第40話 毒の要らない朝
大梁国の歴史を根底から揺るがした、景煬帝の廃位から数ヶ月。
都には新たな風が吹いていた。
新たな皇帝として即位した景玄王は、病弱な体を推して新政権を立ち上げ、張徳海をはじめとする旧体制の腐敗官吏たちを次々と法の下で裁き、その莫大な隠し財産を国庫と民へと還元し始めていた。
そして今日、御史台の正門に、ひとりの人物が立っていた。
柳青蘭である。
彼女が身に纏っているのは、かつてのような胸を苦しく締め付ける男装用の官衣ではない。彼女の本来の体格に合わせ、淡い青色で仕立てられた、女性用の新しい官衣だった。
「……随分と、待たせたな」
御史台の門から歩み出てきたのは、梁景明だった。彼は大理寺の過酷な牢から解放され、今は御史台の再建を担う中核として忙しく立ち働いている。
「梁大人」
「お前の官職詐称の罪に対する、大理寺と陛下の最終裁定が出た」
梁景明は、一枚の正式な公文書を青蘭に差し出した。
「お前の功績と、祖法審問への多大なる貢献を鑑み……柳青蘭を、女の『監察官』として正式に任命する。……ただし、これはあくまで陛下の一存による『特例』だ。女が官吏になれるという法が、正式に国法として認められたわけではない」
梁景明は、少しだけ皮肉げに、だが確かに温かい目を向けて言った。
「閉ざされていた強固な門に、ようやく最初の罅が入っただけだ。……お前がこじ開けたその隙間から、後に続く女たちが現れるかどうかは、今後の我々の働きにかかっている」
「……はい」
青蘭は、その重い公文書を両手でしっかりと受け取った。
胸を潰す必要もない。声を低く作る必要もない。
女である柳青蘭という名で、堂々と法廷に立つ権利を、彼女は自らの手で勝ち取ったのだ。
*
夕暮れ時。
都の片隅にひっそりと佇む、崩れかけた毒神祠。
青蘭は、新しい官衣のまま、かつて絶望の中で初めて精霊と出会ったこの場所を訪れていた。
「……終わったのですね」
青蘭が呟くと、祠の暗がりから、漆黒の衣を纏った烏露が音もなく姿を現した。
彼は相変わらず、人間離れした美しい顔に冷笑を浮かべ、青蘭の前に優雅に歩み寄った。
『フン。皇帝が代わったからといって、人間の本質が変わるわけではない。どうせまた数年もすれば、新しい権力者が数字をごまかし、弱い者を井戸に沈め始めるさ』
烏露は、青蘭の手首をそっと取った。
袖口から覗く肌には、かつて黒々と脈打っていた『毒痕』が刻まれている。
だが、その色は以前のような禍々しい漆黒ではなく、淡い墨色へと薄まっていた。
「……消えはしないのですね」
青蘭が静かに言うと、烏露は目を細めた。
『当然だ。お前が法で裁けぬ悪を前に、怒り、絶望し、私という毒を望んだという過去は……決してなかったことにはならない』
薄くなったとはいえ、消えない毒痕。
それは、青蘭が生涯背負い続けなければならない、人間の弱さと罪の証だった。
「ええ。忘れません」
青蘭は、烏露の手を振り払うことなく、自らの意志でその毒痕をもう片方の手で包み込んだ。
「私はこれからも、人間が作った不完全な法を信じて戦います。……もし、私が再び絶望に呑まれそうになった時は、この痕が、私を戒めてくれるでしょう」
青蘭は、真っ直ぐに烏露の深い闇のような瞳を見つめ返した。
「毒が要らない国になるまで、見届けなさい」
『……』
その言葉は、かつてのように精霊にすがるものではなく、一人の人間としての、対等で気高い命令だった。
烏露は、しばし呆然としたように青蘭を見つめていたが、やがて、喉の奥から心底楽しそうな、低く甘い笑い声を漏らした。
『……お前が私を選ばないなら、私はお前の法を守る毒になる』
烏露は、青蘭の手首にそっと冷たい唇を落とし、誓いのように囁いた。
『せいぜい長生きしろ、柳青蘭。……お前の法が腐ったら、また私が囁いてやる』
漆黒の精霊の姿が、夕闇に溶けるようにしてふわりと消え去った。
毒神祠の周りには、ただ静かな風の音だけが残されていた。
青蘭は、自らの手首の毒痕を真新しい官衣の袖で隠し、御史台へと続く道を歩き始めた。
夜明けの光が、東の空からゆっくりと差し込んでくる。
女の声が証拠にならなかった国で。
彼女はもう二度と、死んだ兄の名を名乗らない。
柳青蘭。
その名が書き記す調書が、これからもこの国の腐敗を暴き、声なき声に形を与え続けるのだ。
(了)




