい村で起きた『救済米横流し事件』だった。
青蘭の記憶力は、常人を遥かに凌駕している。
視線を滑らせるだけで、膨大な記録の断片が頭の中で次々と結びついていく。
「……第三倉庫の出庫印。左上の『天』の字の欠け方が不自然です。前日の記録と違う印璽が使われている。偽造ですね」
誰に聞かせるでもなく独り言ちながら、青蘭は朱筆で帳簿の矛盾を赤く染めていく。
次に確認したのは、運搬に使われた荷車についた泥の記録だった。関所を通った荷車の車輪には、都の黒土ではなく、管轄外の地質である赤土がこびりついていたという門番の報告がある。
さらに、村に届いたというごく少量の米袋。その縫い目は、政府が救済用に定めた粗い麻の二重縫いではなく、特定の豪商たちが使う絹糸の細かな結び目であることを示す報告書があった。
「帳簿上は、滞りなく飢えた民へ配られたことになっている。しかし、実際の米は高官である蘇文達の息のかかった商人の蔵へ、別経路で運ばれている……」
完璧な論理だった。
証拠の欠片は全て揃っている。点と点が繋がり、一つの明確な罪の形が浮かび上がった。
あとは、深夜に不審な荷車を見たという、あの村の老人の証言さえ正式に調書へ加えれば、蘇文達を捕らえる告発状が完成する。
数日前、泥濘にまみれた村へ赴いた時のことを思い出す。
老人は、阿梨という名の小さな孫娘の手を強く握り締め、青蘭の身なりに怯えながらも、こう言った。
『お役人様。私は見ました。大きな荷車は、広場を避けて真っ直ぐに豪商の屋敷の方へ向かっていったのです。この子が……飢えで死んでしまう前に、どうか本当のことを』
あの震える手の感触が、まだ残っている。
青蘭は、完成間近の分厚い調書を抱え、上官の部屋の重い扉を叩いた。
部屋の中は、質の良い香の匂いが満ちていた。
分厚い紫檀の机越しに、上官は不機嫌そうに青蘭の差し出した調書を見下ろした。
そして、一瞥しただけで、何ら興味を惹かれないというようにそれを床へと突き返した。
ばさりと、乾いた音を立てて紙束が散らばる。
「柳青嵐。その調書は破棄しろ」
「……なぜですか。証拠は揃っています。印璽の偽造、経路の矛盾、すべて裏付けが取れています。蘇文達が民の米を奪ったことは明白です」
青蘭の低い声に、上官は冷たい目を向けた。
「これ以上は触れるな。……勅命だ」
勅命。
その重く冷たい響きに、青蘭は息を呑んだ。
皇帝の意思。それが介在した瞬間、いかなる正当な証拠も、積み上げた真実も、ただの紙屑へと変わる。
「それに、お前が証人に呼ぼうとしていたあの村の老人だがな」
上官は、ひどく面倒そうに、しかし唇の端に薄笑いを浮かべて言った。
「昨晩、誤って井戸に落ちて死んだそうだ。夜道で酔っていたのだろう。気の毒にな」
心臓が、凍りついたように止まった。
死んだ。
阿梨の手を引き、怯えながらも本当のことを話すと約束してくれた、あの老人が。
「……事故なわけがありません。口封じです! あの老人が酒など飲めるはずがない、その日の粥すら……!」
「控えよ!!」
上官の怒声が部屋に響き渡る。
「死人に口はない。証言もない。帳簿の上では、民は救われているのだ。文書がそう語っている。……この件は終わりだ、下がれ」
青蘭は、床に散らばった己の調書を拾い上げることもできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
声が、殺された。
記録が現実を塗り替え、真実を井戸の底へと沈めてしまった。
夜。
雨はさらに激しさを増し、足元の泥濘を深くしていた。
都の片隅、忘れ去られたように建つ古い毒神祠。
青蘭は傘も差さず、泥に塗れながらその崩れかけた祠の前に立っていた。重い官衣が雨を吸い、ひどく冷たい。
法が死んでいる。
帳簿と印と、権力者の言葉だけが現実を作り出している。
弱い者の声は奪われ、正しい証拠は皇帝の一言で燃やされる。
「証拠を揃えても……真実を突きつけても、裁けないのなら……!」
握りしめた拳から、爪が食い込み血が滲む。
父の処刑。兄の不審な死。そして、冷たい井戸の底へ落とされた老人の顔がフラッシュバックする。
絶望と怒りが、青蘭の胸の中で黒く、どろどろと渦巻いていた。
いっそ、この手で奴らを殺せたら。あの薄ら笑いを浮かべる悪人どもを、跡形もなく消し去ることができたなら。
『……法は遅い。そうだろう?』
ふと、激しい雨音に混じって、甘く冷たい声が鼓膜を撫でた。
青蘭は弾かれたように顔を上げる。
いつの間にか、祠の暗がりの中に「それ」は立っていた。
闇そのものを切り取ったような漆黒の衣。
人間離れした、残酷なまでに美しい青年。
彼は、この豪雨の中で雨の滴一つ浴びることなく、ひどく面白そうに青蘭を見下ろしていた。
「誰だ、お前は……」
青蘭が後ずさると、青年は優雅な足取りで歩み寄り、冷たい指先で青蘭の濡れた頬に触れた。ぞっとするほど冷たい指だった。
「裁けぬなら、殺せばよい。お前は泣かなくていい。私が代わりに腐らせてやる」
皮肉な笑みを浮かべた唇が、青蘭の耳元でひやりと囁く。
「私は烏露。毒だ、柳青蘭」




