第39話 玉座から降ろす
玉座の足元に転がった金細工の毒杯から、透明な毒液がじわじわと絨毯に染み込んでいく。
死という安易な逃避すら許されず、絶対的な権力者であった景煬帝は、ただ力なく自らの玉座に崩れ落ちた。
青蘭の放った「裁きは、死より重い」という言葉が、重い呪縛のように正殿の空気を縛り付けている。
大梁国建国以来、一度も使われることのなかった『六鎖の祖法』。
御史台の正式告発状、大理寺の司法印、宗正寺の祖法認定、禁軍大都督の不介入宣誓、皇族の連署、そして被害地三州以上の確たる物証。
これらすべての絶対条件を満たしたことで、皇帝を裁くための「公開審問」が、この朝廷の正殿において完全に成立した。もはや、この流れを押し留めることができる権力は、この国のどこにも存在しない。
「……景煬帝」
重苦しい静寂を破り、病弱な皇弟・景玄王が進み出た。
その顔は相変わらず青白かったが、足取りには確かな迷いがなく、背筋は真っ直ぐに伸びていた。彼は兄である皇帝を真っ直ぐに見据え、朗々とした、それでいて悲痛さを帯びた声で宣言した。
「宗正寺の裁定、ならびに皇族会議の総意に基づき、ここに通達する。……景煬帝は、国庫を私物化し、不当な略奪によって民を無用な死へと追いやった罪により、直ちにその玉座を譲位するものとする」
景煬帝は抵抗しなかった。ただ、薄く笑うような、泣くような、奇妙な表情を浮かべていた。
近衛兵たちが玉座に近づき、皇帝の証である重い冠を外し、龍の刺繍が施された外衣を剥ぎ取る。
それは、彼が絶対的な「神」から、法の下に裁かれる一人の「罪人」へと引き摺り下ろされた決定的な瞬間だった。
「譲位の儀式は後日執り行う。それまで、前帝は離宮にて厳重な幽閉とする」
景玄王の冷徹な命令により、かつての絶対君主は近衛兵に両脇を固められ、無言のまま正殿から連行されていった。
その後ろ姿を、廷臣たちは複雑な思いで見送った。彼ら自身もまた、張徳海や前帝の腐敗に加担し、甘い汁を吸っていた共犯者だ。この後、大理寺と新たな体制による徹底的な記録の精査と、粛清の嵐が吹き荒れることは明白だった。
「さて……」
帝が去り、新たな玉座の主となるべき景玄王が、ゆっくりと振り返った。
彼の視線の先には、女官の簡素な衣を纏った柳青蘭が立っている。
沈黙を破り、大理寺卿が重苦しい足取りで進み出た。
「最大の国賊は討たれました。……しかし、法は法です」
大理寺卿は、青蘭に向け、深く頭を下げた後、険しい表情で告げた。
「柳青蘭。そなたが命を懸けて集めた数々の証拠と、法を重んじるその不屈の心には、深く敬意を表する。そなたがいなければ、この国の腐敗は永遠に正されることはなかっただろう」
大理寺卿の声が、一段と重くなる。
「だが、そなたが『柳青嵐』という死んだ兄の名を騙り、性別を偽って朝廷の官吏となったことは、大梁国の法において死罪にも等しい『官職詐称』の大罪である。……法の下に万人が平等であるならば、帝を裁いたそなたもまた、その法によって裁かれねばならない」
廷臣たちの間に、ざわめきが広がった。
彼女は間違いなく、国を腐敗から救った英雄だ。しかし、彼女を無罪放免にすれば、「女は官吏になれない」という国法そのものを朝廷が自ら否定することになる。それは、古いしきたりに縛られたこの国において、帝を廃する以上の巨大な衝撃と矛盾を伴う問題だった。
「景玄王殿下……」
大理寺卿が、助けを求めるように景玄王を見た。
次代の皇帝となる景玄王が、特例として恩赦を出せば、彼女の命は救われるかもしれない。
だが、青蘭はそれを求めてはいなかった。
「大理寺卿。そして、次代の皇帝たる景玄王殿下」
青蘭は、自らの手で、足元に置かれていた兄の焼け残った官符を拾い上げた。
その瞳には、一切の揺らぎも、自らの行いを正当化しようとする見苦しい保身もなかった。
「私は兄の名を盗みました」
青蘭の静かで澄んだ声が、正殿の隅々にまで響く。
「調書を書くために嘘をつきました。そして、法で裁けぬ悪を前に、毒を望んだことがあります。だから私は、無傷で玉座の下に立つつもりはありません」
青蘭の言葉に、景玄王は小さく息を呑んだ。
彼女は、自分が女官の衣の下で、どれほど深い絶望と殺意に苛まれてきたかを知っている。毒の精霊の誘惑に屈しかけ、すべてを壊してしまおうとした自分の弱さも、兄の名を汚してしまった罪悪感も、すべてを隠さずに背負って、法廷に立っているのだ。
「私を、法に則り裁いてください」
青蘭は、兄の官符を両手で包み込むように持ち、深く頭を下げた。
「私が裁かれなければ、私がこれまで書き上げてきた調書も、法というものの絶対的な価値も、すべてが根底から崩れてしまいます。……法とは、守るべき時にだけ都合よく使う盾ではないはずです」
その言葉は、玉座に座っていた前帝や、保身のために記録を歪めてきた張徳海への、何よりの痛烈な批判であった。
法を信じるからこそ、自らも法の下に立つ。
その気高い覚悟に、大理寺卿も、景玄王も、ただ息を詰め、沈黙するしかなかった。
「……相分かった」
大理寺卿が、苦渋に満ちた声で宣告する。
「柳青蘭。そなたの官籍を、直ちに剥奪する。そなたはもはや、御史台の監察官ではない」
青蘭は、静かに目を閉じ、その言葉を受け入れた。
父の無実を証明し、兄の無念を晴らすために身に纏った偽りの名は、今、完全に失われた。
「ただし」
大理寺卿の言葉は、そこで終わらなかった。
彼は景玄王と深く視線を交わし、大きく息を吸い込んでから続けた。
「そなたが暴いた腐敗の全容と、祖法審問への多大なる貢献は、いかなる高位の官吏の功績よりも重い。……よって、そなたの官職詐称の罪については、大理寺にて『再審』の扱いとする。最終的な判決が下るまでの間、そなたは死罪を免れ、この朝廷が保護すべき重要な存在として遇されるものとする」
それは、死罪という最悪の結末を回避し、時間をかけて彼女の功績を法的に正当に評価するための、大理寺卿なりの、そして景玄王の意思を強く汲んだ、法が許すギリギリの譲歩であった。
「……感謝いたします」
青蘭は、静かに頭を下げた。
袖口の下で、黒く深く刻み込まれた『毒痕』が、まるで主の長く苦しい戦いが一つの終わりを迎えたことを安堵するかのように、微かな熱を帯びて沈黙していた。
帝は玉座から引き摺り下ろされ、悪臣は牢へと繋がれた。
嘘で塗り固められていた記録は正され、光の当たらない井戸の底から、確かな真実が引き上げられた。
そして青蘭自身も、すべての偽りの名と衣を脱ぎ捨て、ひとりの女として、堂々と人間の法の下に立ったのだ。




